第六十八話 天山秀人
宝塚記念というレースは、いい。
春の総決算。
阪神競馬場全体がどこか祭りのような熱を帯びる。
そして馬主席も例外ではない。
ここには人間の欲望と見栄と祈りが、ちょうどよく煮詰まっている。
勝ちたい。
負けたくない。
自分の馬が一番だと思いたい。
そして、できるならその気持ちを上品な笑顔で包んで、何事もないふうを装っていたい。
馬主という生き物は、だいたいそういうものだ。
前の方に座る、桜井朔くんと金持くんなんかは、まだまだ感情を表に出しがちだが。
「ゴールデンビールは宝塚記念も出ないんだな」
「先週まで香港だったからね。だが!今日はゴールデンローレルが君とルドルフを倒す!!」
うん、若い。
問題は、その若いのの所有馬が、ひどく強いことだ。
サクライルドルフ。
強い。
腹が立つほどに強い。
正直に言おう。
買えなかったことを後悔している。
もちろん、それを表に出すつもりはない。
だが、馬主席にいる年配の馬主連中のうち、かなりの人数が同じことを思っているはずだ。
桜井牧場に目を付けていた人間で「売ってくれ」と言わなかった者はいない。
一方で、あの時の私を褒めたい気持ちもある。
小さな牧場の若い牧場主が、「見たいから残す」と言った。
その覚悟を邪魔するほど、私は野暮ではない。
だが。
だがである。
あそこまで走るなら、話は別だ。
あの時のことを思い出すだけで、少し悔しい。
当然、そんな内心を若造どもに見せてなどやらん。
私は天山秀人である。
年配の馬主たちからも一目置かれる立場であり、多少のことでは動じない大物馬主として知られている。
ここで、
――ああああああ!あの馬、うちに欲しかったあああああ!
などと叫ぶわけにはいかない。
絶対に。
絶対にだ。
周囲の年配の馬主たちも、だいたい同じことを思っているはずである。
今も、横に座る馬主の一人が、涼しい顔で双眼鏡を構えている。
だが私は知っている。
その指先に、ほんの少し力が入っていることを。
さらに別の馬主は、穏やかな顔で資料を見ている。
だが私は知っている。
彼がさっきから同じページを三回見ていることを。
皆、同じだ。
サクライルドルフを倒したい。
もちろん、桜井くんに悪意があるわけではない。
むしろ好ましい若者だ。
牧場を継いで、馬を大切にして、謙虚で、どこか頼りなく、それでいて不思議と芯がある。
だが、それとこれとは別である。
競馬とはそういうものだ。
強い馬がいる。
なら倒したい。
その馬が若造の馬であれば、なおさらである。
少しは年長者の意地というものを見せなければならない。
ファンファーレが鳴り、各馬がゲートに収まる。
『さあ、各馬ゲートに収まりました。春のグランプリ、宝塚記念。今、スタートです!』
実況の声が、阪神競馬場の空気に響き、ゲートが開く。
芝の上に競走馬が飛び出す。
はずだった。
『あーっと!スタートと同時にゴールデンローレル立ち上がった!!他馬はスムーズなスタートです!!』
「ローレル!?何をしているのだね!?」
早くも金持くんの魂の叫びが飛んだ。
うむ。
そうなるよね。
私は他人事だから落ち着いているが、気持ちはわかる。
金持くんは、大牧場の跡取りでありながら、変に擦れていない。
年配の馬主連中はだいたい、あの坊ちゃんを気に入っている。
見ていて面白い。
かわいげがある。
……いやいや、今は自分の馬だ。
テンザンミラクル。
うちの期待馬であり、派手さはないが、相当良いところまで来ている。
レースは流れる。
テンザンミラクルは、いい位置だ。
よしよし。
いいぞ。
そのまま進め。
レースは向こう正面から三コーナーへ。
実況の声が少しずつ大きくなる。
観客席の熱も伝わってくる。
前の席では、朔くんがたぶん息を止めている。
金持くんは「ローレル、そこだ!」みたいなことを小声で何度も言っている。
うん、落ち着きなさい。
さあ、四コーナー。
テンザンミラクル、いい。
実にいい。
手応えは悪くない。
だが、前方の一番人気も視界に入る。
サクライルドルフ。
……なんだ、あの馬。
少しは「私は最強ですが?」みたいな顔を隠す努力をしたらどうか。
実況が叫ぶ。
『各馬直線へ向いた!』
よろしい。
ここからだ。
と思った瞬間、サクライルドルフがするっと抜け出した。
なんだあの馬。
抜け出す動きに無理がない。
強いな、チクショウ。
こっちは君が牧場でワガママしてることも知ってるんだぞ。
実況がさらに熱を帯びる。
『サクライルドルフ先頭!!外からテンザンミラクルが追い込んでくる!!』
よし!
よし!!
いけ、テンザンミラクル!
差してしまえ!!
今だ!!
お前がやれ!!
やれるだろう!!
ほら、行け!!
行けええええええ!!!!
私は落ち着いている。
天山秀人は落ち着いている。
顔も声も姿勢も、全部落ち着いている。
だが。
『サクライルドルフ粘る!テンザンミラクル迫る!しかし前は譲らない!サクライルドルフだ!サクライルドルフだ!!』
ぐ。
ぐぬぬ。
なんだ、あの粘りは。
普通、少しは苦しくなるだろう。
何をそんなに当然みたいな顔で前にいるのだ。
おい、ミラクル、頑張れ。
差せ。
いや、差せる。
差せるぞ。
差せ。
差せってば。
ああ、あと少し。
あと少しなのに。
ミラクル!
もう一度!
もう一度だ!
奇跡!
いけ!!!
『サクライルドルフ一着!!なんと史上初の春古馬三冠の偉業達成です!!!』
……悔しい。
非常に悔しい。
『二着にテンザンミラクル!ゴールデンローレルは出遅れが響いて十五着です!』
テンザンミラクルは二着。
実に良く走った。
十分褒めてやるべき内容だ。
前の席では、金持くんが「ローレルうううううううう!!」とだいぶ良い感じに取り乱していた。
朔くんは呆然としている。史上初の偉業を遂げた馬の馬主だ。それも仕方ない。
片方は勝って呆然。
もう片方は負けて取り乱している。
うん、若者らしくて実に良い。
だが、私としては、ここで感情を表に出すのはプライドが許さない。
表情を整える。
優雅に。
心の中では机を叩いている。
三回くらい叩いている。
しかし、現実の私は穏やかに微笑む。
静かに席を立ち、前の二人へ声をかけた。
「おめでとう、朔くん」
朔くんが、びくっとしたように振り返る。
「あ、ありがとうございます。えっと、テンザンミラクルも最後すごかったです」
よろしい。
そういう返しができるのは、良いことだ。
一方で金持くんは、まだ取り乱していた。
「ローレルが!ローレルが立ち上がらなければ!!」
うん。
その気持ちはわかる。
あれは、ちょっと笑いそうになった。
しかし、今はそれより大切なことがある。
「落ち着きなさい、金持くん。まずは馬に何事もないか、様子を見に行ってあげるべきだ」
「は!そうでした!行ってきます!!」
うむ。
素直でよろしい。
金持くんは勢いよく去っていった。
ああいうところが可愛げなのだよ。
朔くんがこちらを見て、少しだけ感心した顔をした。
「さすがです、天山さん」
やめたまえ。
今、私の内心はミラクルの二着で悔しさに転げ回っている。
「なんのことはない。君もルドルフを迎えに行ってあげなさい」
「はい、失礼します」
朔くんも、慌ててルドルフのもとへ向かった。
よろしい。
ちゃんと自分の馬を褒めてやりたまえ。
今日はそれに値する勝ちだった。
さて。
二人の若者が去っていく。
残ったのは、我々年配の馬主たちである。
数秒、誰も喋らなかった。
実況が勝ち馬を讃えている。
スタンドは拍手とどよめきに包まれている。
やがて、近くの席の年配の馬主が、静かにこちらを見た。
「天山さん、若者たちは行きましたな?」
「ええ、二人とも行きましたとも」
「…………ルドルフ、強いですな」
「…………ええ」
沈黙。
また沈黙。
それから、その馬主は低い声で言った。
「絶対倒す」
私は頷いた。
「若造どもに好きにはさせん」
その瞬間、周囲の馬主たちが、一斉に空気を変えた。
先ほどまでの穏やかな紳士淑女の顔ではない。
馬に人生と金と時間と胃袋を削られてきた者たちの顔である。
「ジャパンカップに強い馬を呼びましょう!!!」
「いや!有馬記念に総力を結集してぶつけるべきだ!!」
「天皇賞春秋連覇なんてさせるか!!!」
「欧州から怪物を呼べんのか!?」
「国内にもまだいる!秋になれば成長する馬がいる!」
「テンザンミラクルもまだやれるでしょう!」
「もちろんだ!」
私も思わず声が出た。
しまった。
少しだけ熱が乗った。
だが問題ない。
若者たちはいない。
全員、普段は、ちゃんと余裕のある大人の顔をする。
だが、強い馬を見せられると、結局こうなる。
それがいい。
馬という生き物は、本当に人を子どもに戻す。
うちにも、君のところにも、あそこのところにも、皇帝を倒せる可能性を持つ馬がいる。
ならば、それを全部ぶつけるのが競馬というものだろう。
「そもそも、あの馬はなぜあそこで止まらんのですか!?」
「サクライルドルフだからでしょうな」
「答えになっていない!」
「なんだ、春古馬三冠って!?」
「だが、史上初だぞ!?褒めるべきではないか!?」
「それはそれ。これはこれだ!」
「まずは秋天だ、府中で叩き潰す」
「ゴールドファームの先代にも声をかけましょう!」
こういう時の空気は、嫌いじゃない。
むしろ、かなり好きだ。
サクライルドルフ。
いい馬だ。
だからこそ――絶対に倒す。
若造どもに、そう簡単に時代を明け渡してなどやらん。
皇帝?
結構。
帝国には、反乱がつきものだ。
さあ、次の戦の準備をしよう。




