第7話 回らない観覧車
空は青い。
夕焼けは赤い。
雨はいつかやむ。
当たり前のことだと、田辺七海はため息をつく。
右肩にぶら下げるのは、年の離れた兄からおさがりでもらったデジタル一眼レフカメラ。
普段よりも重たく感じるのは気のせいだろうか。
黄色いラインの入ったストラップがずれているのを左手で直す。
「どうしよ?」
七海は途方に暮れていた。
高校が休校になってからもうしばらく経つ。
授業がないだけじゃない。いろいろな当たり前が、当たり前じゃなくなってしまっていた。
けれど、七海の所属する写真部の部長、今野由香はたくましかった。
七海とは同じ中学校の出身で長い付き合いになる彼女はある日、グループチャットで部員たちに告げた。
『写真甲子園に出るよ』
サムズアップするキャラクターのスタンプが添えられた由香のメッセージに、七海は首を傾げる。
もちろん写真甲子園という言葉は初耳ではない。
全国の高校生が自慢の写真を送って作品の出来を競う大会のことだ。
優秀作として選抜されたら、1か所に集まっての本戦にも出られる。
今年は、コロナのせいで本戦の開催方式は変わったことも、七海は知っていた。
七海が怪訝な表情を浮かべるのは、今まで作品をコンテストとかに出展することなんて、一度もなかったからだ。
普段の活動の大半は、部室でお菓子を食べながらだべること。
七海にとって部活は、写真の撮影技術を磨く場というよりも、おいしい紅茶の選び方を学ぶ場になっていた。
写真部らしいまともな活動と言えば、春先にある文化祭に部として展示することぐらい。
もともと写真が趣味だった七海は、入部当初こそ不満も感じたけれど、3年生にもなれば、すっかり部に馴染んでいた。
写真の撮影は休日や学校帰りに大抵1人でしていた。
たまに由香も付いてきたけど、いつも七海のそばでふんふんと頷いているだけだった。
だから、写真甲子園に出ようという突然の由香の提案に、七海は戸惑いを隠せなかった。
チャットでやり取りを重ねても、たぶん由香が何を考えているかは分からない。
メッセージを受け取った直後、七海は迷わず通話ボタンをタップした。
『おっ、わざわざ電話してくるなんて七海はさすがにやる気だね』
由香の応答は早かった。
ラインを送信したままスマホを手にしていたんだろうと、七海も驚かない。
「いや、そんなんじゃないよ」
『えーっ、じゃあどうしたの?』
「いや、いきなり写真甲子園に出るなんていうから、びっくりしたんだけど」
『そう?』
由香は心底不思議そうに尋ねてくる。
「だって、今まで私たちってほとんどまともに活動してないよね?」
『ちゃんと週に4日ぐらいは、部室に集まってたでしょ』
「けど、写真は撮ってないよ?」
呆れる七海に由香はふっふっふっと、笑みを返す。
『でも、いつも親睦は深めてきたよね。それは全て来るべき日に備えてのことだったんだよ』
「……それが、写真甲子園ってことなの?」
『ご名答。さすが私の見込んだ女は違うね』
「はぁ、そりゃどうも……」
疑問を解消しようと由香に電話したはずだったのに、逆に七海の頭はこんがらがっていた。
もっとも由香と話すときは、会話の主導権を握られるのは常のことなので、仕方がないことではあるのだけれど、それでも、釈然としない思いはすっきりさせたい。
「で、結局、写真甲子園に出るのは、なんでなの?」
『うーん、どうしてなんだろうね?』
「いやいやいや、聞いてるのはこっちなんですけどぉ?」
『正直言って、私にも分かんないんだよね。ほら、最近なんか分からないことばっかりでしょ?』
そう言う由香はまだ言葉足らずだったけれど、七海には十分伝わった。
確かにコロナが蔓延し始めてから、わけの分からないことばかりが起こっている。
喜んでいるのか、悲しんでいるのか、悔しがっているのか、自分の気持ちにも確信が持てないことだってある。
だったら、七海もよく分からないけど、由香の考えに乗ってみようかという気になる。
「分かった。やってみよう?」
『へへ、七海ならきっとそう言ってくれるって信じてたよ』
「もう、ほんとに調子がいいんだから。まぁ、いいけどさ、何を撮ればいいの?」
『そんなこと私に聞かないでよ』
「えっ、それを決めるのは部長でしょ?」
『長と付くものは大まかな方向性だけを示せばいいんだよ。細かいことまで指示すると、部下の創造性を奪ってしまうからね』
由香は得意げに言う。
「またなんか変なビジネス書でも読んだんでしょ? 読書家なのは結構なことだけど、すぐに影響を受けるのは由香の悪い癖だよ。それに、私は部下じゃないからね?」
『細かいことはどうでもいいでしょ?』
「細かくないんだけどな」
『とにかくっ、よろしく頼むね。他の子たちからも連絡が返ってきてるかもしれないから、そろそろ切るよ?』
「はぁ、由香は相変わらずだね。分かったよ、なんか考えてみる」
『うん、よろしく』
七海が街に撮影に出てきたのは、そんな会話を交わした翌日のことだった。
マスクを着けたまま歩き回っていたから、息苦しさを感じる。
小道から大通りに出て一歩。
マスクをちょっとずらして鼻で空気を吸い込むと、立ち止まって空を眺める。
瞳に映るのは、当たり前の光景。
急速に変わる毎日の中で、変わらない景色。
当たり前のことだ。
空には人はいない。
変わっていっているのは人なのだ。
けれど、それが七海にとっては面倒なことなのだ。
七海が撮りたい写真は、人のいる風景。
何気ない会話を交わしながら、自然な笑顔を浮かべる風景。
たぶん、そんな写真を好む兄の影響なのだと思う。
でも、外出自粛が要請されている今、通りを歩く人の姿はほとんどない。
商店街のシャッターも上がらない。
ほんとに困ったと、七海のため息は深くなる。
「何を撮ればいいんだろう?」
すっかり困り果てた七海は、兄を頼ることにした。
ジーンズの後ろポケットからピンクのカバーの付いたスマホを取り出す。
アドレス帳から兄の名前を探し出して、タップ。
鳴り続ける発信音に耳を澄ませる。
その間も、視線を動かして周りに被写体がいないかを探すが、夕闇に包まれ始めた街にはまばらな人影しか見当たらない。
たまに通りかかる人もマスクで顔を隠していて表情は窺えない。
そんな無機質な社会は、七海の撮りたいものではない。
兄は結局、電話を取ってはくれなかった。
「俺は写真で飯を食う」と上京して数年。ずっとフリーターみたいなことをしていたらしいが、今年の春にやっとプロサッカーチームのオフィシャルカメラマンとしての職を得ていた。
きっと忙しくしているんだろうと、七海はスマホの画面を眺める。
気付いてかけ直してくれないかなと、期待を捨てきれずにそのまま視線を落としていたが、スマホは鳴ることなくスリープモードに移行した。
スマホをポケットに仕舞い、顔を上げる。
視線が上がり、自然と目に飛び込んできた光景。
その光景に七海は心を奪われた。
――七色に光る観覧車。
七海の住む街で一番大きい駅に併設された商業施設。その屋上にそびえる観覧車。
つい最近、ネオン管からLEDの照明に代わり、郷土の偉人をモチーフにしたキャラクターや街のシンボルを映し出すようになっていた。
けれど、七海が目を引かれたのは、その照明の真新しさのせいではない。
ただ単に、観覧車が輝いていたからだ。
緊急事態宣言が出され、商業施設は休業していた。
だから、遠目に見える観覧車は回っていない。
それなのに、照明は煌々と光り輝いていた。
街を照らし続けている。
ほんとに、ありがたい。
七海は胸を熱くする。
当たり前の光景は、面白くもなんともないって思っていた。
空が青いように、夕焼けが赤いように、雨がいつかやむように。
だけど、変わり果てた街を、いつもみたく照らしてくれる観覧車の明かりは、本当に本当に胸を打つ光景だった。
当たり前がこんなにありがたいだなんて、知らなかった。
七海は駆け出す。
観覧車が逃げるわけはないから、そんな必要はないのだけれど、目に映る感動を写真で表現したいと、七海ははやる気持ちを抑えられない。
三脚があればよかったなと思うけれど、今から取りに帰るなんてありえない。
心が弾んでいる今この時を切り取りたい。
普段のこの時間帯には通勤通学の人たちであふれかえる道路を手前に引っかけて、観覧車がてっぺんまで写る場所に立つ。
画質が荒れないぎりぎりまで感度を上げて、シャッタースピードをぶれない程度まで遅くする。
ファインダー越しに、光を放ち続ける観覧車を見据える。
心臓がうるさい。
「ちょっとだけ黙ってて」
右の拳で左胸を軽く叩く。
一つ深呼吸してカメラを構え直す。
ぶれないように、しっかり両脇を締める。
――カチャっ
シャッターを切った。




