#015『硝子の壁』
三年前のある瞬間から、一秒たりとも進まなくなった時間。
脳裏にこびりついて離れない乾いた砂の記憶と、日本のまとわりつくような湿気の間で、男は過去という名の分厚いガラスの壁に阻まれ、立ち尽くしていました。
親友の形見である、動かない懐中時計をポケットに忍ばせ、彼が向かった先とは――。
息が詰まるような緊迫感のなかに流れる空気感をぜひお楽しみください。
『硝子の壁』
1
アスファルトが昼間に溜め込んだ熱は、まとわりつくような湿気と混ざり合い、足元から這い上がってきていた。
頭上では、コンビニエンスストアの軒先に設置された白い蛍光灯が、ジージーと焦げつくようなノイズを撒き散らしている。暗闇に慣れた眼球の奥を、その光が容赦なく刺した。
七月下旬、深夜二時。
島崎海斗は、店の入り口から少し離れた暗がりに立ち、手の中の缶コーヒーを意味もなく弄んでいた。
結露した水滴が指の股を伝い、手首へと滑り落ちていく。一口だけ含んだ安っぽいブラックコーヒーは、舌の根に酸化した酸味と、ザラついた苦味だけを残した。胃の奥に淀んだ疲労感は晴れず、むしろ内臓が鉛のように重くなっていく。
視界の端で白っぽい影が踊った。
コツンと微かに鈍い音が響く。
虫除けの青白い灯りに誘われた一匹の蛾が、店舗の巨大なガラス窓に激突していた。
くすんだ灰色の羽。
蛾はその向こう側にある圧倒的な光の海へ辿り着こうと、何度も何度も不格好な羽ばたきを繰り返し、見えない壁に身を打ち付けている。
コツン。
パタパタ。
コツン、コツン。
ガラスの表面には、激突のたびに剥がれ落ちた白い鱗粉が、病的な斑点のようにこびりついていく。
海斗は無意識に右足を一歩前へ踏み出していた。手を伸ばし、あそこから引き剥がさなければ……と。
だが、空中に浮かせた右手は、不自然な形で硬直して動かなくなった。
指先が微かに震えている。
そして、限界は唐突に訪れた。
最後に一度、最も鈍い音を立てて激突した直後だった。
蛾は羽ばたく力を完全に失い、虚空を掴むように六本の脚を縮らせながら、暗いアスファルトの上へと落ちた。
――降下速度、およそコンマ数秒。
露出の足りない街灯下で、命が力尽きて落ちていく最期の軌跡を、海斗の動体視力は正確に追っていた。かつて戦場で、火線の閃光や飛び散る肉片をファインダーに捉えていたときと全く同じ、冷徹で機械的な眼球の動き。
海斗の右手の人差し指が、いまはもう存在しないカメラのシャッターボタンを半押しするように微かに動いた。
途端に胃液が逆流するような強烈な自己嫌悪が、喉元までせり上がってくる。
「……うっ」
海斗は吐き気を飲み込み、右手でジーンズのポケットを探った。布地の奥底で、生温かい太ももの体温とは明らかに違う、ひんやりとした重たい金属の塊を鷲掴みにする。
銀色に鈍く光る旧式の懐中時計。
掌の中で指の腹を滑らせ、上部についたリューズをなぞる。だが、金属のケース越しに伝わってくるはずの、チクタクという心臓の鼓動のような微振動は一切ない。文字盤を覆うガラスには、中央から斜めに向かって一本の鋭い亀裂が走り、二つの針は「午後二時十四分」という数字の配列のまま、永遠の眠りについている。
『あーあ、また砂噛んだ。帰ったら絶対、キンキンに冷えた生ビール飲んでやる』
不意に、脳の奥底にこびりついた幻聴が蘇った。
まぶたを閉じると、纏わりつくような日本の湿気は一瞬にして消え失せ、暴力的なまでの熱波と乾燥が海斗の全身を貫く。
中東の乾ききった空。
喉の粘膜をヤスリで削り取るような、細かい砂ぼこり。
そこに混じる、酸化した血の、あの鉄のような匂い。
三年前のあの日。
同僚のカメラマンである阿久津悠介は、砂まみれのジープの助手席で泥臭い笑みを浮かべていた。日焼けしてひび割れた唇を歪めながら。
『おまえ、なんでそんなポンコツ使ってんのって顔してるだろ。デジタルなんて、こんな砂埃じゃいつ機嫌を損ねるか分かんねえ。その点、こいつは馬鹿みたいに素直だ。ネジを巻けば動く。腹が減ったら泣く赤ん坊と同じさ』
土埃にまみれた指先が、ジリジリとリューズを巻く。
『おれたちがここでシャッター切るのも、似たようなもんだろ。世界を変えようなんて大それたことは思っちゃいない。ただ、誰かが泣いて、誰かが必死に生きてる。その泥臭い事実を、光と一緒に閉じ込める。……カメラマンの偉そうな理由なんて、後付けでいいんだよ』
その言葉の直後だった。
午後二時十四分。
ジープのすぐ右側、わずか数メートルの距離にあった赤茶けた地面が、突如として内側から膨れ上がり、吹き飛んだ。
爆音というよりも、それは「物理的な暴力の塊」だった。
鼓膜が破裂し、世界からすべての音が消滅した。凄まじい衝撃波が肺から空気を強制的に搾り出し、海斗の身体は宙を舞った。
スローモーションのように流れる視界の中で、無数の鉄片と砂利がスコールのように降り注ぐ。
口の中に広がったのは、ジャリジャリとした砂の感触と、ひどく生ぬるい、濃い鉄の味だった。
這いつくばりながら横を見ると、さっきまで笑っていたはずの悠介の姿は、そこになかった。ただ、ひしゃげた鉄くずと赤黒く染まった砂漠が広がっているだけだった。
後日、海斗は残骸から少し離れた砂の中で、キラリと光るものを見つけた。それがこの懐中時計だった。
帰国後、悠介の母親は涙一つこぼさずに、それを海斗の手に押し付けた。
『海斗くんが持っていてちょうだい。あなたは、あの子が一番信頼していた、ただ一人の相棒なんでしょう』
託されたその重みは呪いとなって、海斗の時間を午後二時十四分から一秒たりとも進ませなかった。日本に逃げ帰り、防湿庫の中で眠る一眼レフカメラには、もう何層もの埃が積もっている。
見えない「過去」という名の分厚いガラスの壁。
そこに向かって何度も突進し、光に触れることもできず、ただ打ちのめされて落ちていく。
海斗は薄く目を開け、足元の暗がりに転がる蛾の死骸を見下ろした。すでにアリが数匹、どこからともなく這い出し、その白い羽に群がり始めている。
「……お客さん、どうかしましたか」
背後で、ウィーンという自動ドアの開く無機質な音とともに、人の声がした。
振り返ると、プラスチックのゴミ袋を両手に提げた若いアルバイトの店員が、怪訝そうな、それでいて少し怯えたような目で海斗を見つめていた。
海斗は何かを言おうとして、口を半開きにしたまま、数秒間、声を出せなかった。喉の奥に、まだあの砂と鉄の味が詰まっているような気がした。
「あ、ああ……すまない。なんでもないよ」
海斗は掠れた声で短く応えると、手の中の懐中時計を逃げるようにポケットの奥底へねじ込んだ。
飲みかけの缶コーヒーを近くのゴミ箱に放り投げ、暗い夜道へと歩き出す。
生ぬるい風が頬を撫でる。
背後で煌々と輝くコンビニの白い光から逃れるように、深い夜の底へと歩みを進めた。
2
深夜の住宅街は、静まり返っていた。
街灯の少ない裏道へと足を踏み入れた海斗を包み込んだのは、薄暗い闇と、ただの静寂だった。
先ほどまで降っていたらしい通り雨が、熱を帯びたアスファルトを黒く染め上げている。歩を進めるたびに、濡れたスニーカーの底がグチャと鈍い水音を立てる。その単調なリズムだけが、世界で唯一の音のように思えた。
大きく息を吸い込むと、湿気を含んだ重い空気が流れ込んでくる。雨上がりのアスファルトの匂い。手入れのされていない庭木の青臭い葉の匂い。
水分を持たないあの乾ききった大地では、流れた血も、吹き飛んだ肉片も、瞬時に乾燥して砂の一部と同化していった。死はひたすらに乾いており、ただの無機物へと還元されていった。
だが、この日本の夏は違う。
水と熱が、あらゆるものの死を強烈に匂い立たせ、同時に新たな命を否応なく芽吹かせる。
海斗は、ジーンズの右ポケットからあの懐中時計を取り出した。銀色のケースを握る手に、じわじわと力がこもる。
もし、この時計をレールの真ん中に投げ捨てたら。
粉々に砕け散れば、この停滞した時間も、過去への執着も、一緒に壊れてくれるのだろうか。
海斗は時計を握った右手をゆっくりと振り上げた。
投げろ。
手放せ。
過去から逃げろ。
頭の中で誰かが叫んでいる。しかし、振り上げた腕は中途半端な高さでピタリと止まり、指先はどうしても金属のケースを手放すことができなかった。
悠介の死を、ただの「無」に帰してしまうことが恐ろしかった。
その時、空気を引き裂くような甲高い音が鼓膜を鋭く叩いた。
カン、カン、カン、カン、カン。
単調で、無機質な踏切の警報音。
前方数十メートルの闇の中で、赤と黒の警戒色が交互に点滅し、周囲の住宅の壁を朱色に染め上げている。
黄色と黒の縞模様に塗られた遮断桿が、ゆっくりと首を垂れるように降りてきた。海斗は上げた腕を力なく下ろし、その踏切の直前まで歩み寄り、ぼんやりと立ち尽くした。
深夜の単線。誰もいない踏切。
赤色灯の明滅が、海斗の青白い顔を等間隔で照らし出す。彼の視線が、目の前まで降りてきた遮断桿の一点に釘付けになった。
プラスチックの棒の下面に、先ほどの通り雨が残していった水滴が、いくつもぶら下がっている。
それは点滅する赤い光を乱反射し、まるで小さな硝子の玉のようにプルプルと震えていた。水滴たちは、いまにも重力に負けて落ちそうでありながら、表面張力という見えない力で、ギリギリのところで遮断桿にしがみついている。
肥大化し、限界まで膨れ上がったその水滴は、落ちることも、元の形に戻ることもできず、ただそこに留まり続けていた。
足の裏から微かな振動が伝わってきた。
振動は次第に明確な地鳴りへと変わり、アスファルトを震わせ、海斗の膝を揺らし始めた。右手のカーブの奥から、闇を切り裂くような強烈な白いヘッドライトが姿を現す。
ゴォォォォォォォォォォッ!!!
地響きと共に、巨大な貨物列車が猛烈なスピードで目の前を通過していった。
凄まじい風圧が、暴力的な塊となって海斗の全身を打ち据える。鉄と鉄が激しく擦れ合う金切り声。レールが軋む轟音。
瞬間、強烈な鉄の錆びた匂いが鼻腔を突き抜けた。
その匂いは、脳の海馬に焼き付いた「あの日の血の匂い」の記憶の蓋を、いともたやすく吹き飛ばした。
列車の轟音が、ジープの横で炸裂した爆発音と完全に重なり合う。突風は衝撃波へと変わり、海斗の呼吸を奪う。目を閉じれば、そこはもう日本の踏切ではない。吹き飛ぶ砂利。宙を舞う鉄片。赤黒く染まった砂漠。
喉が痙攣し、ヒュー、ヒューと浅い呼吸しかできなくなる。足から力が抜け、濡れたアスファルトに膝をつきそうになった。
――違う。
海斗は血が滲むほど唇を噛み締め、無理やりまぶたをこじ開けた。
逃げるな。見ろ。
目の前を壁のようなコンテナが猛スピードで交互に駆け抜けていく。
小豆色に塗られた巨大な鉄の箱。そこに印字された白い英数字。
それは死を運ぶミサイルでも、人を殺すための装甲車でもなかった。あの中には、誰かが明日スーパーに並べる野菜が入っているかもしれない。誰かの生活を支える日用品が、大量に詰め込まれているのだ。
自分がこうして踏切の前でうずくまり、過去の幻影に怯えているこの一瞬にも、重たい鉄の塊は、見知らぬ誰かの「明日」を運ぶために夜の闇を切り裂いて走り続けている。
圧倒的な質量を持った「現在」が、海斗の目の前を通り過ぎていく。
やがて、轟音が少しずつ遠ざかり、貨物列車の最後尾の赤いテールランプが闇の奥へと吸い込まれていった。
暴力的な風が止む。
カン、カンという警報音が鳴り止み、黄色と黒の遮断桿がゆっくりと天に向かって跳ね上がっていく。
その瞬間だった。
遮断桿が持ち上がる振動に耐えきれず、下面にしがみついていたあの雨粒たちが、限界を迎えた。
表面張力が破れ、銀色の水滴が一斉に、ポロポロとアスファルトに向かってこぼれ落ちた。
パシャッ。
微かな音を立てて落下した水滴は、黒い地面に吸い込まれ、一瞬にして小さな染みを作り、そして完全に消えた。
ただそれだけの、ありふれた物理現象。
しかし、その光景から海斗は目を逸らすことができなかった。
落ちた水滴はやがて乾き、雲となり、また雨となってどこかに降り注ぐ。貨物列車は走り去り、誰かの明日を運んでいく。
世界は一秒たりとも立ち止まってはいなかった。
砂漠の真ん中で悠介の命が消え、懐中時計の針が午後二時十四分で永遠の眠りについたあの日から、海斗だけがただ一人そこに立ち尽くしていたのだ。
「……置いていかれたのは、俺の方だったんだな」
海斗は誰もいない踏切の向こう側に向かって、ぽつりと呟いた。
ポケットからゆっくりと右手を引き出した。
掌の上には、ひび割れたガラス越しに午後二時十四分を指したままの、銀色の懐中時計。それを見るたびに胃の奥が冷たくなるような絶望を感じていた。
だが、いまは違った。冷たかったはずの金属のケースは、海斗がずっと握りしめていたせいで彼の体温を吸い込み、微かな熱を帯びている。
時計が止まったのは、悠介がそこで生きて、そして死んだという証だ。
しかし、俺の心臓はまだ、こうして脈を打っている。
海斗は懐中時計をそっと両手で包み込んだ。
硬く目を閉じ、一度だけ、深く、長く息を吐き出す。肺の奥底に溜まっていた、砂漠の熱風と硝煙の匂いが、その呼気と共に体外へと押し出されていくような気がした。
「悠介」
親友の名前をはっきりとした声で呼んだ。
「明日……時計屋に行ってみるよ。直るかどうかは分からない。中の歯車が完全に砕けてるかもしれない。……でも、俺の時間はもう一度動かさなきゃいけないんだ」
ポケットの奥深く、心臓に一番近い場所に懐中時計をしまい込むと、海斗は顔を上げた。
上がった遮断機の下をくぐり、踏切の向こう側へと一歩を踏み出す。
スニーカーの底が濡れたアスファルトを捉える感触が、不思議と心地よかった。
3
翌日の午後。
真夏の太陽が、街全体を白く焼き尽くそうとしていた。
アスファルトからは蜃気楼がゆらゆらと立ち昇っている。セミの鳴き声が、けたたましく耳の奥にこびりついていた。
海斗は駅前の古いアーケード街の端にある小さな時計屋の前に立っていた。
右肩には、分厚い帆布でできた黒いカメラバッグが食い込んでいる。三年ぶりに防湿庫から引っ張り出したそれは、カビと古い革の匂いがした。
くすんだガラス戸を押し開けると、真鍮のドアベルがカランと乾いた音を立てた。
外の熱気から一転し、店内はひんやりと薄暗く、琥珀色の空気に満ちていた。
大小数百もの時計が、それぞれのテンポで「チクタク、チクタク」と秒を刻んでいる。それは無数の虫たちが暗がりで蠢くような、不思議な不協和音だった。
奥の作業机で、背を丸めた白髪の老人がルーペを右目に挟み、ピンセットを動かしていた。
「……いらっしゃい」
老人は顔を上げず、しゃがれた声だけを投げた。店内には、古い木材の匂いと、微かに甘い、機械油の匂いが漂っている。かつて海斗の知っていた「血と錆の鉄の匂い」とは違う、なにかを生かすための、静かな金属の匂い。
海斗はカウンターに歩み寄り、ポケットからあの懐中時計を取り出して、傷だらけのガラスケースの上にそっと置いた。
「動かなくなったんです。……直るでしょうか」
老人は手を止め、カウンター越しに懐中時計を手に取った。親指の腹でリューズを撫で、文字盤の亀裂をじっと見つめる。
ややあって、老人は裏蓋の隙間に専用の薄いヘラを差し込んだ。
パキッと鋭い金属音が鳴り、時計の心臓部が開かれる。
老人は息を吹きかけるためのゴム製ブロアーを手に取り、複雑に絡み合った極小の歯車に向けて、シュッ、シュッと風を送った。
カウンターに敷かれた白い紙の上に、パラパラと微小な粉末がこぼれ落ちる。
それは、赤茶色に乾ききった、あの砂漠の砂だった。
悠介の血と吹き飛んだ大地の記憶が、三年の時を経て、この日本の片隅にある時計屋のカウンターに落ちたのだ。
海斗の口の中に、あの時と同じ、じわりとした生ぬるい鉄の味が広がった。
「……ひどい砂だ。微細な砂粒が、テンプとガンギ車にびっしりと噛んでる」
老人は紙の上の赤い砂をピンセットの先で突っつきながら、低く呟いた。
「ゼンマイは切れてない。ただ、この砂が呼吸を止めてたんだ。全部バラして洗浄して、油を差し直せば、動くかもしれん」
「お願いします」
「ガラスはどうする。ヒビが入ってる。これも新しいのに換えるか?」
老人の問いに、海斗はゆっくりと首を横に振った。
「いえ……ガラスは、そのままでいいです。その傷は、残しておきたいんです」
綺麗なガラスにすげ替えて、何事もなかったかのように蓋をしてはいけない。ひび割れた世界から、もう一度始めるのだ。
老人は何も聞かず、「そうか」とだけ言うと、再びルーペを目に嵌め、作業に取り掛かった。
「時間、かかるよ。そこ、座りな」
老人は顎で丸椅子を指し、それから作業机の脇にあった古い湯沸かしポットから、湯呑みに茶を注いで海斗の前に置いた。
「出がらしだがね」
それは、温かいほうじ茶だった。
海斗は両手で湯呑みを包み込んだ。じんわりとした熱が、強張っていた指先をほどいていく。ゆっくりと口に含む。
香ばしい茶の香りと、柔らかな温もりが、喉を伝ってゆっくりと胃の中に落ちていった。その瞬間、三年間ずっと喉の奥にへばりついていた、あの生ぬるい「鉄の味」が、静かに、完全に洗い流されていくのが分かった。
口の中に残ったのは、ただ、平穏で温かい日常の味だった。
海斗は丸椅子に腰掛け、老人の手元をじっと見つめていた。
手の甲には深いシワが幾重にも刻まれ、皮膚は乾いている。指の関節は太く歪み、爪の間や指紋の奥深くには、長年の作業で染み付いた黒い機械油がこびりついていた。
美しい手ではなかった。だが、その汚れた指先は、極小のピンセットを正確に操り、死んだ機械の部品を一つ一つ、丁寧に、確実に洗浄していく。
長い年月をかけて何かを「生かし続けてきた」人間の手。皮膚の下には青黒い静脈が隆起し、血が絶え間なく流れている。
一時間近い沈黙。機械油の匂い。
やがて老人は、洗浄し終えた歯車を再び組み上げ、極細の筆で油を差した。そして裏蓋を閉じ、太い指でリューズをつまむと、ジリ……ジリ……とゆっくり巻き上げ始めた。
海斗は息を止めた。店内の他の時計の音が、急に遠ざかったような気がした。
チキ……チキ……チキチキチキチキ。
最初は虫の息のように頼りなく、しかしやがて、はっきりとした規則正しい振動となって、懐中時計の奥底から音が響き始めた。
「……動いたな」
老人はルーペを外し、時計を海斗の前に滑らせた。
海斗は震える手でそれを受け取る。掌を通して伝わってくる、ジリジリとした確かな脈動。ひび割れたガラスの向こう側で、三年間「午後二時十四分」に釘付けになっていた長針が、微かに動き、十五分を指そうとしていた。
動いている。
悠介の時計が俺の手の中で、いまを刻んでいる。
「……ありがとうございます」
代金を支払い、時計を大切にジーンズのポケットに滑り込ませた。太ももに、小さな心臓が張り付いたような感触がある。
海斗は立ち上がり、ドアに向かおうとして、ふと足を止めた。
右肩に食い込む、分厚い帆布の重み。
海斗は無言のまま、バッグの真鍮製のファスナーに手をかけた。ジリッ、と鈍い音を立てて口を開く。中から取り出したのは、使い込まれて角の塗装が剥げた一眼レフカメラだった。
ずしりとした金属の質量。グリップの黒いゴムの感触。指の腹が、シャッターボタンの位置に吸い付く。
しかし、両手は微かに震えていた。レンズのキャップを外すだけで、呼吸が荒くなる。
海斗は奥歯を食いしばり、ポケットの中の小さな鼓動に意識を集中させた。
ゆっくりと右目をファインダーに近づける。
小さな四角い窓。三年ぶりに覗く世界は驚くほど狭く、そして暗かった。
彼がレンズを向けたのは、目の前のカウンターだった。
先ほどまで時計が置かれていた、傷だらけの古い木の机。赤い砂がわずかに残った白い紙。そして、作業を終えてピンセットを置いた老人の、油に染まったシワだらけの手。
左手でピントリングを回す。
ぼやけていた視界が、ゆっくりと輪郭を結んでいく。老人の手の甲に刻まれた無数のシワ、爪の先の黒い油汚れ、血管の隆起。その生々しい「生きた時間」の痕跡が、ファインダーの中で克明に浮かび上がった。
『その泥臭い事実を、光と一緒に閉じ込める』
息を吐ききり、止める。
震えていた指先から、力が抜ける。
カシャッ。
狭い店内に、重く、無骨なシャッター音が響き渡った。
ミラーが跳ね上がる物理的な振動が、両手から海斗の胸へと伝わり、止まっていた彼自身の心臓の歯車を強引に一つ前へと進めた。
決して美しい音ではなかった。だが、それは間違いなく、海斗が三年の暗闇を経て、再び世界と接続した最初の産声だった。
ファインダーから目を離し、海斗は小さく「ありがとうございました」と頭を下げた。
老人は何も言わず、ただシワだらけの目で短く頷き返した。
店の外に出ると、強烈な夏の太陽が海斗の全身を白く照らし出した。
相変わらず熱気は暴力的で、セミの声は耳障りだ。世界は理不尽に満ちており、過去の傷が消えることは永遠にない。
それでも海斗は、カメラのストラップを手に巻き付け、ポケットの中の小さな鼓動を感じながら、人混みの向こうへと一歩を踏み出した。
ひび割れたガラスの向こう側で、時間は確かにチクタクと動き始めていた。




