歌集・・1991年湾岸戦争の残した爪痕~より抜粋
歌集「1991年湾岸戦争の残した爪痕」より抜粋した短歌のうち、バスラに関する短歌は、94年国民文化祭にて、高木善胤先生の選で「秀逸」をいただいた作品を含んでいます。
・バスラへの道のり白く続きたり 黒き戦車の残骸散りて
・塹壕が埋められながらできた道 生き埋めにされたイラク兵眠る
・砂嵐舞い上がり はや兵は朽ちて 白き骨白き大地に埋めん
・人がいる こんな中でも生きている 瓦礫の中に遊ぶ子らよ
・子供らと 折り紙をする 歌 歌う つかの間の憩い つかの間の夢
・埋葬もせず打ち捨てられし屍は 病院の庭埋めつくしたり
・病院のジェネレーターが動かねば 届くワクチン また無駄になり
・50度を超える暑さにまた一人 弱きものより順に死にゆく
・顔にたかる蠅追う力も失いし 母は子の死が近きこと知る
・宙を見る瞳がうつろなり 抱きしめて 揺さぶりみても 子は泣かず
・イラクへの経済封鎖のしわ寄せは まず一番に この子らに来る
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91年に帰国したとき、いろいろな人たちが私の話を聞いてくれた。
それと同時に、自分と全くつながりのない人たちに知ってもらえる方法を模索した。
当時はまだ、今のようにインターネットもない時代だった。
そもそも、コンピュータというものが今のように簡単に誰でも扱えるような代物ではなかった。
情報を発信することはおろか、情報を得ることが難しく、いかにその情報が正しいのかを見極めるすべがなかったため、この91年の湾岸戦争は、情報操作という形での戦争でもあった。
どちらが世論をうまく誘導することができたのかという点で、イラクは最初から不利な戦いを挑んでいたことになる。
自分のことを知らない人たちが、どのくらい自分の話を信じてくれるのだろう‥
政府の見解と全く違うことを話すのは、かなり難しい時代だった。
今のように、ツイートやSNSといった仕組みを使って、だれでも手軽に発信できるような時代がこんなに早くやってくるなんて・・・
(ただ、今の時代は今の時代で、別の意味で情報迷子になりそうな難しさを孕んではいる・・)
自分では、それまでにいろんな本を読んできたというベースはあったけれど、特にこれといってエッセイなんて書いたこともなかった・・だから本当の意味で「処女作」といえるものが、たまたまその審査をしてくれていた桐島洋子先生の目に留まったというのも、自分の運命だったんだと思う。
イラクに行くことになったのも自分の運命ならば、そこで見たものを、ひとりでも多くの人に伝えたいと切実に願ったのも、その方法の一つとして、文章として応募してみようと思い立ったことも運命だった。
今その受賞作を読み返すと、文章としては未熟な部分が多く、おそらく本当のことを伝えたいという思いを行間からくみ取っていただいたことで、先生が新たな扉を開いてくださったんだと思う。
その後は、いろんな場所でこのエッセイとともに、当時のことを報告する機会をいただくことができた。
新聞の地方版であるとか、銀行などが出している小冊子などでも、インタビューを受け、その後の中東での活動を紹介してくださった。
と、同時に、エッセイというスタイルだけでなく、詩や、短歌、俳句・・すべて独学というか、一から学んでいるような準備期間は全くなかったが、ありとあらゆるものに応募してみた。
その一つが、91年に書き溜めた短歌だった。
一気に何首も詠んだ日もあれば、頭の中に焼き付いている情景をどれだけ言葉を尽くしたところで、表現できないものもあった。
当時訪れた順番と、出来上がっていった短歌の順序は全くもって一致しない・・
何度推敲しても、描けない思い、紡げない言葉が多かったが、とりあえず100首ほどできたころ、角川短歌賞に未発表の50首を応募した。
もちろん、ダメだったが、そういった作業を繰り返すことで、自分の中にあった感覚も少しずつ整理することができて行った。
たぶん、自分自身の命を見つめなおすきっかけにもなってくれたんだと思う。
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アムリエシェルターのことを詠めるようになったのは、同じ91年でもかなり後になってからだった・・
・シェルターは 狙い撃ちされ 民衆の 魂留まれる 壁の中
・鉄板の めくり上がりて 空爆の凄まじさ知り 背筋凍れる
・シェルターの地下より眺む青空は 捻じれた鉄骨突き立てている
・ぱっくりと 空に向かって開く穴は 焼香の煙 吸い込んでゆく
・シェルターに響く遺族の泣き声の しみ込んでいき 脳裏を穿つ
・供養する我を見る目の優しさに われ 一粒の 涙落としぬ
・ただ一度手を合わせたからとて 許されぬ罪 我 日本人
・南無妙・・と読経の声が溶けてゆく 異国の空に バグダッドの土に




