工房を開く
免責証明書を受け取ってから十日後、リゼットは役所の隣にある古い石倉庫の前に立っていた。
交易組合が使っていた倉庫の一つで、取り壊される予定だった。壁には長年の湿気による黒い筋が走り、屋根の隙間から細い光が差している。けれど、床は丈夫で、裏手には水路へ下りる小さな階段があった。
「ここなら、水音を聞く仕事に向いていますね」
エアンが扉の蝶番を調べながら言った。
「雨の日は屋根からの音がうるさくなるわ」
「では、雨の日にも使える測定方法を考えましょう。監査人として、契約書にそう書いておきます」
「契約書で雨音は静かにならないでしょう」
「静かにするとは書きません。聞き分けると書きます」
エアンは真面目な顔で答えた。リゼットは思わず笑った。
事件が終わってから、町の人々は彼女にさまざまな相談を持ちかけるようになった。隣の畑へ水を引きたい農家。古い水槽の漏れを調べてほしい職人。雨の少ない季節に備えて、貯水池の容量を測りたいという村の使者。
かつては、記録を改ざんした者として避けられていた。今は、誰もが水路のことを彼女に尋ねる。
その変化は嬉しかったが、同時に、リゼットの胸には小さな不安もあった。ひとりで全ての依頼を引き受ければ、また判断を急ぎ、誰かの言葉を聞き逃すかもしれない。水路は一人の耳だけで守れるものではない。
そこで彼女は、石倉庫を工房にすることを決めた。
壁際には測定具を吊るす棚を作り、中央には大きな作業台を置く。奥の部屋は記録庫にして、測定値と契約書を別々に保管する。誰が見ても追跡できるように、記録の日付と測定者の名を必ず残す。
そして、若い技術者を育てる。
最初に手伝いを申し出たのは、公開審査で証言した若い書記だった。彼は役所を辞め、水利院の下働きをしながら測量を学びたいと言った。
「数字を書き写すだけでなく、数字がどこから来たのかを知りたいんです」
彼の言葉を聞いたリゼットは、古い木箱から予備の測定針を取り出した。
「なら、まず水路の音を覚えて。数字はあとからついてくるわ」
果樹園で働いていた娘も加わった。彼女は水門の開閉を見てきた経験があり、土の状態を読むのが得意だった。鍛冶職人の息子は測定具の修理を担当し、町の子供たちは工房の前の水路に小石を並べて、流れの速さを競った。
工房は、少しずつ人の声で満たされていった。
ある夕方、リゼットが新しい看板を取り付けていると、エアンが一枚の書類を持って訪ねてきた。
「隣町から監査の依頼が来ました」
「隣町にも地下渠が?」
「古い水路網が三つ。契約書は五十年前のものだそうです」
「あなたが行くのね」
「ええ。けれど、ひとつ提案があります」
エアンは書類を作業台に置いた。
「私はこれからも各地を巡り、水利契約を調べます。ただ、現地の測量まで一人で行うには限界がある。そこで、この工房と正式な契約を結びたい」
リゼットは書類を読んだ。工房が測量を担当し、エアンが契約の照合と交渉を担う。費用の配分も、責任の範囲も、細かく書かれている。
「共同経営者として、ということ?」
「そうです」
彼は一度、視線を落とした。
「仕事だけの話ではありません」
工房の外で、水路が石を撫でていた。夕暮れの風が、乾きかけた看板の文字を揺らす。
「私は、旅を続けるつもりです。けれど、戻る場所を持ちたい。あなたと一緒に、戻る場所を作りたい」
リゼットは書類から顔を上げた。
エアンは、監査人としてはいつも冷静だった。帳簿の誤りも、役人の嘘も、感情に流されず見抜いてきた。けれど今は、手にした帽子の縁を何度も撫でている。
「それは、工房の契約書に書けること?」
「書けません。だから、別に伝えています」
リゼットの胸の奥で、遠い水音がほどけるように響いた。
彼と出会った朝、彼女は仕事も名前も失いかけていた。水門の前で聞いた金属音が、ここまで二人を連れてきた。苦しい日々のなかで、エアンは彼女の判断を疑わず、彼女もまた、彼の誠実さを何度も見てきた。
リゼットは書類を閉じた。
「戻る場所を作るなら、片方だけが待つ場所にはしないで」
「もちろんです」
「あなたが旅から戻ったとき、私も仕事で別の町へ行っているかもしれない」
「そのときは、私が待ちます」
「私が戻るとは限らないわ」
「では、戻れる水路を一緒に作りましょう」
あまりにエアンらしい答えだったので、リゼットはまた笑った。笑いながら、彼の手を取る。
「契約を結びましょう。共同経営者として」
エアンの指が、確かめるように彼女の手を握り返した。
「それから?」
リゼットは工房の看板を見上げた。まだ新しい木の匂いがする。その下には、二人で考えた名が刻まれていた。
――雨脈測量工房。
「人生の契約も、考えておくわ」
「期限は?」
「更新を忘れない限り、無期限」
エアンは静かに笑った。
工房の奥で、若い書記が測定針を落とした。金属の音が床に転がり、皆が一斉に振り返る。リゼットは耳を澄ませた。針の響きの向こうで、水が新しくつながった管を流れている。
町の水路は、もう誰か一人のものではない。
そして明日からは、この工房も、誰か一人のものではなくなる。




