6話|炎上1
生配信は、握手会よりも静かだ。
静かだけど、視線は多い。
スマホ一台。リングライト一つ。白い壁。
それだけで、部屋は「番組」になる。
ただし、椅子の軋みも、息継ぎも、言い淀みも、全てが拾われるので注意は必要だ。
菜々子は、控え室の簡易テーブルの前に座っていた。ピンクの衣装ではない。今日の配信は「私服風」で統一されている。ふわふわしたニット、ハイウエストのスカート、薄いピンクのリップ。
電車の隣で、教室で、会社で、立ち寄ったスーパーで……ファンたちの日常の中に、ひょいと紛れ込むような、親密な幻想を抱かせるコーディネートを計算した。
(それが、今日の商品だし)
菜々子は、画面に映る自分の顔を最終確認する。リングライトの光は瞳の中に完璧な白い輪を作り、肌の微かな凹凸を飛ばして、毛穴のひとつも見当たらない磁器のような質感に変えてくれる。
デビューする時、運営から「何かわかりやすい特徴があるといい」と言われたのを、ふと思い出す。
誰にでも好かれる端正な顔立ちは、時に「印象に残らない」という致命的な欠点になる。
菜々子は迷わず、左目の下に小さな泣きぼくろのタトゥーを入れた。数ミリの黒い点。それだけで、平坦だった「菜々子」という顔に、ある種のフック——切なさや情緒といった、物語の種が芽生えた。
(不純物ひとつない美しさは、消費しにくい)
あえて付け加えた欠け。今、リングライトに照らされた画面の中では、その小さな黒い点が、親密な幻想を完成させる最後のピースとして機能している。
「まもなく配信開始です」
スタッフが、カメラの外で手を上げる。
開始まで、あと十秒。
菜々子は、いつものスイッチを入れる。
背筋を伸ばし、顎を引き、目線をレンズに合わせる。口角を、黄金比の位置へ。
スタッフの合図とともに、画面の端に「LIVE」の赤い文字が点った。
瞬時に、コメント欄が滝のように流れ始める。
《かわいい》
《今日も天使》
《生きててよかった》
《仕事しんどいけどナナちゃんで回復》
《彼女と別れたけど配信間に合った》
菜々子は、訓練された絶妙な速度で、けれど少しだけ照れたように微笑んだ。口角の角度は、練習した通りの「親しみやすさ」を演出するミリ単位の調整。視線はカメラのレンズ。その向こう側にある、何万ものスマホの画面を見つめる。
「こんばんはー!Pipi☆Dotのピンク担当、ナナでーす!」
画面の向こうから、無数の手が振られているみたいに、コメントがさらに跳ねる。
「今日も会いに来てくれてありがとう。みんな、ちゃんとご飯食べた?水分取った?寝れてる?」
けれど定型文ほど、効く。
誰かに心配されたという体験は、人を長く繋ぎ止めるから。
隣の椅子で、陽葵が大げさに頷いて見せる。黄色担当の陽葵は、今日も太陽みたいに笑っている。
「ねえ、ナナ!今日の企画、赤裸々に恋バナを話すってホント?」
「……聞いてないけど?」
菜々子が即答すると、コメント欄が「草」「ナナの冷静さ好き」で埋まる。
「つまり、私たちが揃って坊主頭がタイプですって言ったら、明日からみんな髪の毛を剃っちゃうのかな?」
陽葵の無邪気な爆弾発言に、コメント欄は「明日バリカン買うわ」「予約した」と大盛り上がりを見せる。菜々子はそれを見事なタイミングで制止し、笑いに変えながら、淡々と「ナナちゃん」を遂行していく。
「でもさ、みんなが坊主頭のライブ。そんな光景、怖いけど見てみたい気もする」
真緒が、画面の外で笑い声を押し殺す。
今日の赤色担当は、どこか機嫌がいい。
「ちょっと、恋バナの前に、事前に募集した質問に答えるコーナー行くよ」
スタッフが用意したボードを、梨花が読み上げる。
青色担当の梨花は、手元のボードをめくる動作が、どこか事務的で重い。あまりエンジンが掛かっていないようだった。
質問はいつもの通り、無難なものから始まった。
好きな食べ物。最近ハマっている曲。
朝のルーティンに、行ってみたい場所。
菜々子は、用意された範囲で笑い、盛り上げる。けれど、配信という場には必ず境界線を試す質問が紛れ込む。
梨花が、少しだけ視線を泳がせて、紙をめくった。
「えっと……次の質問は……」
コメント欄が、先回りしてざわつく。
《きた》
《恋愛系?》
《地雷踏むなよ》
《運営頼む》
梨花は、覚悟を決めたように息を吸い、読み上げた。
「ナナちゃんにとって、ファンってどんな存在ですか?自分は、ナナちゃんがいないと生きていけないです……だって」
空気が、一瞬だけ止まった。
陽葵が、笑顔のまま固まる。
真緒が、口元だけで「うわ」と言った。
梨花は、紙を持つ手をきゅっと握りしめている。
菜々子は、コメント欄を見ない。
見れば引っ張られるからだ。
今必要なのは、言葉の選び方だけ。
(重いな、と思う)
反射的に浮かんだのは、そんな可愛げのない一言だった。いないと生きていけない。その言葉に含まれた純度の高い依存は、菜々子にとって、スポットライトよりもずっと眩しすぎて、直視できない類のものだった。
誰かの人生の屋台骨になるなんて、菜々子自身が望んだことではない。自分はただ、「Pipi☆Dotのピンク担当ナナちゃん」という商品を、適切な価格で、適切な場所に陳列しているだけなのだから。
そう言い切ってしまえたら、消せなかったもののことを、考えなくて済む。けれど、それを口にすれば「商品」としての価値は暴落する。ファンが求めているのは、冷徹な真理ではなく、自分たちの熱量に応じた「愛」という名の幻想だ。
菜々子は、視線をカメラのレンズの、さらに奥へと滑らせた。
「……嬉しい。そう思ってもらえるくらい、みんなの日常に私がいるんだなって思うと。でもね」
口角の角度は変えない。けれど、声のトーンをわずかに落とす。寂しさの中に、一滴だけ慈しみを混ぜたような、絶妙なニュアンス。
「……アイドルって、誰かの人生の代わりになる仕事じゃないと思うんだ」
梨花が、息を呑むのが分かった。
陽葵が、視線だけで「大丈夫?」と聞いてくる。
真緒は、火がつく匂いを嗅ぎつけたように、面白がっている顔をしていた。
菜々子は、淡々と言葉を並べることを自分に課す。その方が、余計な感情が乗らないからだ。
「応援は、嬉しい。ほんとに救われる。でも、私がいることで誰かが何かを失うなら……それは、たぶん間違ってる」
コメント欄が、ゆっくりざわつき始める。
《それな》
《依存するなってこと?》
《いや、推しが生きがいの人もいるだろ》
《ナナちゃんはまとも》
《冷たくない?》
《いや優しいだろ》
菜々子は、最後に一つだけ、線を引く言葉を置くことにする。そこを曖昧にすると、受け取り方が暴走する恐れがあるからだ。
「だから、私はね。誰かの生きる理由になりたいとは思ってないし、なれない。なりたくない、じゃなくて……なれないの」
奈々子は、鏡張りの自分を確認するように、そっと指先を左目の下の泣きぼくろへ伸ばした。
コメント欄の速度が、一気に加速する。
《え》
《なりたくないって言った?》
《推しに言われたら死ぬ》
《ナナちゃんは間違ってない》
《これ切り抜かれるやつ》
《スクショした》
《録画した》
スタッフがカメラの外で手を振っている。
次の話題に移れという合図だ。
陽葵が慌てて笑い声を作り、真緒は、唇の端だけで笑った。彼女のその笑みは、「あー、やっちゃったね」という、残酷なまでの予感を含んでいる。
「……じゃあ、次の質問!最近バズった話題で、一番印象に残っているのは何ですか?」
梨花が震える声で軌道修正を試みるが、コメント欄は彼女の声を聞いていない。
菜々子は口角を固定したまま、視界の端で、自分を爆心地とするコメント欄の爆発を見守る。一度ついた火は、スタッフの制止も、陽葵の明るい声も、梨花の事務的な進行も、すべてを燃料にしてあっという間に燃え広がっていく。
《生きがいを否定された。ショック》
《ナナちゃん、それ本音なの?》
《何様? お前がアイドルでいられるのは誰のおかげだと思ってんの?》
《さすがに冷たすぎ》
菜々子は、誹謗中傷を、淡々と「ノイズ」として処理する。脳内の仕訳ボックスが高速で稼働して、これはゴミ箱、これもゴミ箱、これは放置と仕分けした。
目の前では、最近バズった話題について、陽葵が必死に流行りのダンス動画の話をしている。
「そうそう、あのステップ難しくない!? 私、楽屋で練習して真緒に笑われちゃったんだから!」
陽葵の懸命な軌道修正。けれど、菜々子の意識はそこにはない。網膜の端を、真っ赤な文字が横切る。
《裏切り者》
《調子乗りすぎ》
《もう応援しない》
(……バズった話題か)
奈々子は冷静に、次に自分に振られるであろう質問の答えを考える。
つい癖で、指先が左目の下の泣きぼくろに触れた。その瞬間、なぜか昨夜見た、あの写真を思い出してしまった。




