助けなんて来るわけない
少し前までは、私と須美ちゃんの秘密基地だった空き部屋は、今では拷問部屋みたいになっていた。
かつては楽しい空気だけが流れていた部屋は、私のトラウマ製造室に変わっていた。
この部屋は、私にとって唯一の安心できる場所で、友達との大切な思い出が詰まった場所だったのに、デカポンによってすっかり印象が塗りつぶされてしまった。
一歩部屋に足を踏み入れると、体からふっと魂が抜けていくような感覚がやって来た。
ここに呼び出されるようになってから、何度目かの時に、初めてそんな感覚に襲われて、それ以来ずっとだった。
どこか夢の中にいるように頭がボーッとする。
夢の中では、どんなに突拍子もないことが起こっても、ああそういうもんか、とすんなりと受け入れる。感情が激しく動いたり、何かに大きく反応したりすることは少ない。
目の前で何が起こっても、ただ茫然とそれを受け入れて少しも疑問に思わない。究極の落ち着き。
私にとって、夢の中とはそういうものだった。
夢の中で私は、自分がはるかという名前で、小学一年生で両親がいない——というふうに、私がどういうプロフィールを持った人間で、どんな性格をしているのか、クラスや施設内での立ち位置……などなどの色んなことを忘れられた。
夢の中では、自分がどういう性格をしているかとか、どんな問題に悩んでいるのかなどは、少しも頭をよぎらなかった。
起きている時にはあれほど気にしていたことが、眠っている時に現れる世界では一切出てこない。
デカポンにいいようにされている最中、私は目を開けながら夢の中にいた。
そうしていると、痛みも辛さもほとんど気にしなくなるのだった。私は意識だけを現実の外に飛ばすことで、この時間をやり過ごした。
でも、夢からいつまでも覚めないままでいることはできなかった。
私がどれだけ嫌だと思っていても、一日中現実から逃げることはできない。
ダメージはいつも後から来る。
夜布団に入ってからだったり、学校で授業を受けている時だったり、登下校中や給食の時間など、色んな場面で私は急に涙が止まらなくなる時があった。
それは前兆もなく訪れるので、私はすっかり困ってしまった。そうなっては困る場面や場所でもお構いなしにやって来るんだから、たまらない。
一度辛い気持ちになってしまえば自力で止めることはできないので、なおさら。
クラスの子たちからは、何でもないのに急に泣き出すおかしい子、として変な目で見られるし、担任からは迷惑そうに睨まれた。
一学期の終わりに渡された通信簿で、私は"協調性がない"と書かれた。もっとみんなと仲良くしようとしましょう、というお叱りの言葉をもらった。
"協調性"がどんな意味か辞書を使って調べて、私は予想していた通り落ち込んだ。
学校では協調性が命らしい。私はそれを持っていないから、先生から嫌われているみたいだ。
他の子と仲良く笑い合えば、先生に好きになってもらえるんだろう。きっと今より私の話も聞いてくれるし、助けてくれようとするかもしれない。
でも、クラスの子たちと話すのはしんどかった。みんなが私に何かする、というわけではなくても、あの子たちと私はまったく違うんだもの。
楽しくおしゃべりをしている最中に、圧倒的な感覚の"ズレ"を感じて、勝手にしんどくなることの連続だと目に見えている。
先生は私の協調性のなさを叱るだけで、私がどうして協調性を身につけないのか。どうして周りの子に話しかけたりしないのかについてはまったく想像しない。
毎日生き延びることに精一杯な人の気持ちなんて、想像もできないんだ。
デカポンに弄られるまで、私は自分の体にそういう場所があるのを知らなかった。
体にある"穴“というのは、鼻、耳、お尻、口の四つしかないのだと、私は思っていた。
他に何かを詰め込めそうな穴なんてないと。
デカポンは、私のお腹を指でかき混ぜた。
それは何とも言えない不快感で、苦しむ私を見てデカポンは満足そうにしていた。
どうしてこんなことをするのだろう。
何が楽しくてこんなことをしているのだろう。
殴ったり蹴ったりすることよりも、デカポンは私の内部をぐちゃぐちゃにすることの方が、楽しいみたいだった。
それをする時、デカポンは安心したように上機嫌になるのだった。
私がしくしくと泣けば泣くほど、デカポンは満足げに笑う。
私には彼が悪魔に見えた。
こんな悪魔の遊びを、デカポンは誰から教わったのだろう。
「騒いでも無駄だからな。助けなんて来るわけないんだから」
デカポンは、そう言って私を脅した。
されている最中は、心がどこかへ行ってしまったみたいな感覚になる。
痛い、苦しい、恥ずかしい、と思っても、現実っぽくない白々しさがあった。
どこか他人事みたいな感じで、
「あー今爪でどっか傷つけられたな」と考えたりしていた。
それで、夜一人になった時や、学校にいる時、掃除の時間やテストを受けている最中なんかに、思い出して泣けてくる。
急に泣き出すことで、随分と先生やクラスメイトたちを困らせた。
女子たちからは、"嘘泣き"だと言われて責められた。
話している途中に、相手は何もしてないし何も言ってないのに、私が急に泣き出すから、周りにいた子たちから困惑される。
「吉野さんが急に泣き出したんだからね。私は何もしてないからね。吉野さんが勝手に泣いてるんだからね」
そう説明するのを聞かされるのは、胸が抉られる気分だった。
悪いのは私一人。困らせちゃってごめんなさい、と胸が申し訳なさでいっぱいになった。
『吉野さんはみんなから注目されるために泣いてる』
いつしかそんな認識がクラスの間で広まった。
また吉野さんが嘘泣きしてる、とヒソヒソ噂されるようになって、教室が前よりも居心地悪くなった。
担任からも、
「変な真似で注目を集めようとするのはやめなさい。もっとちゃんとした方法で友達を作らなきゃ」
と注意された。
自分でもどうしようもできないんだ、涙はコントロールして出せるものじゃない、子役じゃあるまいし。
感情が爆発して、辛さが限界に達して、涙が出て止まらなくなる経験をしてこなかったんだろうか。
みんなはちゃんとしてる人なんだ。
私と違って、悲しみも喜びも好きなように調整できて、涙も出すべき時にしか出さないよう完璧に操作できるんだ。
私が出来損ないなだけ。
みんなができることが私にはできない。私なんていない方が正しいんじゃないかと思えてきた。
そんなふうに思うのは初めてじゃなかった。
自分なんかいない方がいいんじゃないか。
物心ついた時から、ずっと感じてきた。
その思いと一緒に私は育ってきたんだ。
ああ……。『私にはあなたが必要なんだよ』と言ってくれる人が迎えに来てくれたら……。
須美ちゃんと一緒にいる時は、そう言われているような感覚があった。だから心地よかった。
でも友達程度の関係じゃ、完全に満足はできなかった。
こんなんじゃ足りない——もっともっと存在をまるごと受け入れてくれるような関係じゃなきゃ安心できない。
私だけの親がほしい。私をこの世の誰よりも特別にしてくれる人。
そんな人がそばにいてくれれば、私は出来損ないからちゃんとした人に進化できる。
みんなと一緒になれて、いちいち傷つくこともなくなる。
誰かが私をこの環境から連れ出してくれることを強く祈った。
神様もさすがに私が可哀想になったのかもしれない。
私の願いは、ようやく叶えられることになる。




