第29話「エリーゼの査問」
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査問の朝。
エリーゼは、宿の部屋で——鏡の前に立っていた。
騎士の正装ではない。もう騎士団に所属していないから、着る資格がない。代わりに、白いシャツに、革のベスト。騎士だった頃の剣帯だけを腰に巻いた。——剣は差していない。
「……似合わないな」
鏡の中の自分に、呟いた。
ノックの音。
「エリーゼさん。——時間です」
誠の声だった。
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騎士団本部。王都の中央にある、石造りの巨大な建物。
エリーゼは——何百回も通った門をくぐった。だが、今日は通用口ではなく、正門だった。査問の被告として入る時は、正門を使う。それが規則だった。
門の前で、誠が足を止めた。
「エリーゼさん。——僕も同席させてください」
「だめだ。——部外者の同席は認められていない。規則だ」
「規則を——」
「是永。私は規則を守る人間だ。——規則が間違っていても、まずは守る。その上で変える。あんたが教えてくれたことだ」
「…………」
「心配するな。——一人で大丈夫だ」
エリーゼが——門をくぐった。
振り返らなかった。
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査問の間。
長い石のテーブルに、五人の査問官が座っていた。全員、騎士団の上級騎士。——エリーゼのかつての上官や同僚だった者もいる。
テーブルの端に、椅子が一つ。被告の席。
エリーゼが、椅子に座った。
「エリーゼ・フォン・ヘルマン元騎士。——貴殿に対する査問を開始する」
査問長——ヴィルヘルム・フォン・シュタイン上級騎士。六十代。白髪の、厳格な男だった。エリーゼが新人だった頃の教官。
「査問の理由を述べる。——先日の公開討論会において、貴殿は騎士団の名誉を著しく傷つける発言を行った。具体的には——『法が一部の人間だけを守るために設計されている』、『守るべきは法ではない』等の発言が、騎士団の信用を毀損したと判断された」
「…………」
「貴殿に弁明の機会を与える。——発言の趣旨を説明されたい」
エリーゼは——まっすぐに、査問官たちを見た。
「発言の趣旨を説明します。——私が言ったのは、事実です」
「事実?」
「この国の法典を読みました。全文を。——その結果、法が一部の人間だけを守る構造になっていることを確認しました。貴族の証言拒否権。財産の非開示。告発の身分制限。——これらは事実であり、法典に明記されています」
「法典の内容について論じることと、騎士団の名誉を傷つけることは別の問題だ」
「別の問題ではありません。——騎士団は法を執行する機関です。法が不正を可能にする構造であるなら、その法を執行する騎士団もまた——意図せず、不正を可能にする構造の一部になっている」
査問官の一人が——顔を強張らせた。
「エリーゼ。——言葉を慎め」
「慎みません。——査問は弁明の機会だと、先ほどシュタイン殿がおっしゃいました。弁明とは、自分の発言を撤回することではない。自分の発言の根拠を示すことです」
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シュタインが——書類を一枚、テーブルに置いた。
「エリーゼ。——この査問の結論は、すでに決まっている」
「…………」
「騎士団の名誉毀損。懲戒処分として——騎士の資格を剥奪する」
「騎士の資格を——」
「正確には——自主退団を勧告する。自主退団であれば、記録上は『個人的理由による退団』となる。懲戒による剥奪よりも、貴殿の名誉が守られる」
エリーゼは——黙って、シュタインを見た。
「……シュタイン殿。——それは、私の名誉を守るためですか。それとも、騎士団の名誉を守るためですか」
「…………」
「懲戒で剥奪すれば、理由を公表しなければならない。『公開討論会で法の問題を指摘した騎士を懲戒した』と。——それは、騎士団にとって都合が悪い。だから自主退団を勧める。——違いますか」
シュタインの表情が——動かなかった。だが、隣の査問官が、目を伏せた。
「エリーゼ。——勧告を受け入れるか否か、答えたまえ」
「質問があります」
「質問?」
「この査問は——誰の指示で行われていますか」
「騎士団の規則に基づく——」
「規則に基づく。——では、規則のどの条項ですか。『騎士団の名誉を著しく傷つける発言』の定義は、どこに書いてありますか。私の発言が名誉毀損にあたるという判断は、誰が、どの基準で行いましたか」
沈黙。
「……エリーゼ。この場は法廷ではない」
「法廷ではない。——でも、人の地位を剥奪する場です。地位を剥奪するなら、根拠が必要です。根拠を示せないなら——この査問自体が、権力の濫用です」
査問官の一人が——立ち上がりかけた。シュタインが手で制した。
「……座れ」
シュタインが、エリーゼを見た。——長い間。
「エリーゼ。——私は、お前の教官だった」
「はい」
「お前が騎士団に入った時——『正義のために戦いたい』と言った。覚えているか」
「覚えています」
「あの時、私はこう言った。『正義は厄介だ。自分が正義だと思った瞬間、人は間違える。——だから規則に従え』と」
「覚えています。——でもシュタイン殿。その規則が間違っていたら?」
「…………」
「規則に従うことが正義だと、今でも思いますか」
シュタインは——答えなかった。
だが、ペンを持つ手が——ほんの一瞬、止まった。書類の角を親指で擦った。無意識の、小さな動作だった。——三十年間、規則に従い続けた男の中で、何かが軋んでいた。
代わりに、書類をもう一枚取った。
「査問の結論を述べる。——エリーゼ・フォン・ヘルマン元騎士に対し、自主退団を勧告する。受諾の場合——」
「受諾します」
「…………」
「自主退団を受諾します。——ただし、理由は『個人的理由』ではない。『騎士団の法執行に対する異議申立て』です。記録にそう残してください」
「それは——」
「記録に残せないなら、私は懲戒処分を選びます。——懲戒なら、理由を公表しなければならない。騎士団が『法の問題を指摘した騎士を懲戒した』と公にすることになる。——どちらがいいですか」
シュタインが——長い、長い沈黙の後——ペンを取った。
「……記録する。退団理由:『法執行に関する意見の相違』」
「意見の相違。——まあ、いいでしょう。事実には違いない」
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査問の間を出た。
背後で——重い木の扉が閉まった。ごとり、と。十五年分の重さで。
廊下を歩いた。——何百回も歩いた廊下だった。石の壁。松明の光。革靴の音が響く。自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。
角を曲がった時——二人の若い騎士が、立っていた。
「エリーゼ殿」
「……お前たち」
「アルベルトとカーラです。——覚えていますか」
「覚えている。——私が訓練を担当した、新人の」
「新人だったのは三年前です。——今は、正規の騎士です」
「そうか。——立派になったな」
「エリーゼ殿。——査問の結果は聞きました。自主退団だと」
「ああ。——まあ、予想通りだ」
「私たちも——退団します」
「……何?」
「私たちだけじゃありません。——あと三人。合わせて五人が、エリーゼ殿と一緒に退団します」
エリーゼは——立ち止まった。
「……やめろ。お前たちまで退団する必要はない」
「必要はあります」
カーラが言った。——二十代前半の、小柄な女性騎士だった。
「エリーゼ殿。公開討論会での発言を聞きました。——全部、正しかった。私たちも、同じことを感じていました。法がおかしい。騎士団がおかしい。——でも、口に出せなかった」
「口に出せなかったのは——報復があるからだ。お前たちが退団すれば——」
「報復はあるでしょう。——でも、エリーゼ殿が一人で出ていくのを黙って見ていたら。私たちは——騎士として、何のために剣を持ったんですか」
「…………」
「エリーゼ殿が騎士団を出るなら——外でも戦えます。騎士団の中にいるよりも、自由に。——使ってください。私たちを」
アルベルトが、敬礼した。カーラも。
エリーゼは——しばらく、二人を見つめていた。
それから——小さく、笑った。
「……馬鹿だな。お前たちは」
「エリーゼ殿に言われたくないです」
「言わせろ。——馬鹿だ。でも——ありがたい馬鹿だ」
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騎士団本部の正門を出た。
門の前に——四人が待っていた。
誠。マリーナ。ルカ。クラウス。
ルカが——真っ先に走ってきた。
「エリーゼ——」
「大丈夫だ。——退団した。自分の意志で」
「自分の意志って——追い出されたんでしょ」
「追い出されたのか、出ていったのか。——どちらかは、私が決める。私は、出ていくことを選んだ」
誠が——一歩、前に出た。
「エリーゼさん。——すみません」
「謝るな」
「でも——僕のせいで」
「お前のせいじゃない。——私が選んだ。全部、私が選んだ。討論会で立ったのも。査問で弁明したのも。退団を受け入れたのも。——全て、私の判断だ。お前が背負うな」
「…………」
「それに——一人じゃなかった」
エリーゼの後ろから——五人の元騎士が、門を出てきた。
「紹介する。——アルベルト。カーラ。そしてマルクス、ユリア、ディーター。全員、元騎士だ。今日付で」
マリーナが——目を見開いた。
「六人? ——エリーゼを入れて六人が退団したの?」
「した。——馬鹿な連中だ」
「馬鹿じゃない」
カーラが言った。
「——必要だったんです」
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クラウスの屋敷。
誠が——静かに、状況を整理した。
「エリーゼさんの退団。五人の騎士の追随。——これは、二つの意味がある」
「二つ?」
「一つは、損失です。エリーゼさんは騎士団内部の情報源だった。退団したことで、騎士団の内部動向がわからなくなる」
「……確かに」
「もう一つは——しかし、利益です」
「利益?」
「エリーゼさんの退団と、五人の追随は——騎士団の中にも改革への共感者がいることを証明した。騎士団は一枚岩ではない。これは、中立派の貴族にとって大きな情報です」
クラウスが、頷いた。
「確かに。——騎士団が割れたという事実は、ルンゲの足元を揺るがす。騎士団はルンゲの実力行使の手足だ。その手足に亀裂が入った」
「さらに——五人の元騎士は、今日から自由に動ける。騎士団の規則に縛られない。市民として、法改正運動に参加できる」
「騎士の訓練を受けた人間が六人。——護衛としても、組織としても、力になる」
エリーゼが——少し、苦笑した。
「護衛か。——帳簿を守るために騎士を使う。贅沢な話だ」
「紙が最強なんです。——何度も言ってるでしょう」
「言ってるな。——わかったよ。紙を守る騎士になろう」
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その夜。
エリーゼは——一人で、宿の屋上に立っていた。
夜の王都。街の灯りが、遠くに見える。——騎士団の本部の灯りも。
十五年間、あの建物で過ごした。十八で入団し、三十三の今日まで。
もう、あの門をくぐることはない。
「……十五年か」
風が吹いた。
「悔いは——ない。ない、と言い切れる。——嘘ではない」
ただ。
「寂しくないかと聞かれたら——寂しい。あの場所が好きだった。朝の訓練場の空気。仲間との任務。石畳を歩く足音。——全部、好きだった」
エリーゼは——空を見上げた。
「でも——好きな場所に、正しくない仕組みがあった。好きだからこそ——見過ごせなかった。好きだからこそ——変わってほしかった」
足音がした。——ルカだった。
「……エリーゼ。起きてたの」
「ああ。——お前こそ」
「寝れなくて」
ルカが、エリーゼの隣に立った。——二人で、夜の街を見た。
「……エリーゼ。——怖くなかった? 査問」
「怖かった」
「え」
「怖かったよ。——十五年いた場所から追い出される。怖くないわけがない。——でも」
「でも?」
「あの場で黙ることの方が、もっと怖かった。——黙って、うつむいて、『すみませんでした』と言えば、退団せずに済んだかもしれない。でも——それをやったら。私は二度と、自分の言葉を信じられなくなる」
「…………」
「ルカ。——お前が法典を読んで、『市民四回、貴族二百三十七回』と数えた時。怖かったか」
「怖くなかった。——だって、数えただけだもん」
「そうだ。——数えただけだ。読んだだけだ。事実を言っただけだ。——それで罰せられるなら、罰する側が間違っている」
ルカが——小さく、頷いた。
「……エリーゼ」
「なんだ」
「あたしも——いつか、あたしの言葉で立つ。エリーゼみたいに」
「お前は——もう立ってるよ。市民通信の記事。あれは、お前の言葉だ」
「……そうかな」
「そうだ。——十四歳の言葉が、五百人に届いた。もう十分、立ってる」
ルカが——エリーゼの腕に、少しだけ、寄りかかった。
エリーゼは——何も言わず、そのままにしていた。
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翌朝。
市民通信第五号。
記事の冒頭。
「公開討論会の翌日、エリーゼ・フォン・ヘルマン元騎士が騎士団を退団しました。理由は——『法執行に関する意見の相違』。五人の現役騎士が、エリーゼと共に退団しました。——この事実が意味するものを、市民一人ひとりに考えていただきたい」
記事の末尾。
「自分の言葉で立つこと。——それは、権力に対する最も静かな、最も強い抵抗です」
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同じ朝。
ルンゲの屋敷。
「六人が退団? ——たかが六人だ」
「しかし閣下。市民の間で——エリーゼの査問が話題になっております。市民通信が——」
「市民通信か。——あの紙切れが、まだ流通しているのか」
「はい。——第五号は、推定で千人以上に——」
ルンゲが——杯を置いた。音が立った。
「……是永。——お前は潰しても潰しても、紙で返してくる。紙と数字で。——苛立たしい男だ」
「閣下。どう対処——」
「議会だ。——法改正案が提出される前に、議会の空気を固める。中立派を——完全にこちら側に引き込む。金で。脅しで。何でもいい」
「クラウス子爵が接触した中立派のうち、三人が前向きだとの——」
「三人程度なら——崩せる。三人の領地の弱点を洗え。交易路。借財。親族。——使えるものは全て使う」
密偵が去った後。
ルンゲは——窓際に立った。
「……議決まで、あと何日だ。——時間は、まだある。時間がある限り——数を集めた方が勝つ。それが、議会だ」
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