7話|炎上2
リングライトに照らされた瞳は、荒れ狂うコメント欄を、まるですれ違う電車の窓を眺めるように無機質に捉えている。
そんな中、奈々子は、マネージャーの車の中で見たあの画像が、猛烈な鮮明さで重なっていた。
加工もライティングもなく、ただそこにある「影」そのものを肯定されていた椎名冬羽。それに比べて、今の自分はどうだろう。リングライトの光で毛穴まで消し去り、親しみやすさをミリ単位で計算し、挙句の果てに「自分の人生を生きろ」とファンを突き放す。
(……あ、矛盾してる)
救いたいなんて思っていない。けれど嫌われたいとも思っていない。ただ、自分の輪郭をこれ以上、見知らぬ誰かの熱量で溶かされたくないだけだ。
「じゃ、次、ナナの番。最近気になる話題教えて」
梨花に振られた声で、菜々子は現実へ引き戻された。
目の前には、リングライト。網膜を焼くような白い円環。その向こう側には、自分の言葉一つに一喜一憂し、時に牙を剥く、顔の見えない数万人の群れがいる。
「最近バズった話題、だよね。えっと、最近はね……」
菜々子は、「正解」の回答を引き出そうとした。けれど、声がわずかに上擦ったのを、高性能なマイクは逃さない。
《声震えてる?》
《動揺してるの?》
《ナナちゃん、無理に笑わなくていいよ》
善意の心配さえ、今の菜々子には肌を刺す針のように感じられた。
隣に座る梨花の手元がわずかに震え、ガタ、と椅子の軋む音が響いた。
生配信特有の、あの「拾われてはいけない音」だ。
「あ、ナナは気に入ってたよね?ええと、正体不明のアーティストの写真を撮ったやつ」
梨花の声は、あきらかに浮いていた。
話題を「最近バズったもの」に戻そうとする、精一杯の救命措置。
けれど、その単語を口にした瞬間、コメント欄が一斉に反応する。
《あの逆光の男?》
《リンカちゃん今それ言う?》
《伏線回収きた?》
画面の温度が、また一段階上がる。
菜々子は、息を吸った。長くも短くもない、訓練された吸気。それをすればフラットに戻れるはずだった。けれど今回は、それを吐き出すタイミングが、ほんの一拍ずれた。
「……ああ、あれね」
声は、落ち着いている。
「たまたま流れてきて。印象に残った、っていうか」
たまたま。
その言葉が、コメント欄で噛み砕かれる。
《たまたま??》
《アルゴリズムでしょ》
《ナナちゃんも見たんだ》
《推しが推しを見てる構図?》
菜々子は、画面の奥を見つめる。
見ているのは、文字ではない。
その向こうにある、期待の形だ。
(ここで線を引かないと)
頭の中で、冷静な声がする。
同時に、別の声が囁く。
(でも、もう引いたよね。一回)
配信で言った「なれない」という言葉。
あれは、線だった。
そして今、その線の上に、無数の視線が殺到している。
「……その人の写真、妙に目に残ったんだよね」
言ってしまってから、気づく。
これは、説明ではない。
感情が見えてしまう、感想だ。
陽葵が、ほんの一瞬だけ、こちらを見る。
真緒の笑みが、完全に消える。
「音も、主張もなくて。ただ、消えずに置いてある感じで」
《わかる》
《あれ良かった》
《え、ナナちゃん詳しくない?》
菜々子は、指先に力を込めた。
泣きぼくろに触れたい衝動を、抑える。
「……こういうの、たまにあるよね」
無理やり、一般論に落とす。
「理由は分からないけど、目に残るものって」
分からない。それは、これまで菜々子が避けてきた言葉だ。
分からないものは、分類できない。
分類できないものは、商品にならない。
コメント欄の流れが、少しだけ変わる。
《ナナちゃん、語るとこそこじゃない》
《恋愛の話じゃなかった?》
《結局何が言いたいの》
スタッフが、再び大きく手を振る。
もう一度、話題を切れという合図。
「……ごめんね」
菜々子は、はっきり言った。
「今の、私の話。忘れて欲しい」
口角は上がっている。
声も、柔らかい。
けれどその言葉は、命令に近かった。
「じゃあ、次いこ。次」
梨花が、素早く頷き、ボードをめくる。
「えっと……次は、これは女の子からの質問だよ。最近買ったお気に入りのコスメはありますか?だって」
《切った》
《強制終了》
《今の何だったの》
コメント欄の温度は下がらない。
菜々子は、用意された答えを口にする。
色番。質感。限定かどうか。
全部、正解。
リングライトの中で、菜々子は微笑む。けれど、その笑顔は、ほんのわずかだけ遅れて表示されていた。
配信終了まで、あと二十分。
画面の端で、赤い「LIVE」は、まだ点っている。
「わかった。ちょっと落ち着こう!!」
陽葵が、弾けるような笑顔と、それでいて必死な眼差しで菜々子を覗き込む。
「とりあえずナナは、みんなを大切に思ってるからこそ、自分自身も大事にしてほしいって言いたいんだよね! ね!?」
抜群の明るさを纏う「太陽担当」の強引な解釈。それは、バラバラになりかけた空気をつなぎ止める、彼女なりの優しさだった。
「……そう。そうだよ」
菜々子は即座に正しい顔を貼り直す。けれど、一度溢れた毒は、リングライトの光では消せない。
《言い訳乙》
《本音出ちゃったね。ファンを財布としか思ってないんだ》
《依存するなって、結局関心ないってことでしょ》
《Pipi☆Dot終わったな》
赤字のギフトと共に、罵詈雑言が投げ込まれ始める。
配信という密室は、一瞬にして公開処刑場へと変貌した。
梨花は、ただ黙って画面を見つめる。彼女の目は、非情なコメントを分類することさえ諦めたように、静かにただそこにある事実として、言葉を眺めていた。
「ごめんね、みんな。言葉が足りなかったみたい」
菜々子は、カメラに向かって深々と頭を下げた。うなじをさらけ出す。それは「商品」が瑕疵を認めるポーズだ。けれど、頭を下げている最中、視界の端に映るスマホの画面には、急激に跳ね上がる『視聴者数』が表示されていた。
(増えている)
一瞬だけ、頭の中で「失敗ではない」という判定が下りる。けれど、すぐに、その考えを打ち消す。
配信が強制的に終了されるまでの五分間、菜々子の瞳の中のリングライトは、もはや天使の輪ではなく、逃げ場のない標的のスコープのように見えていた。
配信が終わる頃には、表情筋がいつもよりずっと痛かった。
スタッフが「お疲れさまでした」と小声で告げ、カメラが切断された。
瞬間、世界が静かになる。
菜々子は、膝の上で指先を一度だけ握り込む。
スマホが震える。
通知。
メンション。
タグ。
画面に流れてくる文字列が、目に刺さる。
《#ナナちゃん発言》
《#推し活否定》
《#アイドル正論》
「……もう回ってる」
誰かが言った。
誰の声か、分からない。
控え室の蛍光灯は均一で、影を作らない。
だから、誰の表情も平坦に見えた。
菜々子は、スマホを開く。
最初に目に入ったのは、切り抜き動画だった。
《Pipi☆Dot ナナ「生きる理由になりたいとは思ってない」発言》
白い字幕。
太字の強調。
短い尺。
再生数は、秒単位で増えていく。
コメント欄は、すでに戦場だった。
《冷たすぎる》
《夢売ってる自覚ないの?》
《依存するなって正しい》
《推し活否定は無理》
《ファンいなきゃ終わるくせに》
《ナナちゃんはまとも》
《これ、刺さる人多いだろ》
《推しが理由で生きてる人もいる》
《じゃあ死ねってこと?》
《言ってない》
《でもそう聞こえる》
菜々子は、音を切ったまま、ただ画面を見つめた。
指先が、少しだけ冷える。
(……嘘は言ってない)
でも、本当のことを言えばいいわけじゃない世界に、菜々子は配置されている。
そう思った瞬間。見慣れたアイコンが飛び込んでくる。
——なとくん@ピピドッター。
《ナナちゃん、俺たちは味方だから。ナナちゃんは間違ってないし、必ず守るから!》
菜々子は、画面を指でなぞり、返事を打たずに閉じた。
味方。
間違ってない。
守る。
その言葉がいちばん怖いことを、彼らは知らない。
控え室の外から、ファンの歓声が遠く聞こえた。
まるで、火が回る音みたいだった。




