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逆光のまま、名前を呼ばずに  作者: 月食ぱんな
均一な光に、名前を与える
22/27

8話|鎮火

 炎上は、思っていたよりもずっと静かに終わった。


 火が消えた、というよりは、別の音にかき消された、という感じだった。


 翌日、トレンドの一番上にあったのは、別のアイドルの熱愛報道。

 昼には有名俳優の離婚発表。

 夜には地下アイドルの未成年飲酒が炎上していた。


 それから運営がすぐにPipi☆Dotの公式SNSで、誹謗中傷には、厳正に対処していく旨を、定型文の並ぶプレスリリースで発表した。


 その結果、《#ナナちゃん発言》は、二ページ目に押し流された。


 世界は忙しい。

 誰か一人の言葉に、根気よく立ち止まってくれるほど、暇じゃない。


 いいねを押すくらいの軽さで、通り過ぎていく。

 石を投げるのも一瞬。そして、投げたことさえ忘れて、次の何かに指を伸ばす。


 でもそのおかげで、菜々子は、予定通り仕事に復帰した。


 メイクルームはいつも通りで、スタッフの誰も、過剰に気を遣わない。


「おはようナナちゃん!」


「おはよう。今日、内番だからね」


 それだけだった。


 謝罪文も、反省会も、特別なミーティングもない。

 運営から渡されたのは、いつもと同じスケジュール表と、「今日もよろしくね」という、曖昧な言葉だけ。


 スタジオの照明は、今日も均一だ。


 影を作らない光。

 誰の顔にも等しく降り注ぐ、正しい明るさ。


 菜々子は、椅子に座りながら、メイクさんにされるがまま、目を閉じる。


(……普通だ)


 拍子抜けするほど、何も変わっていない。


「はい、メイク終了。今日も可愛いよ、ナナちゃん」


 その言葉に、菜々子はゆっくりと瞼を押し上げた。鏡の中にいたのは、数日前の自分と何ひとつ変わらない「Pipi☆Dotのナナちゃん」の顔だった。


 数万件の罵倒を浴び、再起不能だとさえ言われた、あの真っ赤に燃え盛ったタイムライン。その中心にいたはずの自分の顔には、火傷の痕一つ残っていない。


 あるのは、自分で選択して刻んだ、左目の下にある小さな泣きぼくろのタトゥーだけ。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。あ、リップちょっと薄いかな? 本番直前にまた直すね」


 メイクさんは鼻歌まじりにブラシを片付けている。彼女にとっての関心事は、菜々子の失言の内容ではなく、今日の肌のコンディションと、照明に負けない発色。ただそれだけだ。


 スマホを開く。


 通知は、少し増えていた。


 フォロワー数は、微増。

 減っているどころか、昨日より多い。


 スマホを閉じようとしたその時、背後で重苦しい溜息が聞こえた。


 いつからそこに立っていたのか、マネージャーの佐々木が、手元のタブレットを見下ろしたまま菜々子の背後に立っていた。


「……菜々子」


 鏡越しに視線が合う。佐々木は、メイクさんに短く顎で合図してから、低い声で言った。


「フォロワー、増えたな」


「……はい」


「安心したか?」


 菜々子は、答えなかった。


 佐々木は、タブレットを一度だけ傾ける。

 画面に映るのは、擁護のコメントと、伸び続ける数字。


「覚えておけ」


 声は静かだった。


「今のそれは、人気じゃない」


 一呼吸する一拍を置いて。


「可燃性の在庫だ」


 無慈悲な言葉が、空気に落ちる。


「火がつく場所に、燃えやすい材料が集められただけだ。次は、もっと派手に燃える」


 佐々木は、菜々子の顔を見なかった。


「だから」


 少しだけ、言葉を切る。


「余計なことは言うな。次は、流れない」


 佐々木は背を向けた。


「……はい」


「笑顔、忘れるな」


 佐々木はそれだけ言い残し、また慌ただしく電話を受けながら部屋を出て行った。


 菜々子は、鏡の中の自分を見つめ直す。完璧なメイク。丁寧に整えられた髪。商品としての奈々子は、今日も完璧に陳列されている。


 スマホ画面に視線を落とす。


 《炎上したって聞いて来たけど、逆に好きになった》

 《正論言えるアイドル貴重》

 《叩かれてるけど、ナナちゃん間違ってない》


 肯定の声は、否定よりも、粘着質だった。


 誰も「謝って」とも、「説明して」とも言ってこない。ただ、佐々木の言う通り、自分の立場を補強する材料として、ナナを使っていた。


「佐々木ちゃん、厳しいけどさ。もう切り抜き伸びなくなってるから、結果オーライだよ」


 陽葵は、隣の席でヘアアイロンを当てられながら、鏡越しにのんきな声を投げかけてきた。


「注目されてナンボの世界でしょ。無関心よりは、全然マシじゃん」


 真緒の言葉には、毒もなければ、同情もない。ただ、この世界を「数字」という冷徹な単位で測る、乾いた現実感だけがあった。


「まあ、よかったじゃん。仕事飛ばなかったし」


 梨花はそう言って、ペットボトルの蓋を開ける。


「炎上ってさ」


 梨花が、独り言みたいに続ける。


「燃え続けると思うと怖いけど、意外とすぐ次に行くよね。みんな」


 菜々子は、鏡の中の自分を見つめながら、頷いた。


「……うん」


 次に行く。でもそれは、許されたという意味ではない。

 ただ、興味を失われただけだ。


「……そうだね。数字、増えてるもんね」


 菜々子は、自分でも驚くほど冷めた声で応えた。


「はい、じゃあ移動お願いします!」


 スタッフの威勢のいい声が響き、メイクルームの空気が一気に外へと流れ出す。


 廊下に出ると、そこはいつもの戦場だった。台本を抱えて走るAD、機材を運ぶ照明担当、談笑しながらスタジオに向かう別のタレント。


 誰一人として、菜々子の前で足を止めない。

「大変だったね」とも「反省してる?」とも言わない。


 ただ、すれ違いざまに機械的な「おはようございます」が降ってくるだけ。


(昨日、あんなに世界が終わるみたいな音がしたのに)


 昨晩、素に戻った奈々子が布団の中で眺めていた、あの暴力的な言葉の羅列。スマホをスワイプするたびに増えていく、自分を否定する言葉、言葉、言葉。それらは今、どこにも存在していなかった。


 スタジオに入ると、色とりどりのセットが目に飛び込んでくる。そこには、前回の収録と何一つ変わらない配置で椅子が並び、カンペが用意されている。


「ナナちゃん、今日の台本、ちょっとだけ『尖った』回答にしておいたから。その方が今、ウケいいでしょ?」


 台本を渡してきた構成作家の男は、当然のように笑って菜々子の肩を軽く叩く。彼にとって、あの炎上は騒動ではなく、番組のスパイスになる武器にすぎない。


「……あ、はい。わかりました」


 スタジオの隅では、別のアイドルグループが自撮りをしている。彼女たちの会話から漏れ聞こえてくるのは、今日トレンド一位になったアイドルの熱愛の噂だ。


「マジでありえないよね、あの撮られ方」

「脇が甘すぎ」

「あの子、匂わせとか凄かったもんね」


 仲よさげにスマホにカメラを向けながら、彼女たちの口からは、まるで昼飯の献立でも選ぶような軽さで他人の不幸が溢れ出していた。


 世界は、驚くほど正常に、冷酷に回っている。


「はい、スタンバイお願いしまーす!」


 カメラの赤いランプが点滅を始める。強力な照明が焚かれ、スタジオの隅々にまで「正しい明るさ」が行き渡る。


 影一つ許されない、均一な光。


 菜々子は、カメラのレンズを見据えた。その奥にある、無数の、そして何も見ていない瞳に向かって。


「おはようございまーす! ナナです! 今日も一日、元気にいきましょう!」


 口角を、ミリ単位で完璧な位置に吊り上げる。それは、数日前よりもずっと鮮やかで、そして空っぽな笑顔だった。


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