第五十九話 菊花賞
テレビの中で、ルドルフが「自信あります」って顔でゲートに入っていく。
京都競馬場。
芝三千メートル。
菊花賞。
「さくー!るどるふにーちゃんどこー!?」
「あれー!あの赤いぼうしー!」
「かっこつけてるー」
「きょうとー!」
「おなかすいたー!」
当歳たちが好き勝手言っている。
一歳馬や繁殖牝馬たちも、首を伸ばして画面を見ていた。
本当にテレビ大きくしてよかったな。
いや、冷静に考えると厩舎のテレビ大きくするの意味わからんけど。
ストーンは、半眼のまま画面を見ている。
「ルドルフはムカつくくらい堂々としてるね」
古参の一頭がゆっくり答える。
「こういう大舞台で変に縮こまらないのは、いいことだよ」
それはそうかもしれない。
春に皐月賞を勝って。
初夏にダービーを勝って。
そして今日。
ルドルフが勝てば、三冠馬。
しかも無敗。
なのに、ルドルフは“デカい顔で平常運転”ができる。
性格としては問題ある気もするが、競走馬としては良いことなのかもしれない。
『さあゲートが開いた、ちょっとばらついたスタートになりました、しかし大したことはありません』
ルドルフは中団ちょっと後ろに待機している。
クロエさんがそれでいいと考えたなら、いいのだろうと思う。
京都には、爺さんが見に行っている。
最初、爺さんはかなり渋っていた。
――本音を言うと、俺だって行きたい気持ちはあった。
でも、爺さんが行くべきだと思った。
もし、本当にルドルフが三冠を取るのなら。
爺さんが見るべき景色だと思ったから、半ば無理矢理送り出した。
俺は残って、みんなと一緒に見る方が、なんとなくいい気がした。
それでよかったと思う。
「るどるふにーちゃん、いけー!!」
「まけるなー!!」
「さんかんってなんだっけー!?」
「えらいやつー!!」
「おいしいやつー!?」
「おやつー!」
お前らは本当に何もぶれないな。
でもその騒がしさが、妙にありがたかった。
テレビの中、先頭集団が京都競馬場の第三コーナーの山を下り始める。
俺は、知らないうちに手をぎゅっと握っていた。
実況の声が、一気に熱を帯びる。
『さあ、最後の直線!』
画面の中で、内側から抜けてくる赤い帽子が見えた。
ルドルフに乗ったクロエさんだ。
その瞬間、クラウンが叫んだ。
「行けええええええええええ!!」
うるさい。
でも、俺も心の中では同じだった。
行け!
行ってくれ!!
『ルドルフが先頭に立った!』
実況の声が響く。
クラウンが、ルドルフに届けと言わんばかりに叫ぶ。
「そのまま行け!!がんばれ!がんばれ!!」
ストーンは、何も言わないが、何も言えないのかもしれない。
実況が、さらに熱を帯びる。
『大歓声だ!大歓声だ、京都競馬場!!』
古参の繁殖牝馬たちまで、いつの間にか前のめりだ。
「行きな!」
「そのまま!!」
「クソガキ、やっちまいな!」
「でかい口叩いたんだから見せてみな!!」
テレビの向こうで、赤い帽子がぐん、とさらに前へ出る。
ルドルフだ。
サクライルドルフだ。
俺たちの馬が。
『赤い大輪が薄曇りの京都競馬場に大きく咲いた!!』
ゴール板を、先頭で、抜けた。
――勝った。
『三冠馬!サクライルドルフです!!』
「わあああああああああああ!!」
「るどるふにーちゃんかったー!!」
「さんかーん!!」
「お祝いー!?」
「しゅくじつー!?」
一歳馬も叫ぶ。
当歳たちも何が何だかわからんまま叫ぶ。
クラウンはもう完全に限界だった。
「やったああああああああああ!!」
「見たかあああああ!!」
「俺の後輩が三冠馬だぞおおおおおおお!!」
その隣で、繁殖牝馬たちも感心したように言う。
「大したもんだね」
「あのワガママクソガキがね」
「態度に実績が追いついちゃったね」
「さすが、ストーンの子だ」
「父親の血も濃そうだけどね」
好き勝手言ってるが、みんな声が弾んでいる。
ストーンが、そこでようやく小さく鼻を鳴らした。
「ふん」
その一音に、全部入ってた。
自慢げで。
呆れてて。
でも、どう聞いても嬉しそうな音。
俺は呆然としたまま、画面を見ていた。
勝った。
ルドルフが無敗の三冠馬。
その事実が、まだ頭に入ってこない。
厩舎はこんなにうるさいのに、俺の中だけ、変に音が遠い。
でも、何かが胸の奥に落ちてくる。
気づいた時には、目が熱かった。
「あ」
自分でも、よくわからなかった。
俺が走ったわけじゃない。
頑張ったのはルドルフだ。
仕上げてくれたのは岡部さんだ。
乗ってくれたのはクロエさんだ。
俺は、ただ見ていただけだ。
なのに。
ぽろ、と、勝手に涙が落ちた。
「朔さん」
隣で、弥生ちゃんが少しだけ驚いた声を出した。
俺は慌てて顔を背けたけど、遅かったらしい。
「……ごめん」
何に謝ってるのかもよくわからなかった。
「いや、え、謝らなくていいですけど……」
弥生ちゃんは本気で困っていた。
でも、困りながらも、そっと隣にいてくれた。
「……三冠馬、ですよ」
「うん」
「泣いてもいいんじゃないですか」
そう言われた瞬間、なんか余計にダメだった。
「うん……」
情けない返事しか出ない。
次から次へと涙が出てくる。
胸の奥の、どこかよくわからない場所が、壊れたみたいだった。
嬉しい。
もちろん嬉しい。
でも、それだけじゃない。
ずっと。
本当に、ずっと。
どこかで、不安だった。
牧場を継いでから、ずっと。
あの日。
爺さんに呼び出されて。
帰ってきて。
馬の声が聞こえて。
なんだこれ、頭おかしくなったのかと思った日から。
ずっと。
こいつらの声が聞こえるのが、本当に現実なのか。
自分の都合のいい幻じゃないのか。
俺が勝手にそう思い込んでるだけなんじゃないのか。
ずっと不安だった。
セリで一歳馬を送り出す時も。
ストーンが頑張って重賞を勝ってくれた時も。
初めて馬主パーティなんて場違いな場所に行った時も。
クラウンがずっとずっと、頑張って稼いでくれていた時も。
弥生ちゃんを雇うと決めた時も。
高い金を払ってカスタードをつけるって決めた時も。
ルドルフに名前を付けた時も。
どれだけ高値をつけられても断った時も。
皐月賞を勝った時も。
ダービーを勝った時も。
ずっと。
ずっとずっとずっと。
怖かった。
俺のせいで、爺さんの大切な牧場を潰したらどうしよう。
俺のせいで、みんなが怪我したり病気になったらどうするんだ。
馬の声が聞こえるなんて、結局ただの思い込みで、本当は何一つ正しくないんじゃないのか。
何回も思った。
だから。
だから、今。
ルドルフが、無敗の三冠馬になって。
名に恥じない偉業を、本当にやってのけて。
サクライルドルフという名前に、ちゃんと追いついて。
やっと。
ようやく。
ほんの少しだけ。
許された気がした。
継いで、よかったんだって。
ここにいて、よかったんだって。
ようやく、どこかで思えた気がした。
「……っ」
息が変になる。
でも、どうしようもなかった。
「……坊主?」
ストーンが、珍しく少しだけ困った声を出した。
「なんで泣いてるんだい」
「……知らん」
本当に知らん。
でも泣いてる。
「……朔、うれし泣き?」
「たぶんそうだねえ」
「人間も泣くんだねえ」
「泣くさ、そりゃ」
「朔、よくがんばったんじゃないかい」
繁殖牝馬たちの声が、妙にやさしかった。
当歳たちは事情がわかっていない。
「さく、ないてるのー?」
「かなしいのー?」
「おなかすいたのー?」
「さくー、よしよしー」
一頭が、柵の隙間から鼻先を伸ばしてくる。
よしよししてるつもりらしい。
「ありがとう」
そう言ったら、さらに涙が出た。
だめだ今日。
完全にだめだ。
「朔ー」
クラウンが、ちょっとだけトーンを落として言った。
「泣いてるのか?」
「……泣いてる」
「よかったな」
その一言だけは、珍しく妙にまっすぐだった。
でも俺は知ってる。
クラウンもすごい喜んでるんだ。
だって、無敗の三冠馬ってのがどれだけすごいか、クラウンは本当はよくわかってる。
一歳馬たちも、なんだかんだ楽しそうに言う。
「ルドルフにーちゃん。帰ってきたら絶対自慢するよね」
「『俺すごい』って百回は言う」
「三冠馬ってそれくらい言ってもいいの?」
「ルドルフにーちゃんなら言う」
その会話を聞いて、ようやく少しだけ笑えた。
「……言いそうだな」
今の俺、だいぶ変な顔だろうなと思う。
でも、まあいいか。
そんな風に考えながら、テレビの中でクロエさんが三本の指を掲げているところを見ていたその時だった。
ジリリリリリ。
「……」
母屋から電話が鳴る音が聞こえて、誰かが取った気配がした。
俺と弥生ちゃんが顔を見合わせる。
ジリリリリリ。
また鳴る。
「あー……」
弥生ちゃんが、すごくわかりやすく遠い目になった。
「来ましたね」
その直後、松さんが母屋の方から叫ぶ。
「朔さーん!電話が一気に鳴ってますー!」
梅さんが奥から叫ぶ。
「こっちもです!」
竹さんはもっと遠くから叫んでいた。
「入口に車来てますー!!」
「早いな!?」
さっきレース終わったばっかだぞ!?
しっとりした気持ちが、一気に現実に押し流される。
でも、厩舎の空気は、なんだかんだで明るかった。
騒がしくて、ちっとも感動の余韻に浸らせてくれない。
だけど、それがうちの牧場らしかった。
夢と現実が、すごく雑に隣り合ってる。
母屋へ走りながら、後ろでクラウンが叫んでいるのが聞こえた。
「電話取れ朔!!そして全員に言え!!ルドルフは世界最強だと!!」
「まだ世界は取ってねぇよ!!」
「じゃあ日本最強だ!!」
「それもまだ早い!!」
でも、三冠馬だ。
少なくとも、今この瞬間だけは。
桜井牧場にいる全員が、
面倒くさくて、でも最高に誇らしい気持ちで、同じことを思っていた。
ルドルフ、やりやがったな、と。
ジリリリリリリ。
「はい、桜井牧場です!!」
受話器の向こうから、ものすごくうるさい声が飛んできた。
『見たかねええええええええええええええ!!!!』
ああ、うん。
最初はお前だと思ってたよ、金持。




