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子カフェ  作者: 絶対完結させるマン
交わる人生

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再会

 「はるかちゃんっ!」


 背後からの声に振り向くと、そこには知らない女の子がいた。


 誰だろう。私と同い年くらいに見えるけど同級生かな? 同級生の顔なんて覚えてない。

 とはるかが思っていたら——。


 「覚えてる!? 須美だよ。施設にいた——」


 心臓が止まったかと思った。


 須美ちゃんが私の目の前にいる?

 にわかには信じがたかった。


 13年ぶりの須美ちゃんは、まったく別の人のように見えた。昔の面影などをまったく感じない。そう言われてもなお、ああ須美ちゃんだ、とはならない。


 「良かった。やっぱりはるかちゃんだった。さっきすれ違った時にチラッと見て、すごく驚いちゃった。はるかちゃんだ、って」


 一目見て私だとわかったのか。

 私は、そんなに変わらないのだろうか。


 須美ちゃんは、すっかり変わったように見える。

 6歳の須美ちゃんと、19歳の須美ちゃんが違うのは当たり前だ。


 でも、月日の流れと体の成長を差し引いても、須美ちゃんは変わったと思う。


 はるかが、目の前の須美に抱いた印象は明るいものだった。


 肩までの長さの髪は、派手すぎず地味すぎずの程よい茶色で、ふんわりとした毛先が胸のあたりで跳ねている。

 ストライプ柄の白のブラウスに、こげ茶色のフレアスカート。黒のパンプスを履いた須美を見てはるかは、


 「なんだかすごい……普通の女の子って感じ」

 と思った。


 可愛らしくて上品で良い人そうな——そんなどこにでもいる普通の19歳の女子。


 はるかは、そんな"普通"の同年代の女子を目にすると、少し緊張するのが常だった。

 毎日一生懸命に楽しく生きているキラキラした子たちと自分との差を鑑みると、落ち込んでしまうのだ。


 はるかは、そのことも相まって須美との再会の瞬間を、実に気まずいものとして受け止めていた。


 「はるかちゃん。私ね……私ずっと……わっ」


 後ろからやってきたサラリーマンと須美がぶつかる。

 ここは駅のホームだ。ラッシュ時ほどではないものの、大勢の人間でごった返している。


 「はるかちゃん、電車から出てきたとこなの?」

 「う、うん」

 「じゃ、私と同じだ。私も今から改札抜けようと思ってたとこ。ねえ、駅中のカフェに入ろうよ。こんなところで立ち話もなんだし、ゆっくり話したいしさ」

 「えっ? あっ、うん……」


 ごめん私用事があって……と誤魔化す方法もあったのに、とはるかは頷いてから後悔した。


 須美の態度が、本当に久しぶりに友達に会っただけだ、というような、あまりに軽やかなものだったので、すっかり調子を崩されてしまった。

 元より、須美との再会など想定していなかったのだ。




 駅中のカフェは、非常に空いていた。

 店の奥の二人席に座る。


 「私、ずっとはるかちゃんに会いたかったんだ」


 腰を下ろしてすぐに、須美がそう言う。


 「私のこと覚えてたんだ」

 「覚えてるよ〜。はるかちゃんはどう? 私のこと忘れちゃってた? 名前呼ばれて振り返って見ても、全然気づいた様子なかったし……」

 「あ、それは……須美ちゃんが可愛くなってたから……やっぱ女の子は成長するとガラッと変わるよね」

 「ちょっと何それ〜! はるかちゃんも女の子でしょ? 親戚のおばちゃんみたいなこと言わないでよ〜」


 須美はツボに入ったようで、ひとしきり笑っていた。


 その様子を見ても、須美ちゃん随分変わったな、とはるかは思うのだった。


 施設時代の印象は、どちらかというと辛気臭い部類に入る子、という感じだった。

 まあ、私ほどじゃないけど……。


 それから、しばらく雑談が続いた。

 須美は、現在看護の専門学校に通っているのだという。


 「へえ。須美ちゃん看護師になりたいんだね」

 「うん。食いっぱぐれない職業だし、給料も安定してるし、イメージも良いでしょ?」


 須美は、世間でよく言われているメリットを挙げていった。

 こういうメリットがあるから看護師を志したのだと。


 「はるかちゃんは? 今何してるの?」

 「私は会社で事務職として働いてる。まあまあ仕事も安定してきたとこ」

 「そうなんだ〜。職場の年齢層はどんな感じ?」


 須美は、にこやかに軽やかにはるかに接した。

 はるかもそれに影響されて、だんだんほぐれてきた。


 思っていたよりずっと元気そうで良かった……と思う反面、肩透かし感を食らってしまう。


 別に不幸でいればいい、と思っていたわけではないけど、なんだかモヤモヤするというか……須美ちゃんのことで悩んでいた今までの時間は何だったのかと、損したような気分だった。


 そんなふうに感じている自分があまりにも醜くて気持ち悪くて、はるかは自己嫌悪で死にそうになった。


 須美は、はるかが施設を出てから一年後に30代の夫婦と養子縁組を結び、正式に家族になった。


 須美の語る話では、そこでの生活は何不自由なく、誕生日やクリスマスなどのイベントは、他の家庭よりも気合いが入っていて、自分が大切にされていることがよくわかるのだと言うのだった。


 「私のこといつも心配して気にかけてくれてる。ああ、私愛されてるなって感じるのは幸せだと思う」


 そんな愛情あふれる家庭で育ってきたのでは、今の朗らかな様子も納得できる。

 はるかは羨ましく思った。


 須美ちゃんは、私の望むものを手に入れたんだ。

 私とは違って、成功したパターンだ。


 「はるかちゃんは? 遠縁の人に引き取られていったよね。その人たちはどんな感じだった?」

 「あ……その実は色々あって、あれから別の人に引き取られたんだよね」

 「えっ? そうなの?」


 はるかは、舞香のことを話していった。

 もちろん、彼女が夫婦を殺したことは伏せて。


 「そっか……目の前で強盗殺人が起こるなんて、すごい怖かったよね……嫌なこと思い出させちゃったね……。それにしても舞香さんも気の毒な人だね」

 「うん。一気に大切な人を3人も亡くしたんだからね。生まれてくる子には遥って名前をつけるつもりだったんだって。店のホームページで私の名前を知って、より運命を感じたみたい」

 「そんな偶然があるもんなんだね……思い描いていた娘の顔と瓜二つの子どもに、ある日バッタリ出会うなんて……」


 『遥は私の娘なんだから』


 何度も何度もそう言われた。

 一緒に暮らしている間に、本当に自分の腹から出したつもりでいるのではないか、と思ってしまうほど、舞香はのめり込んでいた。


 須美は、先ほどとは打って変わって神妙な顔になってしまった。


 須美をそんな真剣な顔にさせたのは、強盗殺人事件の話のみではない。


 はるかが、子カフェで働いていたということも、ショッキングな話題だった。


 子カフェ、というものが世間から再び糾弾されるようになって、5年以上も経っている。


 数々の黒い話が出てきて、いくらなんでも無視できない状況にまで進んでしまい、子カフェは消えることを余儀なくされた。


 子カフェのせいで発生した数多の悪質な事件は社会問題にもなり、世間の間に広く知られている。


 "社会全体の黒歴史"として教科書にも載るほど、子カフェは最悪の施設として認識されていた。


 そこで働かされていた子どもたちは、憐れみの対象として見られている。


 須美ちゃんは今、私の過去について不用意に触れてはならない、と思っているのだろう。

 叩けばいくらでも出てくる私の暗い過去。

 それは、駅中のカフェで気楽に話すような話題ではない。


 気まずい思いさせてごめんね、とはるかは謝りたくなってきた。


 「でも舞香さんと暮らすようになってからは、運が向いてきたんじゃない? 経緯を聞くと、はるかちゃんのことめちゃくちゃ溺愛しそうだけど……」


 確かに溺愛はされた。

 でも……。


 「舞香さんって私に似てたんだ。そんな人に子育てが向いてるわけなかった。……うまくいくわけなかったんだ」

 「え……?」


 はるかの雰囲気が変わったことに気づき、須美は緊張する。


 「あの人、子どもの頃に母親に捨てられたことがトラウマになってた。夫と娘を裏切って不倫してたの。それで家庭を顧みなくなっていって……離婚ってなったの。本人は割り切ったようなこと言ってたけど、全然そんなことなかった。お母さんに裏切られたことが、ずっと心の傷になっていた」


 須美の喉がごくりと鳴る。


 「我が子を大事にしない母親に尋常じゃない憎しみを抱いていたよ。虐待のニュースなんか見るともうすごかった。母親をめちゃくちゃに罵倒するの。母親のくせに信じられない。私には考えられない、って他人事とは思えないほど息巻いてた」


 舞香について語るはるかの瞳には、憐れみが宿っている。


 「舞香さんは、"自分の子ども"にすごくこだわっていた。だから、遥って名付けるつもりだった赤ちゃんのことを、ずーっと忘れられなかった。無事に生まれてこれていたら、今ごろ小学校に入っていたのにな、お母さん今日学校でね……って楽しそうに話しかけてくれただろうな、ってずっと妄想してきた。そうして、存在しない遥のイメージを着々と固めていったんだ」


 『遥は私の娘なんだから』

 『遥はこう思うわよね?』

 『なんでそうなるの? 遥はそんなことしないはずよ』


 「私が舞香さんが頭の中で作り上げた遥のイメージに背くようなことをすると、すごく動揺するの。なんでなんで、って取り乱して。泣き出したりすることもあった。ヒステリックに怒鳴り散らすことも」


 何かを選択しても「それは正しくない」「こっちにしなさい」と遥として生きることを強要され、自分自身を肯定されることはついぞなかった。


 「舞香さんは、"子ども"がいる人生に固執していた。そうじゃない人生は自分にとって不幸で、絶対に幸せになれないんだって。そんなことないと思うけどね。でも舞香さんはそう思い込んでた」


 『子どもは何よりも尊い存在で、子どもさえいれば人生は輝きを失わない』


 舞香の中には、この言葉がずっと根を張っていた。


 「子どもがいれば、人生は薔薇色になって全部うまくいく。自分は幸せになれるはずだ……ってそんなふうにあの人は思ってたんだよね。あれさえあれば、これさえ手に入れば、って一人で思い込んでる分には勝手だけど、期待を押し付けられる側はたまったもんじゃないよね」


 最近までの私が、まさにそうだった。

 自分の問題や悩みは、"理解のある恋人"がそばにいてくれれば、解消されるものだと——他人が自分を魔法みたいに変えてくれるのだと、本気でそう信じていた。


 それで他人を苦しめた。舞香さんが私にしてきたことと同じだ。


 はるかと舞香は似た者同士だった。

 はるかも、舞香と出会って「この人だ」と感じた。


 この人なら、私を救ってくれるかもしれないと。


 「私もあの人も、自分が救われることしか考えてなかった。自分勝手な"子ども"が二人っきりで暮らしてたんだ。どっちも文句を言わずに自分の願いを叶えてほしい、って思って相手に期待を押し付けて。どっちかが犠牲になるしかない関係だった。だから高校卒業したらすぐに家を出たの」


 そして、今日に至るまで一度も帰っていない。

 携帯は着信拒否にしている。住所も知らせていない。


 舞香との繋がりは完全に絶っている。もう会うつもりもない。


 「はるかちゃん……」

 話を聞き終えた須美が、泣きそうな顔ではるかを見つめる。


 「今はどうなの? 幸せ……とまではいかなくても悪くない人生を送れてるの?」

 「そうだね。不安がなくなったわけではないし、泣いちゃうこともあるけど——でも今は前を向いて歩けてると思うんだ。ほんの少しだけ、自分のこと好きになれた」


 こんなふうに言えることが、はるかは心底嬉しかった。


 「はるかちゃん——」


 須美は、そう呼びかけておいて、なかなか続きを言おうとしなかった。

 あちこちに視線を飛ばして、膝の上に置いた手をモジモジと弄ったり、体を揺らしたりしたあげく、彼女が口にした話題は恋愛のことだった。


 「はるかちゃんは、今付き合ってる人や好きな人とかはいるの?」

 「今はいない。須美ちゃんはいるの?」

 「私は……いないんだけどさ……」


 須美の顔が曇る。


 「私も年頃だし、そういう人がいてもいいんじゃないかと思うんだよね。親も心配してるし……」

 「ご両親が?」

 「うん。良い人はいないのか、って最近やたらと訊いてくるの」

 「ええっ。須美ちゃん19歳でしょ? ご両親、ちょっと気が早いんじゃない?」

 「私もビックリしちゃったよ。いない、って言うと、そんなに男っ気がなくて将来大丈夫なのか、なんて心配し出すし……」


 将来も何も、須美ちゃんはまだ20歳にもなっていないのに。


 須美の両親のあまりの気の早さに、はるかは驚いた。


 「高校生の頃、私仲の良い男友達がいてさ。下校の時一緒になることもあったんだ。それでその子が家の前まで送ってくれた日があったんだけど。窓の外から様子を見てたお母さんが、もう大騒ぎしちゃって。あんな派手な見た目の彼氏とは別れなさい、みたいなこと言い出して、話しやすくて良い人なんだよ、って私が言うと、あなたはまだ子どもだから何もわかってないんだ。人を見る目が養われてないんだから、あなたに恋愛は早い——って成人するまで恋人は作らないように言われちゃったんだ」


 あの子は彼氏じゃないよ、って言ったんだけど信じられなかったみたい——と須美は頬をかきながら苦笑いした。


 「随分古風な親なんだね……高校生にもなれば恋人くらいいてもおかしくないと思うけど……」

 「お母さんとお父さんはそうは思わなかったみたい。まだ結婚もできない年齢のうちから付き合って何の意味があるんだ、ってそういう考えなんだよ」

 「意味って……恋愛にそんなこと求めすぎたら、あまり良くないんじゃない?」

 「まあ、私が通ってた高校の同級生で、妊娠して学校辞めちゃった子がいたから、それに影響されたのかもしれない。若気の至りで子どもでも出来ちゃったらどうしよう……って。娘を持つ親としては、やっぱりそういうの心配なんだよ」

 「それは当然かもしれないけど……。でもそれって……」


 須美ちゃんのことを、まったく信用していないようじゃないか。


 娘を信用していれば、彼氏がいるからといって、そう慌てふためいたりしないはず。

 恋人がいる=妊娠の危険、という思考回路にはならないはずだ。ましてや、その危険を考慮するあまり、娘の行動を制限するなど。


 「まあ、でも」

 と須美が言う。


 「それだけ心配されてるってことだよね。二人もそう言ってるし。あなたが大切だからこそこんなに心配なの。あなたのためを思って言ってるの、って」


 須美は、恩人である両親からそんなふうに言われると、何も言えなくなってしまうのだった。


 「私があの酷い環境から抜け出せたのも、人並みの生活が送れるのも、二人のおかげだって思うと、反抗する気なんて起きなくなるんだよね。私、お父さんとお母さんには本当に感謝してるし、悲しい思いはしてほしくない」

 「…………」

 「だから高校生の時は告白されても断ったりして、彼氏を作らないようにしてたんだけど……成人して少し経って急に『好きな人はいないの?』って訊かれた時はビックリした」


 何となくそういう話は、親の前ではタブーのように思っていたので、須美はその質問をされた時、小さからぬ衝撃を受けた。


 「『別に好きな人がいるくらいだったら、高校生の頃もうるさく言ったりしなかったのに〜』ってお母さんはおかしそうに笑ってた。そして、成人したんだから彼氏くらいいてもいいんじゃない? って軽い調子で聞いてくるから、今のところ気になってる人もいないよ、って答えたら、今度は逆のことを心配し出して……うちの娘は恋愛に興味がないのか、将来大丈夫なのか——ってお父さんまで気にしてて……」


 須美が戸惑うのも当然だと、はるかは思った。


 ちょっと前までは、男子が自宅の玄関先まで来るのにも難色を示して、異性とは必要以上に関わらないよう言っていたのに、急に真逆のことを言い出されては——。


 大きなお世話だ、とはるかは話を聞いているだけで、ため息をつきたい気分だった。


 「大人になったら恋愛しないといけないんだ、って二人にはそういう常識があるみたいで……だから全然男っ気のない私が心配なんだよね。そんなんで結婚できるのか、って将来のことを考えて今から心配してる」

 「将来って……須美ちゃん、最近成人したばかりの年齢じゃん。いくら何でも心配するのが早すぎるよ」


 それに、とはるかは続ける。


 「絶対結婚しなきゃいけないってわけでもないでしょ? 結婚したからって幸せになれるわけでもないし。今はそういう時代でもないし……」


 独身は不幸だ、という価値観は今では完全に淘汰されたように思える。

 しかし、一見そう思えるというだけで、実際のところはまだまだ独身を許さない風潮はある。


 でも、須美が結婚するつもりはない、もしくは今はそんなこと全然考えていない、というのなら、その思いは尊重されるべきだとはるかは思うのだ。


 世間的にどうか。親が何というか。そういうのを気にすることも大事だと思う。

 でも、一番気にするべきは自分の意思だ。それを第一に優先して、他人のことはその後考えればいい。


 「嫌なことは嫌ってハッキリ言った方がいいよ。じゃないと、いつまで経ってもうるさいこと言われるから。別にそれくらいのこと言ったって、ご両親は傷ついたりしないよ」

 「……うん、そうだね」


 須美の両親も悪い人ではないのだろう、とはるかは思っていた。

 須美が「やめて」と一言言えば、態度を改めてくれる普通の両親なんだろうと。


 須美は養子だ。生まれてからずっと、今の両親と一緒にいたわけではない。

 うまくいっているように見えても、なんだかんだ気兼ねして、自分の意見を言いにくいこともあるのだろう。


 はるかは、須美が二人に遠慮して自分の意思を主張していないことが、問題の原因な気がしていた。


 須美が何も言わずに、従順に言いつけを聞いてくれるから、両親もそれでいいものだと思っているのだろうと。


 誰の中にも、その人なりの常識がある。

 自分の中ではその考えは当たり前なのだから、無意識のうちに他人に押し付けるようになってしまうことだってままある。


 はるかも社会人になって、色々な年代の人たちに囲まれて働いている中で、各々の常識や価値観の違いに驚いたものだ。

 最初のうちは、それはあり得ない、とドン引きすることもあった。


 でも、自分の中の常識に沿って会話してくる人たちも、大抵悪気はないのだとわかってきた。不快に思って指摘すれば、大体の人は改めてくれたのだ。


 須美ちゃんの両親も「その考えは古いよ〜」と娘に笑い飛ばされれば、改めてくれるはずだ。

 須美ちゃんは愛されているんだから。


 はるかは、あんまり両親に遠慮しすぎないように、とアドバイスしておいた。


 「はるかちゃん、何だか変わったね」

 「えっ?」

 「なんか、堂々としてるっていうか……格好良くなったと思うよ」

 「そう……かな」


 だとしたら嬉しい。

 私、やっぱり変われてるんだ。前の私とは違うんだ。


 そうだ。わだかまりのあった須美ちゃんとも、こうやって自然に話せている。


 最初のうちはガチガチだったけど、今はこんなにリラックスしているじゃないか。


 須美に指摘されたことで、はるかに自信が芽生えてきた。


 須美ちゃんと再会できて良かった。

 これで私のトラウマが一つ消えたんだ——。

 はるかがそう思っていた時だった。


 「あの遊びのこと覚えてる?」

 藪から棒に須美がそう尋ねてきて、はるかは固まった。


 「秘密基地でやってたあの遊び。私が付き合わせちゃってたごっこ遊び、はるかちゃん覚えてる?」


 この時、

 「えー覚えてないな。何だったっけ?」

 としらばっくれれば良かったと、はるかは何度も思った。


 そうしていれば、須美と何事もなく別れられていただろう。また会おうね、と連絡先を交換して、友達として再スタートできたかもしれない。


 でもはるかは「……うん」と深刻な顔で頷いてしまった。

 そんな反応を返してしまったら、今更取り消すことはできない。


 須美が、怯えと期待が入り混じった瞳になる。


 「変な遊びに付き合わせちゃってごめんね。私子どもだったから、意味とか全然わかんなくて……今考えてみると、相当恥ずかしいことしてたよね。はるかちゃんも当時は意味わかんなかったと思うけど」

 「うん」


 須美の口調が、あたふたと言い訳めいたものになる。その顔色は真っ赤で額には汗が滲んでいた。 


 大人になった今、当時の自分のことを思い出すと、恥ずかしくてたまらないのだった。黒歴史に苦しめられる人間の姿だった。


 「先生たちが怒った理由が何年か経ってからようやくわかって……はるかちゃんにも変なこと教えちゃったな、って後悔してたんだ」


 須美は、意味もなく両手を揉みしだき始めた。


 「はるかちゃんもあの頃は子どもだったから、私の遊びの意味も、その……自慰、のことも意味不明だったと思うけど、何年か経って思い出してみて、もし不快な気分になってたりしたら、申し訳ないなあ……って」


 須美はそこで、話している最中ずっとあちらこちらへと飛ばしていた視線を、ピタリとはるかの顔面で止めた。


 「大丈夫だった? はるかちゃん、あの後嫌な気分になったりしなかった? それとも忘れちゃってたかな」


 須美の目には、だったら良いんだけど……という期待がこもっていた。


 後々知識を得たはるかが、自分のことをどう感じただろうか。

 気持ち悪い、とは思わなかっただろうか。


 須美が気になっていたのはそのことだった。


 はるかに気持ち悪いと思われたくない。

 はるかにまで気持ち悪いと思われていたらどうしようと、不安で仕方なかった。


 果たしてはるかの反応は——。


 「……嫌な気分になったよ。須美ちゃん、なんであんなのが好きなんだろう。おかしいんじゃないの、って思った。あんな遊びに付き合ってた自分も、思い返すと気持ち悪かった」


 はるかの目に、現在の須美は映っていない。

 彼女の意識は、ひたすら自身の内側に向いていた。


 デカポンや実の顔が、ニヤけた口元が頭に浮かんでくる。

 次いで、痛みや感触が鮮やかに蘇ってきて、身体がカタカタ震え出す。


 かき消そう、と思っても簡単に消えてくれないものたち。


 はるかは、自分の股間が気になり出した。


 そこを触った手の感触が忘れられない。

 鏡に映った自分の裸体を見るたびに、この体を弄ばれたのだ、と思い出して惨めな気分になる。


 たった一つの大切な体をおもちゃにされた経験が、自分の体を、ひいては自分自身を愛せなくさせた。


 はるかの自己肯定感の低さは、その半分以上は性的トラウマの影響だと言っても過言ではないくらいだった。


 そして、そういう体験をしたことが、はるかに性そのものへの嫌悪を抱かせる結果になってしまった。


 性的なコンテンツ、性的な話、カップルの間で行われる性的な行為——その全てがはるかの嫌煙の対象だった。


 だから、須美としていた遊びや、須美が興奮して読んでいた漫画、拙い自慰行為——などなど、須美のことを思い出す際、そういったものが頭に浮かんでくるのは避けられないので、いつしか須美のことは考えたくない、と思うようになっていた。


 須美との思い出は、楽しいものもたくさんあったはずなのに、それが嫌悪感を伴う思い出に塗りつぶされていってしまうのだった。


 「あんなもの好きなんて変だよ。どっかおかしいよ。たとえ他の人が『全然変じゃないよ』とか『それくらいの性癖普通だよ』って言っても、私はそうは思わない。異常だって思う。あんな気持ち悪いもの——」


 はるかには、須美の顔が見えていなかった。


 相手がどんな様子かなんて、まったく考えられない。感情が溢れ出して、自分でもどうにもできない状態にあった。頭よりも先に口が——言葉が矢継ぎ早に出てきた。


 はるかの性的嫌悪は、性欲を持っている人間の否定にまで繋がった。


 恋人に性的な関係を望まれると、はるかは劣化の如く怒った。

 大切な人に、そんなことを強いるなんて酷いことだ、と相手を人でなしでも見るような目で睨んだ。


 はるかの中では性=悪であり、性的な行為を好む人間は、皆苦手だと感じていた。


 その上須美は、はるかにとっては地雷といえる性癖を持っていた。


 男が嫌がる女を力で押さえつけて好き勝手する——というシチュエーションが、最も須美の好むところだった。


 当時、色々な設定でごっこ遊びに付き合ったが、頻出する設定は大体そういった感じのものだった。

 だから、須美はそういうことを妄想するのが好きなのだと、はるかは否応なしに気付かされてしまった。


 「……気持ち悪い」


 はるかは、感じたことをそのまま口に出す。


 ついさっきまでは、大丈夫のような気がしていた。

 須美ちゃんと、また友達として付き合えるかもしれないと——そんな希望さえ抱きかけていたのに。


 もう無理になってしまった。

 須美ちゃんが余計なことを言ったから。


 須美ちゃんを、気持ち悪い、と思ったことを思い出してしまった。


 あれから何年も経ってるし、彼方くんとの出会いをきっかけに成長したこともあるしで、大丈夫になったような気がしていた。

 もう大丈夫だ、なんて思い上がってしまっていたんだ。


 でもこうして須美ちゃんを前にして、当時の話をされて——こんなに体と心が拒絶反応を示している。


 やっぱり私は、須美ちゃんを受け入れられない。

 須美ちゃんみたいな人がこの世に存在していることが、許せないんだ。


 それがわかってしまった。


 「はるか、ちゃん」

 須美がところどころつっかえながら話し出す。


 「私、もうあんな変な趣味持ってない。あれは一時の気の迷いみたいなもので——あの頃の私、どうかしてたの。はるかちゃんの言う通り、異常だった。もうあんなシチュエーションでは興奮しないし、ちゃんと普通の性癖に治ったから——」

 「普通の性癖って何?」

 「え……」


 だったら須美ちゃんは、今はどんなものに興奮するの?


 そんな意図を込めて、はるかは問うた。


 「普通って……普通は普通だよ。好きな人とすることを想像して——これなら別に気持ち悪くないでしょ?」


 これなら全然異常じゃない、誰にも責められない正しい興奮の仕方でしょ?

 だから私は、気持ち悪いと言われる謂れはないのだと——須美はそう言いたげだった。


 「私、あの頃とは違うから——ごめんね、あの頃の私気持ち悪かったよね。はるかちゃんにも嫌な思いさせちゃってごめん。子どもの気まぐれに付き合わせちゃって申し訳ないよ。あんなの、ほんの一瞬の気の迷いだったんだけど……それにはるかちゃんを巻き込んじゃってごめんね。本当にごめん」


 急に早口になった須美は何度も、あれは一時の気の迷いだった、というセリフと「ごめん」を繰り返した。


 自分でもあれはどうかと思ってた。

 ホントあの頃の私、おかしかったよね。

 子どもの気まぐれに巻き込んじゃってごめんね。


 須美はやたらと頬を掻きながら、ヘラヘラとした笑いを浮かべていた。


 自分にも同じような反応を求めているのだと、はるかはすぐにわかった。


 笑い飛ばして、この場の雰囲気を軽くしてほしいのだと。

 冗談のように扱ってほしいのだと。


 そして、はるかに許してほしいのだ。

 須美は、はるかに拒絶しないでほしかった。


 はるかなら、自分を受け入れてくれるんじゃないか。

 子どもの頃のように。


 しかし、須美の願いは叶わなかった。

 はるかは、相変わらず重苦しい顔をしている。


 ああダメだ。

 そう悟った須美は、半笑いのまま固まった。


 「そっか……はるかちゃん、ごめんね。はるかちゃんも、本当は私のこと嫌だったんだよね。気づけなくてごめんね。私会えなくなってからも、はるかちゃんのこと、ずっと親友だと思ってた。でも……いい迷惑だったよね、ごめんね」


 はるかは無言だった。

 それは、否定しないということを表していて、須美は完全に打ちのめされた。


 「私ね」

 須美がパッと顔を上げる。


 最後だから言っておかなきゃ、というように、須美は思いを吐き出す。


 「自分が何を好きとか何をしたいのかとか、誰にも言えなかったの。否定されたらどうしよう、って思うと何も言えなくなる。だから、好きだって言ってる人が多いもの、一般的に見ても評判の良いものしか、堂々と『好き』って言えなかった。その気持ちは別に嘘ではないし……でもずっと寂しかった」


 学生時代の須美は、いつも仲良しグループで行動していたが、その中で素を出せることはなかった。


 「何かを好きになると、世間一般的に見てマイナーかメジャーか、友達の中にこれが好きな人はいるか、みたいなことを第一に考えちゃうの。何かをいいな、って瞬間的に思っても、周りの反応をイメージしてみてから好きになるかどうか決める……みたいな。音楽でも、漫画でも、小物でも」


 須美のその思考は、服を選ぶ時や出先での食事の際でも、否応なしに発揮された。


 自分がどう思うかよりも、周りがなんと思うか。

 友達や両親が歓迎してくれるかどうかで、何でも決めてきた。


 部活も、進学先も、将来の夢に至るまで須美は、周囲の人たちの希望を第一に優先してきた。

 周りの期待を裏切ってでも自分の意思を優先することは、許されざることのように感じていた。


 「私高校生の頃、そんなに好きでもないキャラクターのグッズを集めてたんだよね。ハンカチとかキーホルダーとか買って身につけて、そのキャラクターを好きな友達とグッズの話で盛り上がって……そういうのやってると、安心はできたけど全然楽しくなかった」


 はるかは、何が始まったのだろう、とでも言いたげな、不可解そうな目で須美を見ている。


 この話が自分に何の関係があるのだろう、とはるかは思った。

 何の脈絡もないように思える。須美ちゃんは何が言いたいんだろう。


 「友達といても楽しくなかった。一緒にいると1時間もしないうちに疲れてきちゃって……卒業してからは一度も会ってない。向こうも向こうで、私がいてもいなくてもどっちでもいいって感じで。……そういう雰囲気は学校にいた時から毎日感じてたんだけど。ある日私がグループから抜けても何ともないんだろうな、って。私、ただその場にいて笑ったり適当に言葉挟むだけの、ほとんど空気みたいな存在だなって」


 グループに入っているだけの存在。何となくそこにいる子。

 高校生の頃の須美はそんな感じだった。


 クラスの中で目に見えて浮いていたわけではないし、よく話すクラスメイトも何人かいた。いわゆるぼっちではないけれど、その実どこにも根を下ろせていないような生徒だった。


 それも当然だった。

 須美と話していても、まったく楽しくないのだから。


 須美は、他人に"自分"というものを見せようとしないので、誰とも打ち解けられるわけがなかった。


 須美は個性を出すのにも、周りの顔色を伺いながら小出しにするというふうなので、他人からは須美という人間のキャラクター性がほとんど見えてこなかった。


 いわば人間性を排除した接し方をしてきたので、須美と関わってきた人たちは、須美のことを良いとも悪いとも評価できなかった。


 別に一緒にいて嫌な気はしない。でも別段愉快になったりもしない。


 拒絶もされないかわりに、深く受け入れられることもない対人関係。

 須美は、そういう関係しか築いてこなかった。


 それが個性を出さないコミュニケーションの限界だった。


 「今まで生きてきて、はるかちゃんみたいな友達は一人もできなかった」


 昔を恋しんでいるような口調で須美が言う。


 「またはるかちゃんに会えたらいいなって、ずっと思ってた。友達といてしんどいな、って思った時は、いつもはるかちゃんと過ごした時のことを思い出した。あの頃は楽しかったな、って。なんであんな楽しい気分になれないんだろう。なんではるかちゃんと一緒にいた時みたいに、リラックスできないんだろう、って不思議だった。はるかちゃんといた時は、しんどいなんて思ったこと一度もなかったのに」


 同じ友達なのにどうして? と昔と今の落差を思って、高校生の須美は首を傾げていた。


 そして、もうあの頃のように楽しい気持ちにはなれないのだろうかと、これが大人になるということなのかと、胸が悲しみで締め付けられるように痛くなった。


 「高校2年生の時、学校に進路希望を出すことになったの。でも私、何になりたいのか全然わかんなくて……自分がどういう仕事をしたいのか、どんな職業に興味があるのかとか、全然掴めなかった」


 将来の夢。やりたいこと。なりたい職業。

 自分のことだ。自分の将来だ。しかし、須美にはその輪郭すら掴めなかった。


 「先生には『何でもいいのよ、あなたが行きたい道を行けば。あなたはどんな道を歩いていきたいの?』って言われたけど、歩きたい道がどんなのかなんて私の方が聞きたい。それでお母さんに相談したら、看護師はどう? って言ってきて……」


 須美の母は、看護師になるメリットをあれこれと挙げて、何も思いつかないなら、看護師を目指してみてもいいんじゃないか、と言った。


 長く働けるし、全国どこにでも仕事がある。給料も良い方だと言われている。やりがいもあると聞くし、世間のイメージもいい。


 「いいじゃないか安定性があって」

 と父親も賛同した。


 両親の好意的な反応を見た須美は、進路希望の紙に看護学校の名前を書いた。


 これでいいのだと自分でも納得できた。

 元々なりたい職業などなかったし、両親が賛成してくれるのなら——と。学費を出すのは両親なのだし、できるだけ二人が喜んでくれる進路がいいだろうとも思った。


 「二人が『いいね』って賛成してくれると安心するの。逆に『良くない』って反対されると、すごく落ち着かない。だから多少我慢してでも、親が喜んでくれる方を選んできた。ちょっとくらいの我慢、全然大したことじゃないんだから、って。高校生の頃、男子とはあまり関わらないように言われた時も、それくらいのことなら別に大した不自由もないしまあいっか、って思って告白とかされても断るようにしてた。反対されてまで付き合いたいような人もいなかったし、不満とかないつもりだった」


 でも……と目を伏せる須美。


 「私が成人した途端、彼氏はいないのか的なことを言われた時は、なんか…………なんかね。どう言ったらいいのかな……」


 結局ピッタリハマる言葉が出てこず、

 「まあ、ちょっとビックリしちゃったんだよね」

 と頬をかいた。


 はるかは何も言わない。

 須美も、もうはるかのことは見ていなかった。これからどうするのか、もう自分の中で意思が固まっていた。


 「私だって、たまに『それはちょっと……』って不満が湧いてくることはあるよ。でも、結局二人の言うことを聞くのが一番良い道なんだと思う。なんか嫌だなって思っても、じゃあどうしたいの? ってなるもん。特にやりたいこともないし、どうすればいいのかも全然わかんないなら、周りの言うことを素直に聞いた方がいいんだ——って今はそう思う」


 それで間違ってないはずだよね? と須美は胸の内で自問自答する。

 彼女は、それが間違いのない正しい生き方だと信じたいのだった。


 「私、はるかちゃんに会えば自分の意思がわかるような気がしてた。はるかちゃんに会ってあの頃みたいに何も言わずに受け入れてもらえれば、それで良かった。ただそれだけで、何かが変わるんじゃないかと思ってたの。"本当の私"がわかるんじゃないか、って——そしたらどんなに良いだろう、って——」


 言葉を詰まらせる須美。下唇を噛み、グッと何かを堪える表情になる。


 須美ちゃんが、私に対してそこまでの大きな思いを抱いていたとは——。


 はるかは驚きを禁じ得なかった。

 駅のホームで声をかけられた時は、とてもそんなふうには見えなかった。


 13年ぶりの須美ちゃんは、明るくて元気でキラキラしてて——ああ幸せそうだな、と眩しく思った。


 13年という年月の間に、須美ちゃんは私とのことなんて、とっくに過去のものにしてしまったのだろう。私と違って前に進んでいるのだろう、と隔たりを感じたのに。


 私のことなんて、まったく必要としなくなったんだろうな、と取り残された感じがしていたのに。


 最初に抱いた認識を改めざるを得ない。

 今の須美が幸せそうだとは思えない。


 自分が須美の期待を裏切ってしまったのだと、はるかは理解した。


 はるかとの出会いをきっかけに、これまでの自分を変えられるのではないか、生きやすくなるんじゃないかと——そんな希望を砕いてしまったのだと。


 でも——とはるかは思う。

 それは私だって同じだ。

 私も希望を砕かれた。


 須美ちゃんと会って、いざこざなんてなかったかのように楽しい話だけできれば、それで良かった。

 そしたらきっと、また友達としてやっていけただろうに……。


 須美ちゃんが、あの話題に触れてしまったから。

 嫌なことを思い出させるから。

 明るい話だけしていれば良かったのに。

 わざわざ昔の気まずいことを持ち出してきて。

 須美ちゃんが余計なことするから——。


 はるかは、こんな空気になったのを専ら須美のせいにした。


 はるかも期待していたのだ。須美との再会を時たま妄想しては、自分にとって最高のシミュレーションをしていた。


 須美は昔のことなどなかったかのように笑っていて——いじめのことも、先生たちから拒絶されたことも、はるかに無視されたことも、とうの昔に消化し切っていた。


 はるかがおずおずと謝ると、キョトンとした顔をしたのちに笑い出す。

 そして言うのだ。


 「なーんだ。はるかちゃん、そんな子どもの頃のことをずっと気にしてたの? 私、そんな何年も前の出来事、もううろ覚えだよ」


 須美は暗い顔をした自分を、軽快に笑い飛ばす。

 須美が全然気にしてないことを理解した自分は、ホッと肩の荷を下ろせる。そして、ただひたすらに楽しいおしゃべりを続ける。昔のように。


 ——と、そんな都合の良い夢をはるかは見ていたのだ。

 そうなったらどんなにいいだろうと、夢想していた。


 須美は須美で、別のシミュレーションをしていた。

 二人は、互いの出会いに夢を抱いていたのだ。

 現実は、どちらの希望も叶わなかった。


 はるかは須美を受け入れられなかった。

 怒りと嫌悪感が湧いてくるのを、どうにも抑えられなかった。


 同時に、須美を理解できなかったこと、受け入れられなかったことに対する罪悪感も、はるかは感じていた。


 だから、せめて私の知らないところで幸せに生きて——と思った。

 私とは関係のないところで、自分らしく生きてほしいと——そう願った。


 「ごめんね」

 はるかは、そう言って頭を下げる。


 須美ちゃんの期待に、私は応えられない。


 言葉にしたわけではなかったが、須美ははるかの言わんとすることを察した。


 ポタリ、と須美の目から涙が一滴だけこぼれ落ちたが、次の瞬間に彼女は笑顔を貼り付けていた。

 気を取り直したように、にこやかに言う。


 「私こそごめんね。今日はありがとう。……そろそろ出ようか」

 「……うん」


 それがこの日の二人の最後の会話だった。


 店を出てすぐ、二人は反対方向に歩き出した。

 互いに深い悲しみを胸に抱きながら。

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