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赤壁戦後の孫劉関係の再考 ――なぜ2人は争うことになったのか――  作者: えいの


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おわりに:名分と実力の相克が描いた「三国」の軌跡と、幻の「南北朝」

本稿では、赤壁の戦いから劉備の益州領有、そして夷陵の戦いに至るまでの初期「孫劉同盟」の実態と崩壊の過程を、従来の「対等な二大勢力による提携と領土紛争」という通説的枠組みから脱却し、再構築することを試みた。我々が史料の深層から導き出したのは、漢朝の公秩序に基づく「名分(正当性)」と、武力と地勢に基づく「実力(覇権)」という、相容れない二つの原理が激突し、互いを絡め取りながら生み出した凄絶な権力闘争の軌跡である。

1. 「麾下統制システム」としての初期孫劉同盟の総括

第1章および第2章において明らかにした通り、劉備は決して荊州に居座った単なる客将や簒奪者ではなかった。彼は劉表から「摂(摂政)」の要請を受け、劉琦という正統な君主を擁立することで、荊州における強固な「公的執政権」を継承していた。しかし、圧倒的な水軍という軍事的「実力」を持ちながら、法的「名分」を決定的に欠いていた孫権にとって、この劉備の正当性は自らの覇権を揺るがす最大の脅威であった。

ゆえに孫権は、劉備が求めた公的な軍事指揮権(都督荊州)を、あえて「借荊州(貸与)」という私的な債務関係へとすり替えた。劉備の持つ公的な「執政官」としての名分を、孫権個人の「借用者(店子)」という立場へ強引に引きずり下ろし、自らの防衛戦略の最前線で使い潰す「麾下軍閥」として位置づけたのである。

さらに第3章で詳述した通り、孫権はこの外交的隷属を内政面から補完するため、妹の「下嫁」という暴力的な統制システムを稼働させた。劉備の公的権威を「孫氏の親族」という私的序列の中に吸収し、武装侍女による寝所の制圧と、唯一の嫡男(劉禅)の拉致未遂という「物理的・心理的檻」によって、劉備の独立性を完膚なきまでに封殺しようとした。この時期の劉備は、三国鼎立の一角を担う君主などではなく、孫権の冷徹な実力支配の鎖に繋がれ、生存の淵でもがき苦しむ囚われの獅子に他ならなかった。

そして第4章で論じたように、この強固な「麾下統制システム」は、劉備が益州という「実力」を獲得した瞬間に音を立てて崩壊した。限界まで圧縮されていた劉備の「名分」が、益州という巨大な軍事的・経済的実力を得て大爆発を起こし、正当な執政官(漢中王)としての真の姿を現した時、名分なき実力者であった孫権は国家生存の危機に直面した。関羽の背後を突いた呂蒙の白衣渡江、そして凄惨な夷陵の激突は、劉備の「正当な執政権の回復」と、孫権の「国家生存を賭けた実力による絶対防衛圏の構築」という、全く異なる二つの正義(自己同一性)が正面衝突した、歴史の構造的必然であった。

2. 幻の「南北朝」 ―― 劉琦長命説が示すもう一つの歴史的帰結

本稿の結論を締めくくるにあたり、我々が提示した「名分と実力の非対称性」という理論的枠組みを用いて、一つの極めて蓋然性の高い歴史的仮説(IF)を提示したい。

それは、**「もし、劉表の長男・劉琦が建安十四年に早世せず、長命を保っていたならば、歴史はどう動いていたか」**という思考実験である。

もし劉琦が存命であれば、劉備は自らが「荊州牧」に就任する必要はなく、徹底して「正統な荊州刺史(後には州牧)・劉琦を奉じる絶対的な輔弼者(宰相)」としての立場を貫徹できたはずである。これは、後に諸葛亮が劉禅を補佐して蜀漢の全権を握った「君臣の完成形」が、荊州時代において既に、しかも劉備自身の手によって実現していたことを意味する。

この「劉琦=君、劉備=臣(執政官)」という強固な公的体制が継続していた場合、孫権の打った「名分剥奪工作」はことごとく無効化される。

第一に、「借荊州(貸与論)」は成立し得ない。孫権がどれほど自軍の戦功を主張しようとも、漢朝から任命された正当な統治者(劉表)の嫡男が健在である以上、他国の将軍(孫権)がその土地の「所有権」を主張し、「貸してやる」などという傲慢な論理を天下に示すことは不可能である。

第二に、「孫夫人の下嫁」による名分吸収も機能しない。劉備がどれほど孫権と親戚関係になろうとも、劉備の頭上には「劉琦」という侵しがたい公的主君が存在する。劉備を私的に縛ったところで、劉琦を頂点とする荊州政権の法的正当性を孫氏の家権に吸収することはできないからである。

結果として、孫権は劉備(およびその後ろ盾である劉琦)を自らの「麾下」に押し込めることができず、長江中流域(荊州)に強固な防衛線を構築できない。荊州という広大な地盤と水軍の拠点を確保できなければ、江東(揚州)の地理的防衛は極めて脆弱なものとなる。さらに、孫権の支配下にある江東の豪族たちは、常に「正統な漢朝の権威(劉琦・劉備政権)」からの政治的誘力に晒され続けることになる。

このような状況下において、孫権が独自の年号を建て、皇帝を称し、「孫呉王朝」を成立させることは極めて困難であったと推測される。軍事的な実力のみで割拠する江南の軍閥連合という限界を超えられず、独自の「王朝」としての権威を確立する前に、内部崩壊を起こすか、あるいは劉備政権に屈従せざるを得なかっただろう。

すなわち、劉琦が長命であった場合、天下は「魏・呉・蜀」の三国鼎立には至らなかった可能性が極めて高い。強固な正統性を持つ「劉琦・劉備政権」が荊州と益州を併せ持ち、長江以南を統合する巨大な漢室復興政府(南朝)を樹立。それに対し、中原を支配する曹魏(北朝)が対峙するという、のちの時代を先取りしたような「南北朝時代」へと、歴史は直接的に移行していたのではないだろうか。

現実の歴史がそうならなかったのは、ひとえに劉琦の早世という偶然が、孫権に「貸与」という詭弁を弄する隙を与え、劉備から公的な隠れ蓑を奪い去ったからに他ならない。

3. 結語:三国時代とは何であったか

劉備と孫権――。後漢末期という、帝国が崩壊し新たな秩序が模索された激動の坩堝るつぼにおいて、この二人の関係性は、時代そのものの矛盾を最も色濃く体現していた。

四百年の長きにわたって人々の精神を支配してきた漢王朝の「名分」を最後まで背負い、執政官としての正義を貫こうとした劉備。

古い名分など見向きもせず、圧倒的な暴力と地勢という「実力」だけを頼りに、自らの国家と生存圏を冷徹に創り上げようとした孫権。

彼らが荊州というただ一つの地を巡って繰り広げた、「貸与」と「自立」、「監視」と「解放」の凄絶な相克。それは単なる英雄たちの領土争いではない。過去の遺物となろうとしていた「法と倫理(名分)」が、台頭する「実力主義」の檻に一旦は幽閉されながらも、最後の命数を燃やして大爆発を起こした、古代中国精神史の巨大な地殻変動であった。

その激突のエネルギーがあまりにも強大であったがゆえに、勝者も敗者も天下を統一することはできず、大陸は三つに引き裂かれたまま固定化された。初期孫劉同盟における名分と実力のねじれこそが、三国志という途方もなく魅力的で、かつ悲劇的な時代の幕を開けた、最大の原動力だったのである。

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