第27話「中立派の沈黙」
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フリードリヒ・フォン・グラーフ男爵の屋敷は、王都の東区にあった。
中規模の領地を持つ、中堅の貴族。貴族議会では目立った発言をせず、大勢に従う——典型的な中立派。
誠とクラウスが、二人で訪ねた。
「……子爵殿。珍しいですな、わざわざお越しとは」
「グラーフ男爵。突然の訪問、失礼する。——少し、話がしたい」
「話? ——何の話でしょう」
グラーフ男爵は、五十代の男だった。人の良さそうな顔をしている。——だが、目は警戒していた。
「先日の集会禁止令について、あなたが懸念を示していると聞いた」
「…………」
グラーフの表情が、一瞬で変わった。——警戒が、恐怖に。
「誰から聞いたのです」
「それは言えない。——だが、あなたが不安を感じているのは事実か」
「……ここでは話せません」
「では、どこなら」
「…………」
グラーフは、窓の外を見た。通りを歩く騎士の姿が見えた。——巡回だろう。日常の光景だ。だが、グラーフの目には、それが監視に見えていた。
「……書斎へ。——従者は下がらせます」
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書斎の扉を閉めた。
グラーフは——椅子に座らず、立ったまま話し始めた。
「クラウス殿。率直に言います。——私は、あなたの法改正案に反対ではない」
「では——」
「だが、賛成もできない」
「…………」
「私の領地は、ルンゲ伯の商圏と重なっている。ルンゲ伯の商人ギルドを通さなければ、領地の農産物を王都で売れない。——私がルンゲ伯に逆らえば、領地の経済が止まる」
誠は——黙って、聞いていた。
「是永殿と言いましたか。——あなたは異界の人間だと聞いている。異界には、こういう構造はないのですか」
「……ありました。名前が違うだけです。——サプライチェーンの支配。流通の独占。取引先を人質にした圧力。前の世界にも、同じ構造がありました」
「では——わかるでしょう。私が動けない理由が」
「わかります。——だからこそ、聞きたい。もし、ルンゲ伯の報復を防ぐ仕組みがあったら——動けますか」
グラーフが——初めて、誠の目を見た。
「仕組み?」
「あなたの領地の農産物を、ルンゲの商圏を通さずに販売するルートを確保できたら。そして、あなたの賛成票が個人として特定されない仕組みがあったら」
「……そんなことが可能なのですか」
「可能かどうかは、これから調べます。——ただ、方向性として。もし可能だったら」
グラーフは——長い間、黙った。
「……考えさせてください」
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屋敷を出た後。
「是永殿。——あの男は、動くか」
「わかりません。——でも、『考えさせてください』は、前の世界では脈ありの返事です。本当にダメな人は、即座に断る」
「脈あり?」
「可能性がある、という意味です。——ただし、条件次第。彼が必要としているのは正義ではない。安全です」
「安全か。——正義で動かないのは、腹立たしいな」
「腹立たしくても、現実です。——全員が正義で動けるわけじゃない。特に、守るものがある人間は」
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次の訪問。
ベルタ・フォン・ヴァイス男爵夫人。
四十代。夫を早くに亡くし、一人で領地を経営している。堅実で慎重な人物——とクラウスの評価だった。
「法改正。——理念はわかります。だが、実現可能性が見えない」
「実現可能性を上げるために、今日伺いました」
「上げる? ——どうやって」
「まず、あなたの領地が抱えている問題を教えてください。法改正が、あなたの領地にどう影響するかを具体的にお見せします」
ベルタは——少し、驚いた顔をした。
「……法改正を売り込みに来て、まず相手の話を聞くんですか」
「はい。——押し付けるつもりはありません。あなたにとって法改正が意味のあるものでなければ、賛成する理由がない」
「…………」
誠は、鞄から羊皮紙を取り出した。ベルタの領地のデータだった。——マリーナの商人ネットワークを通じて集めた、領地の経済情報。
「ヴァイス男爵領。人口約三千。主な産業は小麦栽培と羊毛加工。——過去五年間で、徴税率が二度引き上げられている。王宮の命令によるものですが——」
「……それは」
「引き上げの根拠が不明です。他の同規模の領地では引き上げがない。——あなたの領地だけが対象になっている理由を、ご存知ですか」
ベルタの顔色が、変わった。
「……知っています。——三年前、貴族議会でルンゲ伯の提案に反対票を投じたことがある。それ以降です」
「報復ですか」
「証拠はありません。——だが、タイミングが一致している。偶然にしては、あまりにも」
「法改正案の柱の一つに、情報公開の法制化があります。——これが実現すれば、徴税率の引き上げには根拠の開示が義務付けられる。根拠なき引き上げは、法的に無効にできる」
「…………」
「ベルタ男爵夫人。法改正は——あなたの領地を守る盾にもなります」
ベルタは——長い沈黙の後、小さく頷いた。
「……話は、聞きました。——ただし、他の貴族がどう動くかを見てからでないと、私は動けない」
「わかりました。——他の貴族の動向は、随時お伝えします」
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ベルタの屋敷を出た時——誠は、通りの角に立つ男に気づいた。
何気ない格好をしている。だが、目が合った瞬間、さっと視線を逸らした。——そして、歩き始めた。誠たちとは反対方向に。
「……クラウス卿。今の男」
「気づいたか。——尾行だ。ここ三日、私の屋敷の周囲にもいる。ルンゲの目だ」
「訪問先が全て把握されている」
「だろうな。——次に誰を訪ねるかも、おそらく予想されている」
春の陽射しは暖かかったが、誠の背筋は冷たかった。
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三人目。四人目。五人目。
誠とクラウスは——一人ずつ、中立派の貴族を訪ねた。
全員に共通していたのは、三つだった。
一つ。ルンゲへの不満はある。——だが、口には出せない。
二つ。法改正の理念には反対しない。——だが、リスクを取りたくない。
三つ。他の貴族が動くなら動く。——自分が最初には動きたくない。
「……全員が、『他の誰かが先に動くなら』と言っている」
クラウスの書斎で。誠が、訪問結果をまとめた羊皮紙を広げた。
「典型的な集団行動の罠です。——全員が合理的に判断した結果、誰も動かない。前の世界では『集合行為問題』と呼びます」
「呼び方はどうでもいい。——どう解くんだ」
「二つの方法があります。——一つは、最初の一人を作ること。誰かが先に動けば、連鎖が始まる。もう一つは——動かなくてもいい仕組みを作ること」
「動かなくてもいい?」
「秘密投票です」
「…………」
「貴族議会の投票は、現在は挙手制です。——誰が賛成し、誰が反対したかが全員にわかる。だから、ルンゲの報復を恐れて反対票を投じられない」
「秘密投票にすれば——誰がどう投じたかわからなくなる」
「はい。——秘密投票なら、『自分が賛成したこと』をルンゲに知られずに済む。リスクがゼロになる」
クラウスが、椅子の背に体を預けた。
「……理屈は完璧だ。——だが、秘密投票の導入自体が、貴族議会の議決を必要とする。つまり——挙手で、秘密投票への変更を可決しなければならない」
「…………」
「秘密投票にしたい人間は、秘密投票が必要な理由と同じ理由で——秘密投票に賛成する挙手ができない。——矛盾だ」
誠は——しばらく、黙った。
「……そうですね。——矛盾です」
「解けるか」
「……考えます」
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その夜。
誠は、臨時オフィスで——一人で、天井を見つめていた。
秘密投票の矛盾。動けない中立派。他人が動くのを待つ全員。
——前の世界でも、同じ壁にぶつかったことがある。
社内のコンプライアンス改革。全員が「必要だ」と思っている。だが、誰も最初に声を上げない。声を上げた人間が報復を受けるから。
あの時、どうやって壁を越えたか。
——越えられなかった。
誠は、目を閉じた。あの時は、越えられなかった。自分が声を上げて、自分が報復を受けた。——それだけだった。
だが。
「……あの時と、今は違う」
誠は——立ち上がった。
「あの時は——仕組みを作る前に、声を上げてしまった。だから、一人で潰された。——今は、仕組みがある。帳簿がある。監査がある。情報公開がある。市民通信がある。——そして、仲間がいる」
マリーナ。エリーゼ。ルカ。クラウス。
「仕組みで解けない問題は——人で解く。人で解けない問題は——仕組みで解く。——交互に。少しずつ」
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翌朝。
誠は、クラウスに提案した。
「秘密投票の直接導入は無理です。——でも、別の入り口がある」
「入り口?」
「法改正案を、三つに分割します」
「三つ?」
「第一案。告発の身分制限撤廃。——これは、貴族の権利を直接削るものではない。市民が貴族を告発できるようになるだけ。貴族同士の力関係には影響しない。——だから、比較的賛成しやすい」
「第二案は」
「情報公開の法制化。——徴税率の根拠開示、公金の使途報告。これは、ルンゲの不正に苦しんでいる貴族にとっては、自分を守る盾になる。——利益がある人間には、賛成する理由がある」
「第三案」
「証言拒否権の廃止と独立司法の設置。——これは一番難しい。貴族全員の特権に関わる。——これは最後に回す」
「つまり——食べやすいものから順に」
「はい。第一案と第二案だけで過半数を取れれば——流れが変わります。流れが変われば、第三案にも手が届く」
クラウスが——頷いた。
「第一案と第二案なら——グラーフとベルタは動くかもしれない。自分の利益と一致するから」
「そうです。——全員を正義で動かそうとするのは、間違いでした。利益で動く人間には利益を。安全を求める人間には安全を。——一人ずつ、その人の言語で話す」
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再訪問が始まった。
グラーフ男爵。
「男爵。——ルンゲの商圏を通さない販売ルートについて、具体案ができました」
「……本当ですか」
「マリーナ——商人ギルドのギルドマスターが、独自の流通網を組めると言っています。三つの中小商会が連携して、ルンゲの商圏を迂回する。——コストは若干上がりますが、取引の自由は確保できる」
「流通の代替案まで用意してきたのですか」
「法改正に賛成してほしいと頼むだけなら、誰でもできます。——あなたが賛成した後に、報復されない仕組みまで用意するのが、僕の仕事です」
グラーフは——沈黙した。長い沈黙。
それから、小さく息を吐いた。
「……是永殿。あなたは——商売人ですか」
「いいえ。コンプライアンス担当です」
「コンプラ……何です?」
「規則を守る仕事です。——そして、規則の中で人を守る仕事です」
「…………」
「男爵。——あなたが必要としているのは勇気じゃない。安全網です。安全網は用意しました。——あとは、あなたが一歩踏み出すかどうかだけです」
グラーフの目が——揺れた。
「……第一案と第二案だけ、ですね」
「はい。第三案は、今は問いません」
「他の中立派は?」
「——それは、まだ言えません。ただ、あなたが最初ではないかもしれません」
嘘ではなかった。——まだ誰も確約していないが、確約していないとも言っていない。
グラーフは——頷いた。
「……第一案と第二案について。——前向きに検討します」
「ありがとうございます」
『前向きに検討』。——前の世界では、ほぼゼロ回答を意味する言葉だった。だが、この世界の貴族にとっては、精一杯の一歩だった。
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ベルタ男爵夫人。
「男爵夫人。情報公開の法制化について、あなたの領地の具体的なメリットをまとめました」
誠は、数字をまとめた資料を見せた。
過去五年の徴税率推移。同規模領地との比較。情報公開制度が導入された場合の、恣意的な税率引き上げへの歯止め効果。
「……ここまで具体的な数字を出してくるとは思いませんでした」
「数字がなければ、判断できないでしょう。——感覚ではなく、根拠で判断していただきたい」
「…………」
「男爵夫人。法改正は——あなたの領地を守る仕組みです。抽象的な正義ではなく、あなたの農民の生活を守る具体的な制度です」
ベルタが——資料を、もう一度読み返した。
「……第二案については——賛成の方向で検討します。第一案についても、前向きに」
「ありがとうございます」
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一週間。
五人の中立派のうち、三人が「前向きに検討」。一人が「態度を保留」。一人が——拒否。
「拒否?」
「ドルン男爵。面会自体を断られた。——使者が持ち帰った返答は一言。『法改正には反対する。今後の接触も不要だ』」
「理由は」
「明言していない。——だが、ドルン男爵の領地の街道整備に、先月ルンゲ伯から多額の援助が入っている。接触の翌日にだ」
クラウスが、眉を寄せた。
「……買われたか。こちらが訪ねたことがルンゲに伝わり、報酬で囲い込んだ。速い」
「ルンゲは——こちらの動きを把握している」
「密偵でしょう。——中立派への接触が、筒抜けになっている」
「まずいな」
「まずいです。——でも、三人が前向き。ライナート男爵とヘルダ子爵夫人は確定。合わせて五人。あなたを入れて六人。——過半数まであと六人」
「六人。——残り四人のルンゲ派は動かない。中立の残り二人のうち一人は保留、一人は接触不能。——足りない」
「足りません。——今のままでは」
沈黙。
「クラウス卿。——中立派だけでは足りない。別のアプローチが必要です」
「別の?」
「ルンゲ派の中に——亀裂を見つける」
「ルンゲ派に? ——無理だ。彼らはルンゲの直接の利益供与を受けている。裏切る理由がない」
「利益供与を受けている。——つまり、ルンゲの不正の共犯者でもある。法改正が実現した場合、彼ら自身も追及される可能性がある。——追及される前に、こちら側に来れば、免責される仕組みを提案できるとしたら?」
「……司法取引のようなものか」
「はい。前の世界では『リニエンシー』と呼びます。——独占禁止法の違反者が、最初に自首した場合に罰則を軽減する制度です。最初に裏切った者が、最も得をする」
「……囚人のジレンマ」
「ご存知ですか」
「知識としては。——だが、実際にそれを貴族議会で使うのか」
「使えるかどうかは——提案の仕方次第です。法改正案の第一案に、『法施行前の自主申告に対する減免措置』を盛り込む。——これは正義のためではなく、実効性のためです。罰するだけでは、誰も名乗り出ない」
クラウスが——腕を組んで、考え込んだ。
「……是永殿。君のやり方は——正義と利益の区別をつけない。いや。区別した上で、意図的に混ぜている」
「混ぜています。——正義だけでは人は動かない。利益だけでも動かない。両方が噛み合った時に、初めて制度は回る」
「…………」
「きれいごとだけでは、法は変わりません。きれいごとで変わるなら——この世界の法は、とっくにきれいになっているはずです」
クラウスが——ゆっくりと、頷いた。
「わかった。——リニエンシー条項を、第一案に追加しよう。ルンゲ派への切り崩しは、私が水面下で行う」
「危険ではないですか」
「危険だ。——だが、私は貴族だ。貴族同士の会話は、密偵にも聞こえない場所でできる。——身分制度にも、たまには利点がある」
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その夜。
マリーナが——グラーフ男爵への流通代替案を、商人ネットワークに打診していた。
三つの中小商会の代表と、一対一で。——四人以上にならないように。
「……やってくれるの?」
「やれる。——リスクはあるが、ルンゲの独占が崩れれば、長期的には我々も得をする」
「短期的には?」
「短期的には——ルンゲの報復がある。覚悟はしている」
「……ありがとう」
「礼はいい。——マリーナ殿。あんたが焼かれた時、何もできなかった。今なら——少しは、できる」
マリーナは——黙って、頷いた。
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同じ夜。
ルカが——法典の写しを読み終えた。
全文。一字も飛ばさず。二週間かかった。
「……おっさん」
「はい」
「法典、全部読んだ」
「全部? ——本当に?」
「本当に。——で、一つ聞いていい?」
「何ですか」
「この法典の中に——『市民』って言葉、何回出てくると思う?」
「……数えたことはないですが」
「四回。——四百条以上ある法典の中で、『市民』は四回しか出てこない。しかも全部、『市民は〇〇してはならない』っていう禁止条項」
「…………」
「『貴族』は——二百三十七回」
誠は——言葉を失った。
「……ルカ。——それは、とても大事な発見です」
「わかってる。——法典は貴族のために書かれてる。市民は、禁止される時だけ名前が出てくる。——数えたら、はっきりわかった」
「その数字。——市民通信に載せていいですか」
「載せて。——あたしが数えた。あたしの名前で載せて」
「……ルカ」
「あたしは十四だけど、数は数えられる。——数字は嘘つかないって、おっさんが言ったでしょ」
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「市民通信」第三号。
冒頭の記事。
「王国法典における"市民"の登場回数:4回(全て禁止条項)。"貴族"の登場回数:237回。——この数字が、今の法律の姿です」
記事の末尾に——小さく。
「調査:ルカ(14歳・市民)」
この号は、過去最多の五十部が配布された。——そして、口伝えで、五百人以上に届いた。
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