第29話
雪絵の七回忌、真咲が六歳になる少し前のことだ。雪絵の故郷はまだ雪景色だった。庭の向こうに小さな山が見えた。なだらかな斜面にも雪は降り積もり、遠くに紅い鳥居が見える。美しい景色だった。
法要が終わり最後の客を送り出した、夕暮れに近い時刻だった。奥の小部屋で昼寝をしていた筈の真咲の姿が見えないことに気付いた。掛布団が捲られており、縁側へ続く障子が開いていた。家の中を探しても何処にもいない。外へ出たのかと村人総出で探し回っても、真咲は見付からなかった。
我を失う程に取り乱し、麻美はひとり雪山へと足を踏み入れた。神社の石段を上ると古ぼけた鳥居があった。立ち込めた白い霧の中に佇む紅い色が、何故か毒々しく見えた。
「真咲くん、何処にいるの? 返事をして!」
次第に吹雪いて来る中、降り積もる雪に足が取られる。冷え切った身体が細かく震えた。
その時だった。霧の中に微かに赤い色が揺れた。よろけながら近寄ると、巫女装束の華奢な後ろ姿が見えた。長い黒髪が風に躍る。降りしきる雪と同じ白い着物に、血のように赤い袴。その隣に小さな後ろ姿があった。
「待って」
呼びかけに二人は振り向いた。冷たい風に髪を乱す、雪絵とそっくりな美しい女。そして彼女と手を繋いだ、着物姿の子供。
その日、真咲は寝間着代わりに、雪絵が子供の頃に好きだったという金魚の柄の浴衣を着ていた。総絞りの兵児帯が出目金の尻尾みたいだと、真咲は喜んでいた。お腹が冷えるからと下だけ穿かせた黄色いパジャマが、浴衣の裾から少しだけ出ている。その下が裸足であることに気付いて、麻美は息を呑んだ。
不思議なことに、血の気の失せた顔色をしているにも関わらず、真咲は全く寒そうな様子を見せなかった。隣に立つ女を見上げてにっこりと微笑み、頷いて麻美に視線を戻す。色のない唇が、幼い声で言葉を紡ぎ出した。
「おかあさん」
母親を麻美に紹介するかのように、真咲は言った。嬉しそうに。とても、誇らしげに。
見つめ合い笑みを交わす二人は、とてもよく似ていて、本物の母子にしか見えなかった。
胸の奥に小さく、冷たい痛みが走るのを感じた。
「華絵さん」
呼びかけると、華絵は薄く笑った。
「連れて行くね。ゆきちゃんが淋しがるから」
吹き付けた風が、また華絵の長い髪を乱した。
夢中で手を伸ばしていた。真咲の細い腕を掴み、華絵から引き離す。繋いでいた手が離れた途端、真咲は急に寒さに気付いたように震え出した。裸足の足の冷たさに地団太を踏むようにして、華絵に助けを求める。
「おかあさん」
「駄目!」
華絵に向かって手を伸ばす真咲を抱え込み、麻美は後ずさった。
「駄目。絶対に渡さない!」
麻美の剣幕に驚いた真咲は泣き出し、麻美の腕から抜け出そうと藻掻いた。
「おかあさん!」
嫉妬だったのかもしれない。雪絵に瓜二つの華絵を真咲が求めている。それが堪らなく辛かった。
「おかあさん……おかあさん!」
真咲は泣きながら、麻美の腕を逃れようとする。麻美は腕の中の身体を抱きすくめた。母を慕う幼子の思いを、力尽くで押しとどめた。
華絵が静かに背を向ける。赤い袴が風に翻った。雪混じりの風が吹き付け、ほんの一瞬視界が途切れる。気付いた時にはもう、華絵の姿はどこにもなかった。
泣きじゃくる真咲を抱きしめる麻美の耳に、か細い声が聞こえた。
──また、必ず迎えに来るから
麻美は真咲を抱き上げ、その場から逃げた。やみくもに走って、やがて足が縺れて雪の中に膝を付いた。吹雪が酷くなっていく。鳥居も見えなくなり、自分が何処にいるのかも分からない。手足は既に感覚がなく、真咲の泣き声だけが辛うじて意識を現実に留まらせていた。
白く霞む視界の奥に小さな山のようなものが見えた。近付いてみると。子供の背丈ほどの小さなかまくらだった。村の子供達が作ったのだろう。麻美はその中に入り蹲った。しかし風は何とか防げても、身を切るような寒さは防ぎようがなかった。腕の中の泣き声が弱々しくなっていく。上着を脱ぎ前をはだけて、麻美は真咲をその胸に抱きしめた。脱いだ上着で小さな身体を包み、温めた。
雪の壁の向こうから、吹雪の音が聞こえていた。




