第6話 糧の重さの量り方
それは、一度深みにはまると抜けられない沼のようなものなのだろう。
「チャンスっ!」
千島遥花は、3年前のことを思い出していた。
思わず大声を出してしまったことを。
中学校のバレー部最後の地区大会。
既に遥花のチームは敗退していた。
けれど、この先これほど泣くことはないんじゃないかって思うほど、涙を流した遥花の気持ちの高ぶりは、そう簡単には鎮まらない。
だから、観客席に座って知らない人たちの試合を眺めていた。
緩いサーブでできたチャンスに、思わず叫んでしまった。
頭によぎるのは、この3年間の思い出。
遥花は中学校の3年間、一度もスタメンの座を掴むことはできなかった。
それでも、自分が最後まで精いっぱい頑張れたことには満足していた。
引退が現実のものになっても、後悔はない。
ここで重ねた努力を次のステージで生かそう。
そう決意した遥花にとって、高校でもバレー部に入るのは自然な流れだった。
高校のバレー部は、県大会で数年に一度ベスト4に行くようなそこそこの強豪。
やっぱり、遥花は2年生の終わりになってもスタメンには入れていなかった。
でも、それでも良かった。
試合に出ることが全てではないし、自分より上手な子たちをサポートすることに誇りも感じる。
特に、親友とも呼べる関係を築いた大竹絵里奈が活躍する姿を見ることは、遥花にとって喜びだった。
飛びぬけた長身というわけではないけど、バックアタックが得意。
アタックラインの一歩手前で飛び上がって、上体を思いっきり逸らす。
空中でバシンと、ボールを叩きつける手前。
文字通り弓のようにきれいなフォームを、遥花はいつもサイドラインから瞳を輝かせて眺めていた。
「今年こそは、インターハイに行こうよ」
合言葉のように、声を掛け合いながら遥花たちは、練習に励む。
高校生活に悔いだけは残さないようにしようと、遥花も自分にできることを懸命にこなしていた。
全てが瓦解し始めたのは、休校が始まってからだった。
学校がないということは、当然部活もできない。
でも、すぐに学校が再開してみんなと一緒にボールを追えると遥花は信じていた。
次に決まったのは、インターハイの中止。
でも、どうせインターハイ出場は無理だったかもしれないし、まだ県総体はあるからって希望を持てていた。
ゴールデンウイークが明けて学校が再開された。
ほらね、やっぱり大丈夫だったよ、と遥花は部活が再びできることを喜ぶ。
放課後、久しぶりに訪れた体育館。
入り口で大きく息を吸う。
しばらく部活がなかったからなのか、前よりも汗臭さが薄れているような気がする。
汗臭くないのが寂しいなんて、私は変態なのかな、と遥花は苦笑する。
「どうしたの、変な顔して?」
耳慣れた声に振り向くと、遅れてやってきた絵里奈が隣に立っていた。
肩下まで伸びる髪を赤いヘアゴムでポニーテールにまとめた絵里奈の目を見て、遥花は優しく語り掛ける。
「ここに帰ってこれて良かったなって思ってたんだよ」
「そうだね……。2ケ月ちょっとだけど、ほんとに長かったね」
「けど、私たちは戻ってこられたんだよ。何もしないまま、あのまま引退なんて絶対に嫌だったからね」
「うん。じゃあ、今日からまた頑張ろっか?」
「もちろん。ビシビシいくよー」
「いや、何で上から目線なの? 頑張るのは遥花も一緒にだよ?」
「だって、私はもう今からスタメンの座を奪い取ろうとかは思ってないし。絵里奈たちを支えるのが私の役目だよ」
「それでも、だよ。一緒に頑張るよ?」
咎めるような目線を向けてくる絵里奈に、遥花は鼻をかく。
「分かったよぉ」
遥花が膨らませた頬を、絵里奈は人差し指でえいっと突く。
ぷうと、遥花が口から息を吐いたのを合図に、2人は目を合わせて笑う。
「じゃあ、張り切っていこう」
それから2日後。
ブランクがあったから練習の強度は低かったけれど、思っていたよりも体は動くなと、遥花が実感し始めていたころ。
練習の最中に、顧問の男性教諭が部員たちに集合をかけた。
厳しいけど、たまにはくだらないジョークも言う顧問の表情は険しい。
顔を俯かせ、顎に手をやる顧問の姿に、遥花の心はざわついてしまう。
「集まったな」
周りに集まった部員たちが円をつくるように座ったのを見て、顧問は口を開いた。
「……残念だが、県総体の中止が決まった」
部員たちは静かに顔を見合わせる。
「どうしても安全が確保できずに、苦渋の決断だったそうだ。辛いと思う。特に3年生にとっては最後の大会になるはずだったしな。これを何とか乗り越えて、今後の人生の糧にしてほしい」
顧問は部員たちを見回す。
「キャプテンから何かあるか?」
指名されたキャプテンは、ためらうように天を仰ぐ。
けれど、チームをまとめる立場にあるという責任感が彼女を立ち上がらせた。
顧問の隣に行き、チームメートに向かい合う。
「正直、何と言えばいいのか私には分からない。……頼りないキャプテンでごめんね。けど、たぶん今言えることは、先生が言ったみたいに、この経験を何とかして糧にしていこうってことだけなんだと思う」
普段は体育館の端から端まで届くような声を出すキャプテンの声は細くかすれていた。
黙って話を聞いていた遥花の頬を涙がつたう。
ポタリと床に落ちる雫の行方を追う視線が、隣に座る絵里奈の姿を捉えた。
絵里奈は唇をかみしめ、懸命にこらえていた。
なんで?
どうして?
絵里奈は我慢できるの?
遥花の胸中に、さまざな思いが入り混じる。
私なんかよりも必死に頑張っていた親友が必死に涙を押しとどめているのを見て、遥花は泣いている場合なんかじゃないと、右腕で目の周りを乱暴に拭う。
気付いたら立ち上がっていた。
叫んでいた。
中学最後の大会の日のように。
「糧にするって何っ? どういうことっ?」
部員たちの視線が一気に集まるが、遥花は気にしない。
「納得できませんっ」
遥花に睨まれた顧問は、うん、と頷く。
「気持ちは分かる。お前たちの頑張りはそんなに簡単に片づけられるものじゃないっていうことは俺にも分かる」
諭すように優しい声音だが、遥花は収まらない。
「本当ですかっ? 本気で大人の人たちは私たちのことを考えてくれたんですか? ただ、誰も責任を取りたくないから、こんないい加減なことになってるんじゃないんですかっ?」
あまりに必死な遥花の表情に、顧問は何も言い返せない。
遥花も顧問に何を訴えても意味がないと分かっている。
この人が悪いんじゃないって分かっている。
でも、溢れ出してしまった言葉を止められない。
「納得いかないことがあっても仕方ないってやり過ごせるようになることが成長なんですか? それが何かの糧になるんですか?」
大声を張り上げながら、また目の端からは涙がこぼれだしていた。
遥花は顔を振って涙を飛ばす。
両腕をピンと伸ばして、声を荒げる。
「私はっ、そんなの嫌ですっ! 絶対に認められませんっ! そんなことをしてしまう大人になんてなりたくありませんっ!」
遥花と絵里奈の帰り道は静かだった。
2人は無言で川沿いの道を歩く。
夕闇に包まれた街を吹き抜ける風が、火照った心を少しずつ冷ましていった。
先に口を開いたのは絵里奈だった。
「代替大会は検討するって言ってるみたいだし、もうちょっと一緒に頑張ってくれる?」
立ち止まってそう言う親友の目を、遥花は振り返って見つめる。
揺れる瞳に、不安になる。
あまりにもめちゃくちゃ言ったもんだから、私の気持ちが切れちゃったと思われたかな?
でも、大丈夫だよ。
そんな思いを込めて遥花は絵里奈に右手を差し出す。
戸惑いながらその手を握る絵里奈に、遥花はふふっと微笑む。
「もちろんだよ。それより、絵里奈は大丈夫? 目、真っ赤だけど」
「それは、遥花もでしょ?」
「私は泣き虫だから、いつものことだよ」
もう、とあきれながらも絵里奈は表情を和らげる。
「私は必死になって泣かないように我慢してたのに、遥花があんなこと言うのがいけないんだからね」
「人のせいにしないでほしいなぁ」
軽口を叩いてから、遥花は胸の内でつぶやく。
私たちがこんなにもつらいのは、誰のせいでもないんだ。
きっと誰も悪くなんてないんだ。
遥花には、そう自分を納得させることしかできなかった。