↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水音を読む測量士は、旅の監査人と町の未来をつなぐ  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/20

止められた針

 水時計の前から、祭りのざわめきが波のように引いていった。


 逃げた者を追おうとする人々を、エアンが片手で制した。


「闇雲に追えば、別の道へ誘導されます。まず、ここにいた全員を動かさないでください」


 その声に、広場の端まで広がっていた混乱が少しずつ収まった。リゼットは止まった浮きのそばに膝をつき、細い管の口へ差し込まれた木片を抜いた。木片は濡れて膨らみ、管の内側にぴったりと嵌まっていた。偶然落ちたものではない。水時計を止めるために、削って作られた栓だった。


 エアンが拾った金属片には、交易組合の印に似た菱形が刻まれている。だが、刻印の縁は荒く、正式な印章とは違っていた。


「これだけでは、組合の仕業だとは言えません」


 彼はそう言いながら、金属片を布に包んだ。


「けれど、脅すには十分な証拠です」


 リゼットは広場を見回した。測定表を持つ住民、子どもを抱えた母親、祭りの屋台の者たち。その中に、役所の書記として時刻を読み上げていた若者の姿がない。


「書記の方は?」


 農家の女が指を広場の外へ向けた。


「さっき、役所の裏へ走っていったよ。顔が真っ青だった」


 二人は人目を避けて役所へ向かった。裏口のそばに、書記の青年が立っていた。名はミルといった。扉に背を押しつけ、両手を強く握っている。


「何を見たのですか」


 リゼットが尋ねると、ミルは首を振った。


「何も……私は、何も見ていません」


「では、なぜ逃げたのです」


 エアンの問いに、青年の唇が震えた。


「逃げたのは、あの人です。私ではありません」


「誰ですか」


 ミルは答えなかった。役所の中から、紙をめくる音が聞こえた。祭りの日だというのに、水利係は役所に残っているらしい。


 リゼットは声を落とした。


「あなたは、さっき時刻を読み上げました。水時計が止まった瞬間、あの人の手が管へ伸びる前に、あなたは誰かを見ていた」


 ミルは目を閉じた。


「見ました。けれど、言えません」


「脅されているのですか」


 青年の肩が大きく揺れた。


「弟が組合の倉庫で働いています。私が何か話せば、仕事を失うだけでは済まない。住む場所も、食べるものもなくなる」


 エアンは急かさず、彼の前に立った。


「あなたが見たことを、すぐに広場で証言させるつもりはありません。まず、事実を記録します。あなたの言葉を勝手に変えない。署名を求めるのも、守る方法を考えてからです」


「それでも、命令書を持っていることが知られたら……」


 ミルが呟いた。


 リゼットとエアンは顔を見合わせた。


「命令書?」


 ミルは周囲を確かめ、役所裏の古い薪置き場へ二人を導いた。積まれた薪の奥から、泥で汚れた革筒を取り出す。蓋を開けると、中には折り畳まれた紙が一枚入っていた。


「先週の夜、私は水利係に命じられて、これを写しました。原本は係が持っています。内容は、水門を閉じる時刻と、閉じたことを報告する文面です。でも、こんな命令が出たことを帳簿に書くなと言われた」


 エアンが紙を広げた。


 そこには、三日前から続く水門操作の時刻が並んでいた。町の水量が急に減った夜と、帳簿の余白に記された時刻が重なっている。リゼットは紙の端に押された二つの印を見つけた。


 一つは役所の水利係の印。もう一つは交易組合の正式な印章だった。


「これは写しではなく、命令書そのものです」


 エアンが言った。


「写した紙なら、ここにあるのは控えのはずです。なぜ原本と同じ二つの印が押されている?」


 ミルは青ざめた。


「水利係が、組合の立会いなしには効力がないと言って……その場で押しました」


 リゼットは命令書へ耳を近づけた。紙から音が聞こえるわけではない。それでも、指先に伝わるわずかな凹凸が、押印されたばかりではないことを教えていた。印の下に、何度も紙を重ねた跡がある。命令書を作った者は、後から日付や文面を変えられるよう、余白を残していたのだ。


「ミルさん」


 彼女は静かに言った。


「あなたが悪いのではありません。けれど、この紙を隠していたままでは、命令を出した人たちは何度でも同じことをします」


「私に、何ができますか」


「あなたが見たことを、あなたの言葉で残してください。今すぐ公にしなくてもいい。二人の立会人を置き、書いた時刻と場所を記録するのです」


 ミルは長い間、命令書を見つめていた。


「……弟を守れますか」


 エアンが答えた。


「組合が弟さんを脅した事実も、証言の一部になります。私は監査人として、脅迫があったことを記録します。あなた一人を差し出すつもりはありません」


 やがてミルは小さく頷いた。


 そのとき、役所の中で椅子が倒れる音がした。誰かがこちらへ近づいてくる。


「裏口から広場へ戻りましょう」


 エアンが命令書を包み、リゼットの外套の内側へ隠した。


 広場へ戻ると、止まった水時計の周りに人が集まっていた。祭りの楽師たちは演奏を再開できず、誰もが二人の顔を見ている。


 リゼットは水時計の前に立った。


「針を止めた者は、測定を恐れています。ですが、針が止まっても、これまで記録した水の流れまでは消えません」


 彼女は測定表を掲げた。


「今日の記録は、ここにいる皆さんが見ました。水時計が止まる前の時刻も、流量も、立ち会った人の名も残っています」


 ミルは人々の後ろで震えていた。それでも、逃げずに立っていた。


 エアンが彼の隣に並ぶ。


「さらに、水門操作を命じた文書が見つかりました」


 ざわめきが広がった。


「この命令書には、役所の印と交易組合の印の双方が押されています」


 エアンが紙を広げると、夕方の光が二つの印を照らした。誰かが息を呑み、果樹園の農家が低く呟いた。


「役所も、組合も知っていたのか」


 リゼットは紙の上の印を見つめた。


 止められた針は、時刻を失ってはいなかった。止まったことで、誰が水の流れを変え、誰がそれを隠していたのかを、逆に浮かび上がらせていた。


 遠くの地下から、また金属の擦れる音がした。


 今度は一度ではない。三度、一定の間隔で響いた。


 リゼットは顔を上げる。


「水門が、まだ動いています」


 祭りの灯が暮れかけた広場で、二人は同時に地下へ続く石畳を見た。命令書に記された水門は、ひとつではない。止められた針の下で、町の水はまだどこかへ奪われ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。