失われた印章の行方
公開審査から三日後、水利院の正式調査団が谷町へ到着した。
朝霧の残る広場に、青い縁取りの外套を着た調査官が三人並び、その後ろには記録箱を積んだ荷車が止まっていた。先頭に立つのは、静かな目をした女調査官、ミレアだった。
「水利院の命令により、交易組合および役所の契約、帳簿、印章の使用記録を調査します。関係者は、書類の提出を拒んではなりません」
ミレアが命令書を読み上げると、町役人は青ざめた顔で頭を下げた。グラウドは腕を組み、まだ抗議する姿勢を崩していなかった。
「組合は正当な契約に基づいて水を使っただけです。古い記録の不備を、現在の責任に結びつけるのは早計ではありませんか」
「だからこそ、すべてを確認します」
ミレアは淡々と答えた。
リゼットはエアンとともに、調査官を役所の文書庫へ案内した。棚には年代ごとに綴じられた契約書が並んでいる。だが、公開審査で示された命令書の原本を探す段になると、役人は急に口数を減らした。
「命令書は、先日の審査で提出したものがすべてです」
「保管台帳には、南側分水に関する命令書が四通と記録されています」
エアンが台帳を指した。
「ここには、発行番号、日付、担当者の名まである。しかし、書類そのものが三通見当たらない」
役人は額の汗をぬぐった。
「整理の際に、誤って廃棄されたのかもしれません」
リゼットは棚の前で足を止めた。紙の匂いに混じって、かすかな油の匂いがした。新しい蝋を溶かしたときに似ている。
「この棚を開けたのは、いつですか」
「昨日です」
「違います」
リゼットは指先で棚板に触れた。木は乾いていたが、奥の隅だけがわずかに湿っている。
「ここに何か置かれていました。重い金属の箱です」
ミレアが役人を見た。
「箱を出してください」
役人は動かなかった。その沈黙を、エアンが見逃さなかった。
「印章を保管する箱ですか」
町役人の肩が震えた。
しばらくして、役所の裏手にある古い倉庫から、鉄張りの箱が運び込まれた。鍵はかかっていたが、役人は鍵を持っていないと言い張った。ところが、若い書記の一人が、壁際の梁の裏から小さな鍵を見つけた。
箱の中には、布に包まれた役所の印章と、いくつかの封蝋が収められていた。印章の表面には役所の紋が刻まれている。しかし、底面の縁に新しい削り跡があった。
ミレアが印章を持ち上げる。
「これは正規の印章ではありません」
役人が顔を上げた。
「何を根拠に」
「水利院へ届け出られた印章の重さと一致しない。さらに、縁の削り跡は、複製を作るために型から外した痕跡です」
エアンは隣の記録箱から、役所が過去に提出した印章の照合書を取り出した。
「こちらの照合書には、印章の欠けが左下にあると記されています。だが、この印章には欠けがない」
リゼットは机の上の命令書へ目を向けた。そこに押された印は、確かに紋章の形だけなら同じだった。だが、印の左下には、小さな欠けがあった。
「命令書に使われたのは、今の印章ではありません」
「では、どこにあるのです」
ミレアの問いに、誰も答えなかった。
その日の午後、調査団は交易組合の倉庫を捜索した。帳簿や荷札が次々と運び出されるなか、リゼットは地下渠へ続いていた古い扉の脇に、見慣れない木箱を見つけた。
蓋を開けると、乾いた布と空の封蝋皿が入っていた。箱の底には、赤い蝋のかけらが一つ残っている。その中央に押された紋章は、命令書の印と同じだった。
エアンが蝋を拾い上げた。
「印章そのものは、ここにはない」
「使ったあと、別の場所へ移したのでしょう」
リゼットは周囲の音に耳を澄ませた。倉庫の壁の向こうから、わずかな水滴の音が聞こえる。地下渠は封鎖されているため、水の音がするはずはない。
二人は壁際の床板を外した。そこには細い空間があり、古い帳面と、黒い布に包まれた小箱が押し込まれていた。
箱を開けると、中から一つの印章が現れた。
役所の紋。左下の欠け。命令書に残された印影と、寸分違わない。
調査官たちが息をのむ。
ミレアは印章を布ごと証拠袋へ収め、町役人とグラウドを交互に見た。
「この印章を誰が作り、誰が使い、誰に渡したのか。これから確認します」
役人は膝から力が抜けたように椅子へ沈み込んだ。
「私は……借金を返すために、組合から金を受け取っただけです。印章を使ったのは、グラウドの指示でした」
「嘘だ!」
グラウドが怒鳴った。しかし、声には以前のような張りがなかった。
エアンは机の上に、帳簿の余白と命令書を並べた。
「金銭の受け渡しも記録されています。組合の帳簿には、役人への支払いが水門操作の日付と重なっている」
リゼットは証拠袋の中の印章を見つめた。失われたと思われていたものは、暗い倉庫の底で、町の水を奪った命令を黙って支えていた。
だが、今はもう隠されていない。
数週間後、水利院は最終報告を公表した。役人が交易組合から利益を受け取り、複製印章を用いて記録と命令書を改ざんしていたこと。組合が地下渠を不正に利用し、町の水を奪っていたこと。すべてが正式な公文書に記された。
交易組合には、水路の修復費と果樹園への損害賠償が命じられた。契約は無効となり、組合の営業許可も取り消された。町役人は職を失い、印章偽造と文書改ざんについて裁きを受けることになった。
そしてリゼットには、濡れ衣を着せられた事実と、調査に貢献した功績が記された免責証明書が渡された。
広場でミレアから書類を受け取ったとき、リゼットはしばらく自分の名を見つめていた。
「これで、記録は戻りました」
エアンが言った。
「名前だけではありません」
リゼットは水路へ目を向けた。
「私が聞いた水音も、みんなが残した証言も、消されずに済みました」
風が吹き、遠くで水時計の針が小さく鳴った。
エアンは彼女の隣に立ったまま、何も急かさなかった。リゼットは免責証明書を胸に抱き、ゆっくり息を吐いた。
失われた印章は見つかった。
けれど、取り戻されたのは印章だけではない。人の暮らしを支える水を、誰かの都合で書き換えさせないという、町全体の意志だった。




