第1話 拍手の意味
本作は、短編「婚約破棄を告げられた瞬間、会場中が拍手しました。私以外の全員、この日を待っていたそうです」の連載版です。
全100話、完結までの構成ができあがっています。毎日更新していきますので、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
鏡の中の私は、今夜も愛想のない顔をしていた。
「お嬢様、もう少しだけ口元をゆるめてみませんか」
「試したことはあるの。そうしたら殿下に『何を企んでいる』と言われたわ」
髪に真珠のピンを留めていたミナの手が、一瞬止まった。
「……そうでございましたね」
ミナは、私が十二のときから仕えてくれている侍女だ。三年前、第二王子レオンハルト殿下の婚約者になってから、私の周りからは潮が引くように人がいなくなった。それでもミナだけは、変わらずここにいる。
今夜は王宮の秋の夜会。ここ一月、殿下は男爵令嬢セシリア・ブランをどの集まりにも連れて歩いていて、私とは目も合わせない。婚約者として出る夜会は、きっと今夜が最後になる。
「ミナ。もし今夜、何かあっても──」
「お嬢様」
鏡越しに、ミナがまっすぐ私を見た。いつもの穏やかな目ではなかった。
「今夜は、何があっても、最後まで会場にいてくださいませ」
「……どうして?」
「どうしてもです」
最後のピンを留める指先が、ほんの少し震えていた。
*
大広間に足を踏み入れた瞬間、入り口近くの令嬢たちがぴたりと口をつぐんだ。
私が歩くと、道ができる。ある伯爵夫人は扇で顔を隠し、ある子爵は急に背を向けて給仕を呼んだ。三年間、何百回と見てきた光景だ。
──私は、嫌われている。
理由は、殿下が教えてくれた。
『君は人に好かれない性質なんだ。名前を出せば反発を受ける。だから君の仕事は、僕の名前で出そう。君のためでもあるんだぞ』
その通りだと思った。灰熱病のときに眠らず書いた隔離の計画書も、毎月の孤児院への支援も、北区の水路の図面も、広場で拍手を浴びたのは殿下だった。私は群衆のいちばん後ろで、その音を聞いていた。それでいいと思っていた。人が助かるなら。
手紙を書いても、返事は一通も来ない。たった一人の友人だったクララ・ベルモントでさえ、三年前から挨拶を返してくれなくなった。
壁際には、十六歳の弟ルークがいた。なぜか夜会に分厚い帳面を抱えてきていて、私と目が合うと、慌てて背中に隠した。
問いただす前に、楽団の音がふっと途切れた。
大広間の中央に、殿下が立っていた。腕には、桃色のドレスのセシリア嬢がしがみついている。
「リゼット・オルフェ。君との婚約は、今夜をもって破棄する」
声が天井まで響き、招待客たちが波が引くように離れていく。私は広間の真ん中に、一人で立たされた。
「……理由を、うかがってもよろしいでしょうか」
「分かりきっているだろう。君は茶会でセシリアを無視し、冷たい言葉を浴びせ、居場所を奪おうとした。愛想がなく、誰にも心を開かない。そんな冷たい女が、王子妃にふさわしいはずがない」
身に覚えはなかった。この三年、茶会で誰かとまともに話したことさえ、ほとんどないのだから。
けれど、否定の言葉は喉で消えた。嫌われていることだけは、本当だから。
それに、婚約者である間に王家の内情を漏らせば不敬罪になる。殿下にそう言われ続けてきた。計画書を誰が書いたのか。孤児院にパンを運んでいたのが誰なのか。口にすれば、罪になる。
だから私は、何も言わずに頭を下げた。
「承知いたしました」
「……それだけか。弁解もないのか」
「ございません」
「ならば、さっさと去れ。君の顔を見ていると、セシリアが怯える」
終わった、と思った。不思議と涙は出なかった。ずっと前から決まっていた幕が、やっと下りただけだ。
ミナ、ごめんなさい。心の中で謝って、私は背を向けた。
そのときだった。
パン、と乾いた音がした。
振り返ると、壁際でミナが手を叩いていた。まっすぐ私を見て、両手を高く上げて。
パン、パン。
次は、ルークだった。帳面を床に置いて、真っ赤な顔で手を叩いている。それから伯爵令嬢が。壮年の貴族が。給仕の青年が。扇で顔を隠していた伯爵夫人が、扇を閉じて。背を向けていた子爵が、こちらに向き直って。
一人、二人、十人、百人。
気づけば、大広間の全員が、私に向かって手を叩いていた。
──嘲笑だ。
冷たい女が、ようやく追い出される。ざまあみろ、と。三年分の「いい気味だ」が、一斉に降ってきたのだ。
ミナとルークは、きっと皆に合わせるしかなかったのだ。私の味方でいたら、二人まで嫌われてしまうから。
目を赤くしている人がいる。口元を押さえて肩を震わせている人もいる。笑いをこらえているのだ、と私は思った。そう思うしかなかった。
顔が熱い。唇を噛む。泣かない。泣いたら、本当に「かわいそうな女」になってしまう。
鳴りやまない拍手の中で、ふと、一人だけ手を叩いていない人に気づいた。
玉座に近い柱の陰。灰色の髪を撫でつけた壮年の男性。王妃殿下の兄君、グレゴール公爵だった。殿下の後ろ盾として、いつも宴の中心にいる人。
公爵は腕を組んだまま拍手の渦を眺め、私と目が合うと、薄く笑った。
背筋が冷えた。けれど、その意味を考える前に、私の視界に黒い騎士の長靴が入ってきた。
顔を上げると、王国騎士団長ディートリヒ・アークが、私の前で片膝をついていた。膝をついた拍子に、黒い鎧がかすかに鳴った。二十七歳で、叩き上げで団長になった人。笑ったところを誰も見たことがないと噂される人。私とは、一言も話したことがない。
「リゼット嬢。ずっと、この日を待っていました」
「……え?」
「あなたに、礼を言える日を」
「ディートリヒ! 無礼だぞ!」
殿下が叫ぶ。団長は立ち上がり、殿下を真っ直ぐに見た。
「殿下。婚約者である間、リゼット嬢が王家の内情を口にすれば不敬罪に問う。そう仰ったのは、あなたです。だから皆、待っていた。彼女が自由になる日を」
人垣から、一人の令嬢が進み出た。クララだった。
「リゼット、ごめんなさい。あなたを避けていたのは、わざとなの。殿下の取り巻きに見張られていて、あなたと親しくすれば、あなたの立場がもっと悪くなると思った。悪評を流していたのは殿下よ。みんな、本当は信じていなかった」
クララは少しだけ笑った。
「毎年、あなたの誕生日に届いていた、差出人のない白い花。あれは私」
声が出なかった。
あの花を、私は毎年、押し花にして日記に挟んでいた。三輪。誰かが覚えていてくれる。それだけを支えに越えてきた誕生日の夜が、三つあった。
「でたらめだ! 僕はこの国のために、孤児院にも通っているんだぞ!」
「いいえ」
杖をついた灰色の修道服の老婦人が、人垣を割って歩いてきた。王都の外れの孤児院の院長、マルタさんだった。
「殿下は一度もいらしておりません。毎月、夜遅くにパンと薬を抱えて来てくださったのは、ベールで顔を隠した娘さんでした。子どもたちは『ベールのお姉さん』と呼んでおりました。……リゼット様。ずっと、あなただと分かっておりました」
殿下の側近、ブルーノ様が、麻紐で束ねた紙の山を抱えて進み出た。
「殿下のご命令で、リゼット様宛ての手紙は、すべて私が処分することになっていました。ですが、どうしても捨てられませんでした」
束が、私の足元に置かれる。
「三百四十二通あります」
震える手で、一通を拾った。
『北区の水路のおかげで、今年は麦が流されませんでした。ありがとうございます』
もう一通。
『灰熱病で妻を亡くす覚悟をしていました。隔離のおかげで、生きて帰ってきました。あなたが考えてくださったと、人づてに聞きました』
一通、また一通。読むたびに指先が冷たくなって、それから熱くなった。
返事が来なかったのではない。届いていなかったのだ。
「姉上」
ルークが帳面を抱えて駆け寄ってきた。
「姉上の功績の証拠です。疫病対策の原案も、孤児院の支援台帳も、水路の図面も。全部、姉上の字で、署名入りです。夜中に姉上が丸めて捨てた書き損じも、全部拾って取ってあります。三年かけて集めました。姉上は冷たい人なんかじゃない。僕が一番知ってる」
いつの間にか、国王陛下がそこにいた。無言で帳面をめくり、ゆっくりと息子へ顔を向ける。
「レオンハルト。これは、どういうことだ」
「ち、父上、これは捏造で──」
「署名の筆跡は、先代の宰相閣下が検めてくださいました」
ブルーノ様の静かな声に、殿下の唇から色が消えた。
「お嬢様」
ミナが、真っ赤な目で隣に立っていた。
「三か月前、ブルーノ様が教えてくださったんです。殿下が近いうちに婚約を破棄するつもりだと。破棄されるまで、お嬢様に何を言っても、お嬢様が不敬に問われてしまう。でも、拍手なら。拍手なら、誰も咎められないでしょう? だから合図を決めました。私が最初に手を叩く。その音を聞いたら、全員が続くと」
──今夜は、何があっても、最後まで会場にいてくださいませ。
鏡の前でミナが言った言葉の意味が、やっと分かった。
あの音は、嘲笑なんかじゃなかった。
三年分の、「ありがとう」だった。
マルタさんが、色褪せた紙の束を差し出した。
「子どもたちの手紙です。殿下に宛てるよう言われていましたが、どの子も宛名だけは守りませんでした」
『りぜっとさま ぱんをありがとう。ぼくは おおきくなったら きしになります。とむ』
視界が滲んで、頬が濡れた。泣かないと決めていたのに。
私は嫌われてなどいなかった。誰も私に、「ありがとう」を言わせてもらえなかっただけだった。
「そんな……」
かすれた声がした。セシリア嬢が、殿下の腕から手を離して立っていた。
「私、殿下から、リゼット様は冷たくて怖い人だとずっと聞かされていて……一度も、確かめなかった。申し訳ありませんでした」
「セシリア! 君は僕を──」
「私が好きになったのは、優しい殿下でした。他人の功績で笑っている殿下では、ありません」
殿下は、膝から崩れ落ちた。
陛下の裁定は、その場で下された。レオンハルト殿下は廃嫡、北の修道領で三年の謹慎。衛兵に連れ出される殿下は、一度も私を見なかった。
陛下が私に向き直り、王冠を戴いたまま頭を下げた。
「王として、一人の親として詫びる。そなたの功績はすべての民に公表する。王国功労勲章を授けたい」
私は一度目を閉じて、首を横に振った。
「勲章は、結構でございます。私が欲しかったのは、『ありがとう』の一言でした。それは今夜、もういただきましたので」
一拍の沈黙のあと、大広間は、さっきよりも大きな拍手に包まれた。
その中でも、グレゴール公爵だけは手を叩かなかった。誰にも気づかれないように、静かに広間を出ていく背中が見えた。
*
夜風の吹くバルコニーで、私は手すりにもたれていた。
「寒くありませんか」
振り向くと、団長が立っていた。無言で外套を私の肩にかけてくれる。
「三年前の冬。私の部隊は、あなたの隔離計画のおかげで、一人も欠けませんでした。礼を言いに行こうとしましたが、殿下に止められた。婚約者に近づけば、あなたが不敬に問われると」
彼は胸の内ポケットから、角の擦り切れた紙を取り出した。
「あの冬、あなたの計画書を部隊に配るために、私が書き写したものです。三年、ずっと持っていました。あなたの字の癖まで、覚えてしまいました」
「……変な方ですね」
「自覚はあります」
真顔で言うので、思わず吹き出した。笑ったのは、いつぶりだろう。
「リゼット嬢。あなたは自分を冷たい人間だと思っているかもしれない。ですが私は、雪解けの水のような人だと思っています。静かで、澄んでいて、触れると温かい」
心臓が、大きく跳ねた。
「ひとつ、お願いがあります。これから、あなたを知る許しをいただけますか」
「……私、愛想がありませんよ」
「存じています」
団長は少しだけ目を伏せた。
「ですから、これから知りたいのです」
*
屋敷に戻ると、父の書斎の灯りは消えていた。今夜の夜会に、父は来なかった。
自室の机に、三百四十二通の束を置く。麻紐をほどくと、紙の山が柔らかく崩れた。
拙い字。震える字。商人らしい几帳面な字。
その中に一通だけ、ほかと違う封筒があった。厚い上質な紙。暗い赤の封蝋には、剣と盾。王国騎士団の紋だった。
宛名は「リゼット・オルフェ嬢」。硬く整った字。差出人の名は、どこにもない。
封蝋に、そっと指を当てる。
なぜだろう。これは、最後に読もうと思った。
私はその一通を、束のいちばん下に戻した。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
短編を読んでくださった方、お待たせしました。連載版、始まりました。
短編を書き終えたあと、「この三百四十二通、リゼットはどうするんだろう」とずっと気になっていて。気づいたら、返事を書きに行くお話を100話分考えていました(笑)
ちなみに団長は、たぶんこの先もずっと真顔です。
次回からは新しいお話。リゼットが、最初の一通に返事を書きに行きます。
返事 0/342通
ブクマや☆で応援してもらえると、作者が小躍りします。
感想も、ひとつひとつ大事に読んでいます!




