あたたかさ
とりあえず今日は泊まってけ、と言うと、彼方は大人しく同意してくれた。
その顔には、明らかに安心したような色が浮かんでいた。
そんな顔するってことは、やっぱり本当は帰りたくないんじゃないか。
引き留められるのを待っていた、みたいな顔しやがって。
腹の底から無限に湧き上がってくる苛立ちが、どうにも治まらない。
俺はうどんを作って彼方に食わせた。かき卵を入れてやると、ずっと沈み込んでいた顔が少しの間だけパッと輝いた。
夕飯の後、布団を敷いた。布団は一つしかないので、俺は床に座布団でも敷いて寝ようかと思った。
しかし彼方が「それは嫌だ」と頑なに拒んだ。
「一緒に寝て」
「は——」
「一緒に寝てくれなきゃダメだから」
「無理だろ、狭いし」
「詰めれば余裕だよ。ぼく小さいし」
「俺、隣に誰かいると眠れないんだよ。だから——」
「じゃあ、ぼくが寝付くまでの間だけでいいから。お願い。お願いお願いお願い!」
「はっ、ちょっ——駄々っ子かよっ!」
イヤイヤ期のように、嫌だ嫌だ、しか主張しなくなった彼方に、俺は早々に降参した。
俺が「わかったよ」というと、途端に静かになる彼方を見て、俺は胸がグッとなった。
彼方の隣に寝転んで、半身だけ布団をかける。
すぐに寝入るだろう、と思って承諾したのに、彼方は布団に入るなり話しかけてきた。
「ねえ、聞いてもいいかな」
「なんだよ、改まって。これまで聞きたいことがある時は、なんでも藪から棒に質問してきただろうが」
「だってリオさん、前に訊いたら怒っちゃったんだもん」
「覚えてねーな。なんだ。言ってみな」
あのね、とまだ躊躇っているように、自信なさげに切り出す。
「リオさんのお母さんは、どんな感じなの?」
「…………」
「リオさん……?」
「なんでそんなこと、気になるんだ」
「えっ? なんでって——う〜ん……なんでなんだろ? なんでリオさんのお母さんが気になるんだろう。わかんないけど知りたいんだよね」
「聞いてどうする」
「えっと……ぼくのお母さんと似てるところがないか探す……かな。似てないところも知りたい。そうだな……ぼくはリオさんがどう育てられてきたのかが、知りたいのかもしれない」
「道子と似てるところがないか探す、か……つまりお前は、よそのお母さんがどんな感じか気になるってことだろ。自分ん家が他と比べてどんなふうか——」
さらに「自分の母さんが良いのか悪いのか知りたいってことなんだろ」と続けようと思ったが、やめておいた。
自分の家の違和感に、こいつも薄々気づいているのかもしれない。
他の家もこうなのか。自分のところだけおかしいのではないかと。
気づいているなら、どうにかしてほしいものだ。
自力で気づくのでなければ、彼方の問題はどうにもできない気がするから。
「母さんは、よく俺を殴った」
「え?」
「ボコボコにされて、目が見えなくなったこともある。何度も死ぬ、って思った」
「リオさんは、お母さんのことが嫌いだったの?」
「いや——そんなことされてても大好きだったよ。母さんに褒めてもらいたい、好きになってもらいたい、ってそれだけを思い続けてた」
「今はどうなの? 今もお母さんのことは好き?」
「今も——、…………。」
「リオさん?」
俺がいつまでも答えられないでいると、彼方は別の質問を繰り出した。
「お母さんとは、たまに会ったりしてるの?」
「ちょっと前に死んだ」
彼方がバッと顔を上げる。俺の表情から何かを読み取ろうとしているように、じいっと見つめてくる。
「大体お前ぐらいの歳の頃に、母さんと離れて暮らすことになったんだ。俺が死にそうなことに気づいた大人たちが、俺を保護して母さんを刑務所に連れていった」
彼方は何も言わずに、話に聞き入っている。
俺も話すことに夢中になっていた。
「それから一度も会ってなかったんだ。会いたくなかった。会うのが怖かった。会った瞬間、罵倒されるんじゃないか、って不安だった。いや、それよりも——まったくの無関心で『そういえばあんたみたいなやついたな』って感じの冷めた反応されるのが一番怖かった。離れている間、母さんは俺のことなんか微塵も考えていなかったら——そう思うと、会いに行く勇気が湧いてこなかった」
心の奥でぼんやりと思っていたことを言葉にするだけで、こんなに胸が詰まるなんて。
「俺はずっとお母さんのことばっかり考えてたのに……」
瞬間、俺の頭をあたたかい両手が包み込んだ。
彼方は、まるで小さい子どもにするように俺の頭を両手で抱きしめて、自身の心臓のあたりに押し当てていた。
トク、トク、トク、という心地よい音が頭に響く。
「泣かないで」
その言葉で、自分の目が濡れていることに気づいた。
「リオさんのお母さんも、きっとリオさんのこと考えてたと思う。……だから泣かないで」
そう言う彼方の声も、泣いているように震えていた。
俺は呆気に取られて、目をパチクリさせていた。涙も引っ込んだ。
苦しさが吹っ飛んで、感動が胸に巻き起こっていた。
こいつに励まされるとは。
彼方がこんなに——これほどまでに他人の心に寄り添える行動が取れるとは。それも、いかにも自然なことのように、素早く違和感なく。
あまりの感慨に、今度は別の涙が湧いてきた。鼻をすすった俺を、彼方はより一層強く抱きしめる。
「いいんだ……もういいんだ。大丈夫になったから」
そう言うと、手が離れていった。
「ありがとうな」
「もう大丈夫なの?」
「ああ。もう平気だ」
「ぼく役に立てたかな?」
「ああ、役に立ったよ。ありがとうな」
「へへっ!」
彼方は、俺に抱きついてきた。
寝付くまででいいからこうしてたい、と彼方は言ったが、俺は彼方が寝息を立て始めても、まとわりついた腕をほどこうとしなかった。
目を瞑り、彼方の寝息と体温を感じることに集中する。
あったかい。
全身がポカポカと温かかった。
体だけじゃない。
心臓のあたりをキュッと掴む。
何もかも綺麗に消化しきれたわけではないのかもしれない。
これからも、お母さんのことを思い出して、何とも言えない気持ちになる瞬間が、何度も何度も訪れるのかもしれない。
急に何もなかったみたいに全部を忘れ去ることは、不可能かもしれない。
でも——。
今だけは。今この瞬間だけは、長年の苦しみから解放されている。
一時的なものだとしても、とにかく今だけは苦しくない。
彼方のおかげで。
彼方の背に、俺もそうっと手を回してみる。
そのぬくもりに心から安心した。
一人じゃない、という絶対的な安心感に包まれる。
これから何が起こっても大丈夫な気がした。
どんな人生だって生きられそうな勇気が湧いてきた。
自分は世界に一人きりではない。
そんなふうに言われているみたいだった。
「他人ってあたたかいんだな」
わかっているつもりで、まったくわかっていなかった真実。
こんな感情を与えてくれた彼方に、どうやって恩返ししたらいいのか、俺は途方に暮れた。
こいつは俺を救ってくれた。俺はこいつに何をしてやれるだろう。
彼方の幸せのために、何をしてやれるだろう。
何が彼方にとっての幸せなんだろう。
どうすれば、彼方を傷つけずに丸くおさめられる?




