第8話 溺れる者がつかむもの
何を信じればいいのか分からない時は、最後には神を頼るしかない。
2月末にしては暖かい陽射しが差し込む教室の一角で、菊池麻悠は解答用紙と睨めっこしていた。
学年末テストの最終日の最後の科目。
最も苦手にしている英語の問題に手こずっていた。
うーんと唸ってもこれという答えは全然思いつかない。
だから、最終的には選択肢を適当に並べることになった。
「まっ、うちの学校で留年したなんて聞いたことないから、大丈夫なんじゃないかな?」
試験終了を告げるチャイムの音に混ざってつぶやいた。
出来はともかく、試験が終わったことに安堵し、麻悠は足取り軽く昇降口へと向かう。
「おせーよ」
靴箱にたどり着いた所で、不機嫌を隠さない声が投げ掛けられた。
そこに立っていたのは双子の弟の悠真。
「仕方ないでしょ。女の子にはいろいろと準備することがあるんだから」
麻悠は振り向きもせず、淡々と靴を履き替える。
「弟と出掛けるのに、準備も何もないだろ?」
「そうだよ、悠真はどうでもいいんだよ」
「じゃあ、なんだよ?」
「だって、今から行く所にはイケメンがたくさんいるからね」
声を弾ませる麻悠に悠真はあきれ顔を向ける。
「イケメンって、誰のことだよ? 俺たちが今から向かうのは児童クラブだぞ?」
「だから、そこにたくさん来るでしょ? 将来のイケメンが」
「うげっ……」
悠真は苦虫を嚙み潰したような顔を見せる。
「麻悠はショタコンだったのか……」
「違うし。ショタコンじゃないし。将来への投資だよ」
はあと、大げさに肩を落とす悠真。
「なんで麻悠が俺の姉ちゃんなんだろうな?」
「私が先に生まれたからでしょ?」
「いや、そういうんじゃなくてだな……。そもそも、昔は後から出てきた方が上って考えもあったらしいぞ」
「大丈夫、私は昔のことなんて気にしないから。大事なのは今だよ」
「何が大丈夫なんだよ? その調子じゃテストも大丈夫じゃなかったんだろうな」
「うっ……。と、とにかく行くよ」
痛いところを突かれた麻悠は、悠真を置いて、そそくさと校舎から出ていく。
悠真はその後ろ姿にジト目を送ってから、「いつものことながら、しょうがないな」と、後を追った。
2人が向かう児童クラブは学校から5分ほどの距離。
両親と園長が知り合いということもあって、高校に入学してから週に数回、ボランティアをしている。
児童クラブに着くのは、普段は当然小学生の方が早い。けれど、この日は学年末テストだけだったので、2人が建物に入るのは子どもたちとほぼ同時だった。
「あっ、お兄ちゃん、お姉ちゃん、こんにちは」
気付いた児童たちが口々に2人に声を掛ける。
「こんにちは、今日もよろしくね」
「おう、元気そうだな」
そんな風に、あいさつを返す2人を園長が出迎えてくれた。
「今日は早かったんだね」
「はい、今日はテストだけだったので」
麻悠が元気よく応える。
だが、
「そうか、もう学年末テストの時期なんだね。どうだった?」
という園長の質問には声を詰まらせ目線を逸らす。
そんな姉の様子に苦笑して、悠真が代わりに口を開く。
「僕はまあまあでしたね。姉については、まぁ、ご察しの通りということで」
「なるほど。君たちは来年は受験だし、ここの手伝いも無理のない範囲でいいからね」
優しく告げる園長に、麻悠は顔の前でブンブンと手を振る。
「いいえ、無理なんてしてません。子どもたちと接するのは好きなので、むしろ私たちの方こそ楽しませてもらってますから」
「けど、園長先生の言う通りだぞ。もし麻悠だけ浪人するようなことがあれば、俺の方が学年が上ってことになるんだからな」
「えーっ、それは困る。姉としての威厳が保てなくなるよ」
「もとから、そんな威厳なんてないけどな」
2人が園長を囲んで言葉を交わしていると、耳ざとい女の子が近付いてきた。
「お姉ちゃんは勉強苦手なの? それなら私の宿題はお兄ちゃんに見てもらおうかな?」
じっと顔を見つめられて麻悠は慌てて否定する。
「違うよ。私はちょっと得意じゃないってだけだよ」
「でも得意の反対は苦手だって、学校で習ったよ」
「ううん、この世の中はね、そんなに単純じゃないんだよ。何かの反対が別の何かってことはないんだよ。その間もあるんだよ」
麻悠が必死になって言葉を継げば継ぐほど、女の子の顔が曇る。
見てはいられないと、悠真が口を挟む。
「ほら、麻悠が変なこと言うから、困ってるだろ」
「でも……」
なおも反論しようとする麻悠を放って悠真が女の子の前にしゃがみ込む。
「勉強はお兄ちゃんが見てあげるから、安心して」
「うんっ、お願いします」
そう言って、女の子は悠真の手を引いて自分の席へと戻っていった。
残された麻悠は、うぬぬぬぬぬ、とひとしきり唸る。
けれど、弟ばかりに手柄は取らせまいと、気を取り直して児童たちの所に向かった。
2人が次に児童クラブを訪れたのは2月最後の金曜日だった。
中に入ろうとしてると、それに気付いた園長が玄関先まで出てきた。
「こんにちは」
麻悠はいつものように明るく挨拶をするが、園長の表情は冴えない。
悠真が普段と違う様子に気付き、園長に尋ねる。
「どうかしましたか?」
「あぁ、ちょっと言いにくいんだが……。ちょっとこっちに来てくれるか」
声を落として、2人を園庭の隅に誘う。
神妙な園長の声を聞き、麻悠と悠真は視線を交わし合って後に続く。
「昨日、休校要請が出されたのは知ってるだろう?」
園長の言葉に2人は頷く。
「はい、私たちの学校も週明けから休校になりました」
「うん、それで申し訳ないんだけど、君たちの手伝いもしばらくは遠慮してもらいたいんだよ」
「どうしてですか?」
突然の事態に目を丸くする麻悠を見て、悠真が尋ねる。
「言いにくいんだけど、保護者からボランティアの子たちが感染のリスクを高めるんじゃないかって言われてしまったんだよ」
「けど、学校が休みになるってことは、児童クラブは午前中から開けないといけないんですよね?」
悠真の質問に園長は静かに首を縦に振る。
そんな園長とは対照的に麻悠が声のトーンを上げる。
「じゃあ、人手が足りなくなりますよね? こういう時こそ、私たちを頼ってください」
「その気持ちは本当にありがたいよ。けどね、コロナはまだ分からないことが多すぎるんだよ。若者が感染を拡大させたなんていう海外の報道もあるしね」
「私たちは、そんなことしません」
麻悠の声音は悲しさを帯びる。
「手伝ってくれようとする気持ちだけでもありがたいよ。人手が足りない部分は今いるスタッフで何とかするから」
そこまで言われると、麻悠と悠真には言葉を返すことはできなかった。
結局、2人はそのまま児童クラブを後にするしかなった。
休校が始まって1週間。
麻悠と悠真は暇を持て余していた。
外出するわけにもいかず、家の中で無為な時間を過ごすしかなかった。
麻悠はリビングのソファーに体を預けテレビをザッピングしていた。
「なんかおもしろい番組でもあるか?」
いつの間にか部屋に入ってきていた悠真が声を掛ける。
「ううん、平日の昼間だし、なーんもないよ」
「だよな」
麻悠に同意しながらも、悠真も隣に座りテレビ画面に目を向ける。
「……暇だな」
「うん。けど……」
中途半端に口を閉じた麻悠に悠真は怪訝そうな表情を浮かべる。
「けど、どうしたんだ?」
「あの児童クラブは大変そうだなって思って」
「あぁ、そうだな。もともとスタッフさんも少ないところなのに、毎日朝から子どもを預かってるわけだからな」
「何のための休校なんだろうね? みんな大変な思いをしてまで休校しないといけないのかな?」
「感染を防ぐためには仕方ないだろ」
麻悠は、にべもない悠真の態度に腹立たしさを覚えるが、感染を防ぐというお題目に逆らうつもりはない。
「私だって理解はするよ。けど、納得はできないよ」
つぶやく麻悠を、悠真はちらりと見る。
「誰も納得することなんて求めてないんだろ」
「じゃあさ、私たちに何かできることってないかな?」
「そんなのないだろ。あるとすれば、こうやって家でじっとしてることだけだよ」
相変わらず冷たい悠真の応答に、麻悠は頬を膨らませテレビのリモコンを操作する。
「あっ」
画面に映ったニュースを目にして、麻悠が声を上げる。
「これだよ」と、テレビを指差す。
ニュースは、マスクの品薄が続き困っているという高齢者のコメントを流していた。
「これって?」
顔を向ける悠真に、麻悠は目を輝かせる。
「たぶん児童クラブもマスクは足りないと思うんだよね。だから、私たちが何とかしようよ」
「何とかってどうするんだよ。店にも売ってないし。ネットオークションで落とすとでも言うのかよ?」
「違うよ」
麻悠は顔の前できざったらしく人差し指を振る。
「ないなら、作ればいいんだよ」
「作るって、どうするんだよ?」
「手芸品店に行けば、いろいろあるはずだよ」
「それって布マスクだろ? 布マスクはあんまり効果がないってこないだ見たぞ」
悠真は「ほら」と、ニュースサイトを開いたスマホの画面を麻悠に示す。
麻悠はスマホの画面に一瞥をくれると、横にブンブン顔を振る。
「そういう説もあるってだけでしょ。私は布マスクでも効果はあるって思ってるからいいの」
「その考えはどうかと思うけどな」
「いいんだよ。人はね、結局、信じたいものしか信じられないんだよ。だから、私は布マスクでも効果があるって信じる。それに、信じるものは救われるって言うでしょ?」
強引に屁理屈とも呼べない理論を並べ立て、「手伝ってよ」と言う姉に、やはり自分たち双子は似ていないと、悠真は思う。
けれど、麻悠の言うことは必ずしも間違ってはいないとも考えていた。
なぜなら科学は、万能のご神託なんかではないから。
今分かっていることをつなぎ合わせた最善の結果に過ぎない。
最新の科学も何年か経てば、陳腐な理論だったということが分かるかもしれない。
逆に科学的に否定されていることが、実は正しかったと証明される可能性だってある。
だったら、この姉を手伝うのも悪くはないかと、悠真は口を開く。
「分かったよ。俺も手伝うよ。ただ、知ってると思うけど、裁縫は得意じゃないからな」
「うん、知ってる。悠真はできることだけしてくれたらいいよ」
「はいはい」
まぁ、いい暇つぶしにはなるだろう。
悠真はそう独り言ちて、早速買い物に出掛けようとしている麻悠の後に続いた。




