第64話:仲間の犠牲
炎の色が、いつの間にか夕焼けと混じり合っていた。
さっきまで整然と並んでいた石造りの家々は、半分以上が崩れ落ち、残った建物も黒い煤に覆われて原形を失いつつある。燃え上がる木材の爆ぜる音と、遠く近くで交錯する悲鳴が、途切れることなく耳を打った。
「くそ……! こんなに……!」
レインは喉の奥から漏れた言葉を押し潰すように、視界を切り替えた。
《ワールド・ログ 起動》
焼け焦げた屋根の向こう、崩れかけた路地の奥、倒れ伏した人々の上に、無数の光る文字が重なっていく。
【死亡予測:多数】
【危険領域:拡大中】
【崩落予測:各所で連鎖】
見るたびに、赤く点滅するログが増えていく。
ログを閉じれば、この地獄の全容を知らないままでいられるかもしれない。だが、今のレインには、その選択肢は存在しなかった。
【モノローグ/レイン】
「……救える命が、まだ残っている……。
全部は無理でも、ひとつでも多く……!」
瓦礫を飛び越えた先の路地で、大きく傾いた建物が見えた。壁の一部が崩れ、中から咳き込む声と泣き声が混じり合って聞こえる。
「中にまだ――」
走り出そうとした、その時だった。
「レイン! こっちに来いッ!」
耳に馴染んだ、よく通る声が炎の向こうから響いた。
振り向けば、崩れた壁の上で剣を振るう騎士の姿がある。
銀色の鎧はところどころ剥がれ、血と土で汚れている。それでも、その瞳の光だけは決して濁っていなかった。
「リシアさん……!」
王国騎士、リシア・グランツ。
その足元には、怯える市民たちが身を寄せ合っている。倒れてきた梁を剣で受け流し、迫ってきた瓦礫を膝で蹴り飛ばしながら、彼女は人々を背後に庇っていた。
「こっちへ、早く! まだ避難が終わってない!」
そう叫ぶ声は、息が上がっているにもかかわらず力強い。
レインは胸の奥が熱くなるのを感じながら、その場へ駆け寄った。
「リシアさん、その傷……」
「ふん……! こんな程度で死ぬ私じゃない!」
笑う代わりに、リシアは口元をぐっと吊り上げて見せた。
肩から腰にかけて大きな切り傷が走っているのが一目で分かる。血で鎧が濡れ、指先にも震えがある。それでも、彼女は背を丸めない。
その背後――崩れた塔の残骸の陰で、黒い光が蠢いた。
空気がひときわ重く沈み込む。
音もなく迫ってくる“衝撃”の気配に、レインの背筋が冷たくなる。
【モノローグ/レイン】
「……嫌な気配……。これは――」
《ワールド・ログ 起動》
視界をリシアへ向けた瞬間、赤い文字が弾けるように飛び出した。
【対象:リシア・グランツ】
【未来:死亡】
【原因:勇者カイルによる衝撃波】
【残り猶予:2秒】
「嘘だ……!」
喉が勝手に叫び声を上げる。
「リシアさん、避けて!!」
叫びは、炎と悲鳴の渦を切り裂いて届いた。
リシアの肩がぴくりと震え、振り返ろうとした――その瞬間。
世界が、黒い衝撃で塗りつぶされた。
空間の一部が、真横から殴りつけられたように歪む。
耳が破れたかと錯覚するほどの衝撃音とともに、濃密な黒い斬撃が一帯を薙ぎ払った。
「っ――!」
リシアの身体が、まるで軽い木の枝のように吹き飛ばされる。
背後の壁ごと叩きつけられ、砕けた石片が四方に飛び散った。
「リシアさんっ!!」
フィアの悲鳴が、耳の奥を鋭く突き刺す。
レインは足が地面に触れている感覚も曖昧なまま、倒れた騎士のもとへ駆け寄った。
瓦礫の間に、赤いものが広がっている。
崩れた石の下敷きになりながらも、リシアはなんとか仰向けの姿勢を保っていた。鎧の胸元は大きく抉られ、そこから溢れた血が彼女の身体の下に赤い水溜りを作っている。
「リシアさん……! 今、今すぐ……!」
レインは膝を地面に打ち付け、その身体を起こそうとして、すぐに手を止めた。
動かせば、残されたわずかな命すらこぼれ落ちてしまいそうな感覚があった。
《深層ログ閲覧》
【対象:リシア・グランツ】
【生命値:極低】
【致命傷:胸部/複数箇所】
【自然回復:不可能】
【未来:死亡確定】
「……そんな……」
喉が凍りつく。
それでも、レインは諦めなかった。
「フィア、リンクを! まだ間に合うかもしれない!」
「は、はい……!」
フィアは震える指でレインの手を掴み、瞳を閉じる。
淡い光が二人の周囲にゆらりと揺れた。
《運命共鳴:リンク同期》
《未来改変試行》
対象:リシア・グランツ/死亡運命
成功率:11%
バグ発生率:増大
【モノローグ/レイン】
「11%でもいい……! ゼロじゃないなら……!」
「……成功しろ……! 頼む……!」
レインは歯を食いしばってログに手を伸ばす。
未来の線を掴んで、捻じ曲げて、書き換えようとする。
《改変処理中……》
《エラー検出》
文字が揺らいだ。
掴みかけた未来の線が、するりと指の間を抜けていく感覚がある。
「まだだ……! まだ……いける……!」
自分に言い聞かせるように声を絞り出し、レインはさらに深層へ潜ろうとする。
その先にあるはずの“別の未来”へと――。
《結果:失敗》
【未来】死亡ルート固定維持
「……っ!」
視界の中の文字が、容赦なく赤に塗り替えられた。
レインの指先は、何も掴めない。
「レインさん……」
フィアの声には、すでに涙の気配が宿っている。
レインはそれを聞きながらも、手を離せなかった。
【モノローグ/レイン】
「どうして……。
ここまで来て……未来に触れられるはずなのに……
どうして……救えない……!」
震える視界の中で、ログの表記が変わる。
【対象:リシア】
【生命値:0」】
【状態:生命活動停止】
「……やめろ……そんなの……表示するな……!」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
それでも、現実は変わらない。
足元から身体の芯まで、冷たい感覚が這い上がってくる。
うっすらと、レインの手の中で指が動いた。
「……レイン……」
掠れた声が、かろうじて耳に届く。
リシアの瞳が薄く開き、血で濡れた睫毛の隙間から、いつかと同じ鋭さが宿っていた。
「リシアさん……! 喋らないで……今、今すぐ何とか……!」
「……泣くな……レイン……」
唇の端を、ほんの少しだけ持ち上げてみせる。
いつもと変わらない、強がりの笑みだった。
「お前は……弱くなんか……ない……。
昔から……誰より……人を……助けてた……」
「僕は……何も……救えなかった……!」
堰を切ったように、言葉があふれる。
さっき救えた命の数も、今この瞬間に消えかけている命の前では、すべて色を失っていた。
「リシアさんだって……救えるはずだった……!
僕が……間に合っていれば……!」
「違う……」
リシアはかぶりを振ろうとして、わずかに肩を揺らした。
それだけで、胸から新しい血が溢れ出す。
「……お前は……十分やってる……。
私なんかより……よっぽどな……」
指が、わずかにフィアの方を示す。
「……フィアちゃんを……守れ……。
あの子は……希望だ……。
お前……なら……できる……」
その言葉とともに、指先から力が抜けていく。
重力に引かれるように、その手がレインの掌から滑り落ちた。
「リシアさん……?」
返事はない。
瞳に宿っていた光が、ゆっくりと空ろへと変わっていく。
燃える都市の赤い光だけが、彼女の瞳の表面を淡く照らしていた。
「……やだ……」
フィアが小さく首を振り、唇を噛む。
目尻から溢れた涙が、頬をつたって落ちた。
「やだよ……。
こんなの……」
レインは震える指で、なおもログへ手を伸ばした。
《深層ログ閲覧》
【対象:リシア・グランツ】
表示された画面の前に、黒い壁のようなものが立ち塞がる。
そこには何も書かれていない。あるのは、ただの漆黒だけだ。
ERROR
ERROR
深層ログ:固定済
【改変不可】
【状態】“生命終了”
「……そんな、わけ……」
声が出ない。喉が焼けたように痛い。
切り裂きたい。
叩き壊したい。
この文字列を、その向こうにある“何か”を、全部――。
しかし、どれだけ強く意識をぶつけても、黒い壁はひとつも揺らがない。
ただ冷たく、冷静に「不可能」だと突きつけてくる。
「あぁあああああああああぁぁぁぁッ!!」
裂帛の叫びが、喉から勝手に溢れた。
焼けた空気を震わせるほどの声なのに、何も変わらない。
リシアの胸は上下しない。ログの表示も動かない。
深層のどこかで、彼女の運命は完全に固定されてしまっている。
【モノローグ/レイン】
「……本当に……どうやっても、変えられない未来が……あるのか……。
それが“世界のルール”だっていうなら……
俺の力は……何のために……!」
瓦礫の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてきた。
小石を踏み砕く乾いた音が、炎の爆ぜる音とは違う調子で耳に届く。
レインは顔を上げる。視界の先に、黒い靄をまとった影が立っていた。
勇者カイル。
彼の鎧には、戦いの痕跡がほとんどない。
返り血がところどころに飛んでいる以外、まるで散歩の途中にでも立ち寄ったかのような佇まいだ。
「また一人……無駄死にか」
感情の欠片もない声が、焼けた空気を滑る。
「弱者は……死んで当然だ」
リシアの亡骸を見下ろす視線に、哀れみも敬意もない。
そこにあるのは、ただ“計算の結果”を確認するような冷たさだけだった。
「……黙れ……」
唇が震える。
胸の奥で、何かが焼けただれていくような痛みが広がった。
「黙れぇぇぇぇぇぇッ!!」
レインは立ち上がり、喉が裂けるほどの声で叫ぶ。
「リシアさんは……“無駄”なんかじゃない!!
あの人が守った命が、どれだけあると思ってるんだ……!!」
カイルの瞳が、ほんの僅かだけレインの方へ動いた。
「守った結果……こうなった」
淡々とした声。
「なら、最初から守る必要もなかった。
弱い者が死ねば、世界の負荷は減る。
排除された分だけ、残った者が効率的に動ける」
「……お前は……」
レインは握りしめた拳を、自分の爪でえぐるほど強く握った。
痛みがなければ、今ここで何をしてしまうか分からなかった。
【モノローグ/レイン】
「……これが……世界に“魔王”として指定された勇者の考え……?
こんな理屈で、こんなふうに命を切り捨てて……
それを“正しさ”だと言うのか……!」
膝が、今にも崩れ落ちそうだった。
リシアを救えなかったショック。
深層ログの拒絶。
都市全体の崩壊。
そして、世界そのものが勇者を“破壊の象徴”へ作り変えていく現実。
すべてが重なり、心の芯がぐらつく。
【モノローグ/レイン】
「……なんのための力だ……。
運命を変えられるはずだったのに……
こんなにも、救えないなんて……。
結局……帳面に結果を書き残すことしかできない……
あの頃の俺に……逆戻りしただけじゃないか……!」
視界が滲む。
涙なのか、煙なのか、自分でも判然としない。
「レインさん……!」
肩に、温かい感触が触れた。
フィアが、震える腕でレインの身体を抱きとめていた。
涙で濡れた瞳が、真っ直ぐに見上げてくる。
「諦めないでください……!
あなたは……一番強い人です……!!」
「俺は……」
喉が詰まり、言葉が出ない。
強い?
何を救えた?
目の前で死んだ命すら、繋ぎ止められなかったのに――。
「だって……」
フィアはレインの胸元をぎゅっと掴む。
「私……レインさんに救われました……。
奴隷市場からも……何度も……命を……。
今日だって……たくさんの人が……レインさんのおかげで生きてる……!」
涙で歪んだ笑顔が、それでも必死に笑おうとしている。
「……だから……。
ここで立ち止まらないでください……。
リシアさんも……きっと、それを望まない……」
リシアの冷たくなった手の感触が、まだ掌に残っている。
最期に託された言葉が、胸の奥で鈍く響いた。
『フィアちゃんを……守れ……。
あの子は……希望だ……。
お前……なら……できる……』
【モノローグ/レイン】
「……俺は……」
ゆっくりと、拳を握り直す。
焼けただれた都市の中で、あまりにもか細い決意かもしれない。
それでも、それだけは失いたくなかった。
「……絶対に……負けない……」
かすれた声が、やがてはっきりした音になる。
「リシアさんの“想い”に……。
ここで折れたら……本当に、あの人の死が無駄になる……。
そんな終わり方……俺が一番許せない……!」
遠くで、炎が音を立てて崩れ落ちる。
カイルの足音が再び近づいてくる気配がする。
世界の終わりの気配が、確かに背後から迫っていた。
それでもレインは、握り締めた拳をゆっくりと前へ上げた。
悲しみも、怒りも、絶望も、全部まとめて喉の奥に押し込む。
そのうえで、ただひとつの言葉だけを抱きしめる。
【モノローグ/レイン】
「……ここから先は……誰一人、無駄死になんてさせない……。
深層ログが“救えない”と言うのなら……
そのルールごと、いつか必ず……書き換えてやる……!」
フィアの手が、そっともう一度レインの手を握った。
その温もりだけが、燃え落ちる都市の中で確かな現実として残っていた。




