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シャンパン グレイブ

ドバイの太陽は、死にゆく者に対しても平等に、その灼熱を浴びせる。

 一ドルの価値もなくなった「肉」を、闇の娼館が抱え続けてくれるはずもなかった。皮膚病に侵され、もはや声も出なくなった由紀は、ある深夜、ゴミ袋とともに裏路地の廃墟へと放り出された。

「……ぁ、……ぅ……」

 首に巻かれていた鉄の鎖は、売却の際に外された。自由になったはずの首筋には、錆びた鉄の色と、黄金の首輪が残した深い傷跡が、醜い腐食の輪となって刻まれている。

 由紀は這った。

 かつてルブタンのヒールで闊歩した足は、今や汚れと膿にまみれ、砂利の上を這うたびに激痛を走らせる。

 辿り着いたのは、建設が凍結された高層ビルの裏手。そこは、街から出た残飯や廃棄物が山のように積み上げられた、巨大なゴミ捨て場だった。

 腐敗臭と、たかる蝿の羽音。

 由紀は、廃棄されたソファのクッションの残骸の上に、力なく身を横たえた。

 薄れゆく意識の中で、彼女の瞳に映ったのは、砂漠の彼方に聳え立つ、世界一の超高層ビル『ブルジュ・ハリファ』の輝きだった。

 その光は、かつて彼女が愛し、憎み、そして焼き尽くした六本木や西麻布の夜景と、驚くほど似ていた。

「……あ、は……。……きれい……」

 その時、由紀の目の前に「幻影」が現れた。

 それは、これまでの人生で彼女が踏みにじってきた男たち、女たちの姿だった。

 会社を倒産させた社長、首を吊ったその妻、家庭を壊された女たち、そして自分を買い叩いた佐藤。彼らが皆、最高級のシャンパングラスを手に、彼女を囲んでいる。

「由紀、おめでとう。君が一番だよ」

「君に相応しい、最高のパーティーを用意したんだ」

 幻影の中の佐藤が、金色の液体が並々と注がれたグラスを彼女に差し出す。

 由紀は、震える手でそれを掴もうとした。

 だが、その指が触れた瞬間、シャンパンの泡は弾け、熱い砂となって彼女の口内を満たした。

「……ごほっ、……げほっ……!」

 喉に詰まる砂。肺に流れ込む死の予感。

 彼女が人生を賭けて手に入れようとした「輝き」の正体は、触れた瞬間に崩れ去る、ただの乾いた砂でしかなかったのだ。

 ふと、横に転がっていた割れた鏡の破片に、自分の今の顔が映った。

 老婆のように萎み、蝿にたかられ、汚物にまみれた、名もなき死体。

 

「……ああ……そうか……」

 由紀は、最後に一度だけ、静かに笑った。

 誰かを愛したことも、誰かに愛されたこともなかった。

 ただ、数字とブランドと、他人より上に立つという優越感だけで塗り固めた二十五年。

 その城が崩れた後に残ったのは、空っぽの、どこまでも空虚な自分という名の穴だけだった。

 視界が、次第に黄金色の砂に覆われていく。

 かつて彼女が男たちに「一滴残らず搾り取る」と言い放ったその言葉は、今、この砂漠の熱風によって、彼女自身の命に対して実行されようとしていた。

 血液が、水分が、意識が。

 ドバイの乾いた大地に吸い込まれていく。

 最後に見たのは、一番輝いていた頃の自分が、西麻布の交差点で空を見上げている姿。

『私、もっと高いところへ行くの』

 そう呟いた過去の自分の声が、砂嵐の音に溶けて消えた。

 翌朝。

 ゴミ収集の作業員が、ソファの残骸の上で、奇妙な格好で固まっている遺体を見つけた。

 

 その女は、何もない空を掴むように指を伸ばし、満足げな笑みを浮かべて死んでいたという。

 身元を示すものは何もなく、パスポートさえも砂の中に埋もれていた。

 

 彼女がかつて命よりも大切にしていたInstagramのアカウントは、パスワードを知る者がいなくなった世界で、ただ静かに「存在しない贅沢」を世界に発信し続けている。

 

 死体は、無造作にトラックの荷台へと放り込まれた。

 そこには、彼女がかつて愛したシャンパンの空瓶や、破れたブランドバッグのコピー品とともに、港区の女王だった女の無惨な残骸が、ただの「ゴミ」として積み上げられていた。

 砂漠の風が吹く。

 彼女の存在した証は、一瞬の泡のように弾け、二度と語られることはなかった。



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― 新着の感想 ―
一気見しました 正直ザマァとは思わなかった、若い女という高価値資産を運用するのは処世術の一つだと思ったからだ、彼女に溺れ散財した男達や夫・恋人も奪われた女達からしたらザマァなのだろうがそれはまた別の人…
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