第二十三話 桶狭間の戦い(その2)
桶狭間の山中には、不気味なほどの強風が吹き荒れていた。
木々が激しく鳴り響くゴォォォという風音を盾に、織田軍の兵たちは気配を隠し、一列になって急進する。
(いたぞ……! 今川義元だ)
尾根の隙間から見下ろした瞬間、窪地で完全に油断しきっている今川本隊の姿が目に飛び込んできた。
強風に今川の陣幕が激しく揺れている。信長がカッと目を見開き、猛然と刀を抜き放った。
「突撃じゃぁぁぁ!!! 狙うは義元の首一つ!!」
「おおおおおっ!!!」
追い風を背に受け、織田勢は怒涛の如き雄叫びを上げて一気に坂を駆け下りた。
予期せぬ奇襲に、今川の本陣は大混乱に陥る。しかし、天下の上洛軍を率いる今川義元だ。不意を突かれたとはいえ、本陣を固める守備隊の防備は予想以上に厚く、頑強だった。
鋭い槍衾と分厚い陣形に阻まれ、織田の先鋒の足が止まりかける。
(このままでは奇襲が失敗する……!)
焦りが走ったその時、織田軍の後方、丸根・鷲津砦の生き残りである横井勢のなかから、大きな叫び声が上がった。
「藤吉郎、今じゃ! 」
(時泰が言っていたように、今日の桶狭間の天候は荒れる。もし雨が降らなくても、強風が吹き荒れるはず。あやつの予想通りじゃ!)
「残りの焙烙玉をすべて叩き込め!!」
ヒュンヒュンヒュンッ! と、幾つもの球体が放物線を描いて今川の陣へと飛び交う。時泰と藤吉郎が温存していた、最後の「焙烙玉」だ。
それと同時に、火を呼び込むための油が詰まった樽も次々と投げ込まれた。次の瞬間、凄まじい大爆発が連鎖した。
ボォォォン!!!
乾燥した空気に爆炎が上がった瞬間、吹き荒れる強風が牙を剥いた。
油を浴びた草木や陣幕の火が、山から吹き下ろす強風に煽られて一瞬で巨大な火の壁へと化し、今川の陣へと猛烈な勢いで燃え広がっていく!
「ぎゃあああっ! 火が、火が飛んでくるぞ!」
「ひぃぃ、山火事じゃ! 焼け死ぬぞ!!」
強風によって容赦なく押し寄せる猛火と黒煙、そして激しい熱風に、今川勢は完璧なパニックへ陥った。
今川勢の陣形を分断するように火の壁が激しく燃え盛る!
「成正、この機を逃すな! 突っ込むぞ!!」
「おうよ、利家! 遅れるなよ!」
前田利家と佐々成正は、この千載一遇の好機を見逃さなかった。吹き付ける煙と炎で目も開けられぬ敵の守備隊の隙間へ、二人の若武者が猛然と槍を突き立て、強引にその防衛線を突き破っていく。
「ひ、引き返すぞ! 輿を捨てて後ろへ下がれ!」
ただならぬ危機を察知した今川義元は、青ざめた顔で本陣の奥へと退がろうとする。
それを逃すまいと利家たちが肉薄するが、義元の前に、鉄を貼り付けた大楯を並べた強固な親衛隊が立ち塞がった。
燃え盛る火の粉が舞い散るなかでも、一歩も退かぬ今川の精鋭。どうしてもこの大楯の壁が抜けない。
「ええい、小癪な! どけぇ、どかぬか!!」
利家が必死に槍を叩きつけるが、大楯の守りは固く、跳ね返される。
焦りが一同を包む。時間が経てば、周囲の今川勢が混乱から立ち直り、圧倒的な兵力差で包囲されてしまう。状況は一刻を争った。
(もう少しで崩れそうなんじゃ。あと一押し、この大楯を破るための一撃が足りない)
「そこを、どけええぇぇぇ!!!!」
叫び声と共に、火煙を突き抜けて、時泰が弾丸のように飛び出してきた。
その目は、大好きだった佐久間のおっさんを奪った今川への、激しい怒りと執念で爛々と輝いていた。
時泰は深く踏み込むと、あの必殺の技を、魂を込めて大楯の隙間へと叩き込んだ。
「螺旋突きいぃぃぃぃ!!!」
強風をも切り裂く凄まじい回転を伴った長槍が、鉄の大楯の合わせ目を強烈に穿ち、抉り、決定的な隙間を空ける。
しかし、時泰の槍の勢いはそこでは止まらない。高速で回る穂先は、大楯を支えていた守備兵の腕を、骨ごと凄まじい勢いで切り裂き、今川勢へ突き進む!
「ぎゃあああっ!!!」
凄まじい衝撃に、親衛隊の一部が崩れ、強固な大楯の陣形の隙間に時泰が飛び込んで暴れまわる。
大盾の壁の一部がガラガラと音を立てて崩れ落ち、決定的な隙が生まれた。
「見事、時泰!! 織田の兵ども、続けぇぇぇ!!!」
利家が声を上げ、織田勢がその崩れた隙間へと一斉に殺到する。
防衛線を完全に失った今川義元の元へ、服部小平太や毛利新助らが躍りかかった。
「今川義元、討ち取ったりいいぃぃ一!!!」
その高らかな叫びが、炎で真っ赤に染まる桶狭間の空へと響き渡った。
「おおおおお!!!」と、織田方から地鳴りのような勝鬨が上がる。
こうして、天下を揺るがした大決戦は、織田信長の大勝利という形で幕を閉じた。
戦が終わった。
未だ吹き荒れる風のなか、立ち込める煙と火の粉の熱気の真ん中で、前田利家は興奮冷めやらぬ様子であたりを見回していた。
「時泰! おい、時泰はどこだ! 貴様のおかげで勝てたぞ!」
利家は、あの絶体絶命の窮地を救ってくれた戦友に、真っ先に礼を言おうと探しまわった。
しかし、いくら声を張り上げても、横井勢のなかを歩き回っても、どこにも見当たらなかった。
時泰は、大仕事を成し遂げたことに満足したのか、あるいは散っていった佐久間のおっさんたちの面影をその胸に抱いているのか。
勝鬨に沸く織田軍の歓声の輪から静かに外れ、強風に背を丸めながら、自らの領地である尾張横井領へと、兵に紛れひっそりと戻っていったのだった。




