第七十六話 ふん、ここが日本か。
「小さいな」
それが、我――ダンシングトニーが東京競馬場に着いて最初に抱いた感想だった。
もちろん本当に物理的に狭いわけではない。
ただ、空気が整いすぎているのだ。
欧州の競馬場には、もっとこう、風とか泥とか、観客のざらついた熱の気配がある。
日本は違う。
妙に秩序がある。
全員が、ちゃんとした段取りで、ちゃんとした場所へ向かっていく。
嫌いじゃないが、小さい。
我の名は、ダンシングトニー。
欧州を蹂躙してきた馬。
キングジョージも、凱旋門賞も勝った。
その我が、ジャパンカップのために海を越えて来てやった。
日本自慢の国際GⅠにわざわざ来てやった理由は簡単だ。
――暇つぶしである。
弱い馬に興味はない。
どうせ我が勝つのだから、せめて骨があってほしい。
その点、日本には多少の興味を持っていた。
目の前にいるこの馬が悪くなかったからな。
「よう」
我がありがたくも声をかけてやると、気に入らなそうな顔でこっちを向いた馬。
「……トニーか」
ゴールデンビール。
昨年悪くない走りをしていた日本の馬。
まあ、我よりは弱いが、それは全員そうだから仕方ない。
「今年は欧州に来なかったな、逃げたのか?」
少しからかってくると、ビールの耳がぴくりと立った。
「俺様が逃げただと!?」
おお、我に二度も負けたにも関わらず威勢がいい。
いいぞ、嫌いじゃない。
「違うのか?」
「ドバイで勝った!まずはルドルフを潰すために帰ってきたまでだ!」
「ふん、くだらんな」
こいつは弱くはない。
キングジョージでも凱旋門賞でも二着まで来たのだ。
普通なら十分に怪物だ。
だが、二着は二着である。
我の後ろで風を食っていたやつが、「まずは国内の相手を潰す」と息巻いている。
その時点で小さい。
我が鼻を鳴らすと、その横から、妙に澄ました声が割り込んできた。
「ふむ、あなたがダンシングトニーさんですか、はじめまして」
声の主の馬は目の色が妙に落ち着いている。
だが、その奥に「どうせ勝つのは私ですが?」が透けて見える。
ああ。
こいつがサクライルドルフか。
「……お前が、ビールが『日本には俺より強い馬がいる!』と言った馬か」
無敗の三冠馬にして、今年の日本競馬の“顔”。
この国の人間どもが、我にぶつけてくるために大事に育てた玩具。
「うわ、ビール。そんな当たり前のこと言わないでくださいよ」
「言ってねぇ!」
ビールが即座に吠える。
「『俺様と同じくらい強い馬もいる』って言っただけだ!!」
我は思わずせせら笑ってしまった。
「ふん、ということは結局ふたりとも我よりは弱いということだ、つまらんな」
この一言で、空気がぴたりと変わる。
「精々、やる気を失わずに走ってくれよ、はっはっはっはっは」
ルドルフの耳が、明らかに前を向いた。
「聞き捨てなりませんね」
いい反応だ。
「ビールのことはともかく、私をバカにする発言は撤回していただきましょうか」
「おい!」
今度はビールが食いつく。
「お前ら、このレースで俺様がどっちもボコボコにしてやるからな!!」
うるさい。
だが、これが競馬だ。
人間どもは「紳士のスポーツ」とか言うが、馬同士の会話はだいたい「潰す」だ。
気に入った。
「アッハッハッハッ」
いい。
非常にいい。
レース前に、こうして喧嘩腰でいられるやつは嫌いじゃない。
むしろ好物だ。
「我が、直線で全員優しく撫でてやろう!」
だが、その時だった。
「おいおいお前ら、喧嘩するなよ」
……ん?
人間の声だ。
なんだ、このガキは。
東洋人は幼く見えるというが、それにしてもだいぶ若く見える。
「なんだ、喧嘩してるのかね?」
さらにもう一人。
こちらは見るからに金ぴかだ。
ああ、ビールのところの坊ちゃんだな。
我は、最初に声をかけてきた若い方の人間を見下ろした。
「なんだ、このガキは。ここは子どもの来るところじゃないぞ」
すると、その人間は「あー」とか何とか言いながら妙に納得した顔をした。
「あー、大丈夫、ちゃんと大人だよ。そんなことよりルドルフ、喧嘩売らないの」
…………。
いや、待て。
待て待て待て。
今、何が起きた?
ルドルフが、ごく自然に返す。
「売ってないです。買っただけです」
「買うな」
男が即座に言い返している。
…………。
…………。
なんかおかしくないか?
人間が。
ルドルフと。
普通に。
会話している。
は?
偶然か?
雰囲気で言ってるだけか?
というかこいつさっき、我の声にも普通に返事しなかったか?
ま、まさか!?
我は、思わず一歩首を突き出した。
「お、お前!馬の声が聞こえるのか!?」
すると、男は、ものすごく新鮮そうな顔をした。
「うわぁ、なんか新鮮に感じる。というかそっちも日本語わかるんだな」
「え!?いや、なんで馬の声が聞こえるんだ!?」
「知らん」
知らんで済ませるな。
我は内心大混乱だった。
欧州でも、それなりに変な馬や変な人間は見てきた。
だが、「馬の声が聞こえる馬主」はジャンルが違う。
競馬界ファンタジー担当か?
日本はそういう国なのか?
いや待て。
「というかお前誰だ!!」
「ルドルフの馬主だよ。よろしくな、ダンシングトニー」
その瞬間、横でルドルフがものすごくドヤ顔した。
なんだその顔は。
いや、待て待て待て。
我は今、かなり大事な事実を受け止めきれていない。
日本には、馬の声が聞こえる人間がいるのか?
しかも、三冠馬の馬主が?
なんだそれは。
チート?チートなのか?
そんな情報、欧州のどの新聞にも載っていなかったぞ。
混乱している我を見て、ゴールデンビールがニヤつきながら言う。
「ようこそ日本へ、ダンシングトニー」
なんて性格の悪い馬なんだ!
「歓迎の仕方がおかしい!!」
我が吠えると、周囲の馬たちもざわついていた。
「なになに?」
「そっか、海外馬は知らんよな」
「ルドルフの馬主、そういうやつだぞ」
「今さら驚くなよ」
「いや、普通驚くだろ」
「Oh!アレがニンジャですね!」
「順応したやつもいるぞ」
うるさい。
当たり前のように受け止めるんじゃない。
だが、混乱し続けるのも癪だ。
日本はおかしい。
それはわかった。
我は一つ大きく息を吸い、咳払いをした。
「ごほん」
立て直せ。
ここで取り乱すと格が落ちる。
「……まあいい」
我は、なるべく威厳のある声を作った。
「声が聞こえる馬主がいようがいまいが、勝つのは我だ」
ルドルフが即座に返してくる。
「いいえ、私です」
ビールも負けじと前脚を鳴らした。
「俺様だ!!」
横で、ビールの坊ちゃんが少しだけ不安そうな顔をしていた。
「ダンシングトニーはこのレースがおわったらゴールドファームで種牡馬生活に入るのだが……これ大丈夫かね?」
「そこまでは知らんよ」
ルドルフの馬主は即答した。
いや、そこは少しは知っとけ。
我の今後だぞ。
もっと敬意を払え。
その時、通路の向こうから騎手たちが近づいてくる気配がした。
人間たちの空気も、一段締まる。
その感覚だけで、身体の奥のスイッチが切り替わる。
遊びは終わりだ。
レースになる。
我の騎手が首筋を叩く。
「今日も頼むぞ」
当然だ。
いい。
混乱するのはここまでだ。
レースが始まれば、世界はシンプルになる。
速いやつが勝つ。
つまり、我が勝つということだ。




