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6. 理想の夫婦

 やっと気の済むまで宝石を(あらた)めたらしい旦那様は、ようやく降参のため息を吐いた。


「妻はこの件には関係ないらしい。君たちには無駄足を踏ませてしまったな。申し訳ない」

「とんでもないことでございます。本来、まっとうに暮らしている方々は私共などと縁がない方が良いのです」


 旦那様からは見えない角度で、警吏(けいり)は私に片目を瞑って見せた。男性の悋気というのは度し難いですな、とでも言っているようだった。私は叩き壊された夢の欠片、ガラスの破片のように尖ったそれらを全身に浴びた思いで、ぼんやりと笑うことしかできなかったけれど。


「その、詐欺師とやらはどうなるのだ? 捕らえたということだが――」

「もちろん相応の罰を与えることになります」


 旦那様も、警吏も、もしかしたらまだ私を疑って演技をしているのかもしれなかった。二人で会話しているようで、その実ちらちらと私の方を気にしているのだから。


「南方に送りますよ。といっても故郷に返してやる訳ではありません。炭鉱での役務を申し渡すのです。勤め上げれば放免ですが、過酷なところですからな、どれだけ持つか――」


 残酷なことを笑顔で言いながら、警吏は私の顔を舐めるように見た。怒りか、悲しみか、何かしらが私の表に現れるのを期待しているのだろうか。無駄だというのに。


「お気の毒ですわね」


 私は微笑みの仮面を作り上げた。旦那様の前ではよくしていることだから、とても出来の良いもののはずだ。

 仮面が隠したのはあの詐欺師とかいう男、ついさっきまであんなに焦がれた男への思慕ではない。裏切られたことへの憤りでも、自分の愚かさ加減への嘲りでもない。ただの空っぽだ。


 あり得ないことでも、幻に過ぎなくても、私はほのかな夢を抱くことで生きてきたのだと思う。私は物語のお姫様で、いつか王子様に巡り合って、愛した分だけ報われて、幸せになって。

 旦那様と結婚した時にその夢には大きなヒビが入ってしまった。それでも私は夢を見続けて、砕け散らないように必死に抑えてきた。今、限界が来たということだ。もう私には何も残っていないのだと思う。


「奥様は本当にお優しい」


 仮面を貫いて見通すことはできなかったのだろう、警吏はつまらなそうに肩を竦めた。




「本当に、すまなかった――」


 警吏が退出して二人きりになると、旦那様は私を強く抱き締めた。空っぽなものを抱き締めることができるというのは不思議なことだったけれど。とにかく、私の見た目も肉体も変わりはないから、旦那様は何も気付いていないようだった。まあ、いつものことだ。


「だって、最近急に綺麗になるから。侍女が楽しそうに踊っているのを見たというし。髪飾りもつけてくれないし。そこへきてあの詐欺師の噂だ、君も誘惑されたものと思ってしまったんだ

 予定は最初から嘘を伝えていたんだ、早く戻ったらもしかしたら、その、()()を押さえられるかもしれないと――」


 旦那様の胸に顔を押し付けさせられて、私はひっそりと笑った。旦那様は私を愛しているつもりなのかもしれないが、私のことを何も分かっていない。

 確かにあの男に惹かれたと思ってはいたけれど、それはあの男が私を助け出してくれる王子様か騎士様だと信じてしまったからだ。私は私が作り上げた幻を愛したつもりになっていただけ。誘惑に屈したとかいうのとは、違うと思う。まして肉体を差し出すなんて――ありえなかった。だって、物語にはそんなところまで書いていない。


「でも、君は貞淑な妻だった。何が理想の夫婦だ、疑ったりした私が愚かだった」


 愚かというなら私もだ。私と旦那様とどちらがより愚かなのだろうか、と思う。


 私はあの男の見た目に惑わされてしまったけれど、旦那様は目に入ったものさえ見えていなかった。あの鈴蘭の刺繍は、旦那様も見たことがあるものなのに。貰い物の宝石を差し出すよりも、長い時間と手間を掛けて、心を込めた刺繍を渡す方が罪深いと思っても良さそうなものなのに。気付いていれば、期待通りに私を責めて(なじ)ることができたのに。


 でもこの人は気付かなかった。どうしてだろう。嫉妬はしているようなのに、私のことは何一つ分かろうと、知ろうとしていないみたい。


 ああ、そうか。


 見咎められないように旦那様の胸に顔を埋めて、私は笑った。

 この人も私と同じなのだ。夢や幻を追っているのだ。この人の夢の中ではこの人は理想の妻に恵まれた幸せな男なのだ。妻が実際には何を考えているかなんてどうでも良い。夢を見続けられるだけの形が保たれればそれで良い。だから、私の不貞を疑ってあれほど見苦しく狼狽えたのだ。そして、とりあえず疑いが晴れた以上はこれ以上考えてはいけないのだ。


 私だって夢のような恋物語に憧れるばかりで、今思えばあの男と異国で暮らすことなど深く考えてもみなかった。現実から目を背けてばかりの私とこの人は、お互いにそっくりだった。理想の夫婦だなんて思うことはできないけれど、似合いの夫婦ではあるのかもしれない。


「ライサ? どうしたんだ、泣いているのか?」


 肩を震わせて嗤う私を、旦那様はまた自分の都合良いように見た。まあ、確かに笑いすぎで目に涙が滲んでいたのも本当だったけれど。


「いいえ、大丈夫ですわ、旦那様。分かっていただいたから大丈夫」


 目尻をぬぐいつつ顔を上げて微笑みかけると、旦那様はほっとしたようにへらりと笑った。

 夫の短慮を許してくれる寛容な妻。この人の夢はまだ続いているのだ。きっと、これからもずっと。私は夢を見るのを止めるから、この人が不安に駆られるようなことはもう二度と起こらない。


「私こそ、ご心配をかけるような真似をして申し訳ありませんでした」


 微笑みの仮面がどんどん確かに分厚いものになっていく。この人には一生かかっても見破ることなどできないだろう。幸せを疑うことがないであろうこの人が、ひどく羨ましく妬ましかった。


「あのリラの花の髪飾りをいつ身に付けようかと思うとはしゃいでしまいましたの」


 そう言ってあげると、旦那様は驚いたように目を瞠り、次の瞬間には私を強く抱き締めた。


 私はただ息苦しくて鬱陶しいと思った。




 髪を優雅な形に結い上げてリラの花の髪飾りで仕上げた私は、お友だちに感嘆の声で迎えられた。


「まあ、今日は一段とお綺麗ね、ライサ」

「ありがとう」

「髪飾りがとてもよく似合っているわ」

「旦那様がくださったの」

「さすが理想のご夫婦ね。羨ましいわ」

「そんなことないのよ」

「あら、ご謙遜を」


 実のない言葉を交わす、それぞれに美しく着飾った方々。皆さまの耳元や首周りを飾る宝石の幾つかは、あの時警吏が押収した証拠品の中にあったものだ。


 詐欺の一件が明るみになって、お友だちの何人かと会えなくなった。病気でご実家に帰ったという噂の方もいれば、はっきり離縁されたと伝えられた方もいた。宝石を差し出したにも関わらずまだお会いできる方々のおうちで、どのようなやり取りがあったのか私は知らない。ただ、形を守ることはどの夫婦にとっても大事なことなのだろうと思う。


 幸せそうだった方たちが、どうして詐欺師に惑わされてしまったのかも分からない。物語のような恋や出会いを夢見ているのは、私が少しばかり綺麗だからか特別愚かだからかと思っていたけれど、皆さまも同じことを思っていたのかもしれない。それなら、私は徹頭徹尾ありきたりで平凡な女だったということだ。


「おめでたですって? ねえ、何か刺繍のものを贈らせて」

「ありがとう、ライサ」

「あなたのところは長かったものね。喜びも一入(ひとしお)でしょう」

「まあね、何よりお義母様が安心されたようで」

「あら、旦那様は?」

「どうかしら。まだ実感がないみたいで」

「お腹が大きくなれば変わるわよ。何かあったら相談して」

「ええ、ありがとう」


 以前ならくだらないと思っていた会話に、私はにこやかに加わる。いえ、今までも表面はにこやかにしていたし、今でもくだらないと思うのは変わらないのだけど。

 子供を持つことも前ほど厭わしい想像ではなくなった。私の人生なんてしょせんそんなものだから。ただ、娘が生まれた時は、私よりはもう少しだけ賢く育てなければならないだろう。


 穏やかな微笑みを浮かべて歓談する皆様を見渡す。


 皆さまも私と同じように微笑みの仮面をつけて虚しさを抱えているのかしら、と思うと何か連帯感のようなものさえ感じて面白い。もしかしたら、皆さまもそれを知っていて、だからいつまでも同じようなことを話し続けられるのかもしれない。

 口に出して確かめることはできないけれど、だからこそそうと信じ続けても良いだろう。この秘密の同盟――のような思い込み――は、恋物語に代わって私が縋る幻なのかもしれなかった。




 そこへ、横から咳払いが聞こえた。


「ご婦人の話の邪魔をして申し訳ない。――妻を、返していただいても?」


 はにかむような表情で手を差し伸べていたのは、旦那様だった。


 気がつけばダンスの曲が始まっている。そうだった、私はこの髪飾りをつけた時のことを考えたらはしゃいでしまったと言ったのだった。それで、こっそりとステップを踏んだりしてしまったと。この人は、すっかり間に受けて私を誘うつもりになったようだった。

 私には間が抜けたとしか思えない申し込みも、お友だちには微笑ましく映ったらしい。あるいは、皆さまそのように振舞ってくださった。――私にはもう、皆さまの考えていることが見た目通りとは思えない。


「ええ、もちろん」

「ライサ、行ってらっしゃいな」


 お友だちに送り出されて、私たちは広間の中央近くに進んだ。


 踊り始める。まずは右足を下げて。ああ、足がぶつかってしまった。それに旦那様の腕が固くて動きづらい。


 旦那様のリードはあの詐欺師に比べるとやはりどこかぎこちない。あの男はたくさんのご婦人を騙しただけのことはあったのね、と私は他人ごとのように思った。私も騙された中の一人だったのに。


 それでも幾つかのステップをこなすうちに、何とかダンスも様になってくる。口を開く余裕が出来たらしい旦那様が、私にささやいた。


「愛しているよ、ライサ」


 私は微笑みの仮面をまとって嘘を吐く。


「私もです、旦那様」


 手を取り合って踊る私たちは、理想の夫婦に見えるはずだった。

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