70.攻略法を探る(3)
何か、変だ。
止血はうまくいった。血も止まっているし、傷口も浅い。川ガニの大きなハサミにしては、むしろ軽傷だ。
なのに、目の前のシグナさんは、明らかに様子がおかしかった。
視線が合わない。肩が強張っている。さっきまで余裕そうだった人が、今はまるで逃げ場を探しているみたいだ。
「……シグナさん?」
名前を呼ぶと、ぴくりと肩が跳ねた。
「な、なんだ」
「……本当に大丈夫? まだ痛む?」
私は自然な流れのつもりで、もう一度傷口を確認しようと手を伸ばした。ほんの少し、指先が近づいただけなのに――。
「っ!」
シグナさんは手を引いて、はっきりと一歩、後ろへ下がった。
え。
距離が、空く。さっきまで普通に隣に立っていたのに、今は私の手が届かない。
「……?」
思わず、首を傾げる。
「どうしたの? まだ血、出てるかもだから、ちゃんと確認しないと」
「だ、大丈夫だ」
食い気味に遮られた。しかも、目を逸らしたまま。
「もう、問題ない。だから……その……」
言葉が続かない。
私はじっと観察する。呼吸が少し早い。頬が少しだけ赤いような気がする。手を後ろに回して、無意識に距離を保とうとしている。
……逃げ腰?
「もしかして……怒ってる?」
恐る恐る聞くと、今度は勢いよく首を横に振られた。
「違う! そうじゃない!」
即答だった。でも、そのあと視線を逸らして言葉に詰まる。
「じゃあ……何?」
純粋な疑問だった。攻略とか、数値とか、そういう計算以前に理由が分からない。
ちょっと止血をしただけだ。それで、こんな反応になるなんて、こっちが戸惑ってしまう。
でも、こんな反応なのに、パラメーターは凄く上がっていた。それなのに、今のこの反応は何?
私が一歩近づくと、シグナさんはまた半歩下がる。
……あ。これは、確信に近い。
「……触られるの、嫌?」
嫌な予感がして、声を落として聞く。
「違うっ!」
また即答。でも、否定の仕方が必死すぎる。
「じゃあ、なんで逃げるの?」
問い詰めるつもりはなかった。ただ、知りたかった。
すると、シグナさんは一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
「……近い」
「近い?」
「……リオは、近すぎる」
思わず、きょとんとする。
「そう?」
だって、今まで普通にこの距離だった。肩が触れることもあったし、手に触れたことだってある。
「今さら?」
ぽろっと出た言葉に、シグナさんの喉が鳴る。
「……今のは、違った」
「何が?」
また一歩、近づく。
すると、シグナさんは完全に壁際に追い込まれた。背中が木に当たる。
「リオ、待て」
「何を?」
私は無意識に首を傾げながら、手を伸ばす。今度は、触れるつもりだった。肩か、腕か、それだけ。
――だけど。
「っ、来るな」
低い声。でも、拒絶じゃない。逃げたいのに、逃げ切れない人の声だ。私は動きを止めた。
「……来ない方がいい?」
そう聞くと、シグナさんはしばらく黙り込んだあと、ぽつりと呟いた。
「……分からない」
分からない、か。なるほど。
私は少しだけ距離を保ったまま、じっと見つめる。未だに戸惑った顔をしていて、それを見ていると心がくすぐられるようで楽しくなる。
すると――。
ピロン
『シグナ・ヴォルグ 好感度 1アップ、愛情度 1アップ』
ただ、見ているだけなのにパラメーターが上がる。これは、もしは……ボーナスステージでは?
なんでかしらないけれど、止血でシグナさんがこちらを意識している。それで、今も過剰に反応してくれている。パラメーターに影響があるくらいに。
だったら、このまま傍にいてもパラメーターは上がっていくのでは? そう思うと、心が楽しくなる。
「じゃあさ」
私は、にこっと笑った。
「もう一度だけ、手を見せて? それで安心するから」
そう言うと、シグナさんの肩がビクリと跳ねた後に、戸惑いがちに頷いた。
……やっぱり、逃げ腰。でも、完全に拒まれてはいない。
この微妙な距離感。これは、思ってたより、ずっと面白いかもしれない。
さて、今度はどんな反応を見せてくれるかな?
◇
「あー、楽しかった!」
自分の部屋に帰ってきた私はベッドに倒れこんだ。天井を見上げたまま、私はごろりと寝返りを打つ。
さっきのことが、頭から離れない。目を閉じると、自然と情景が浮かんできた。
シグナさんの手に、そっと触れただけで、びくっと肩を震わせていたこと。
指を絡めるでもなく、ただ包むように握っただけなのに、全身に力が入って、まるで息を止めたみたいに固まっていたこと。
そのまま、少しだけ親指を動かして、手のひらをもむようにしたら――。
「……切ない吐息、出てたし」
あれは、絶対に気のせいじゃない。苦しいとか、痛いとか、そういうのじゃなくて。どこか耐えるような、逃げ場を失ったみたいな、変に甘い呼吸。
しかも、その間。ピロン。ピロン。小刻みに、確実に上がっていくパラメーター。
触る。反応する。数値が上がる。分かりやすいと言えば、分かりやすい。
「……完全にスイッチ入ってたよね」
きっかけは、間違いなく――血を舐めた、あの瞬間だ。
あれを境に、シグナさんの態度は明らかに変わった。距離感も、視線も、触れられた時の反応も。
正直、何がそんなに良かったのかは、よく分からない。止血としては合理的だったし、深い意味なんてなかった。
……なかった、はずなんだけど。
「でも、あれで一気に数値が跳ねたんだよね」
偶然? それとも、シグナさん的に何か決定的な意味があった?
ベッドの上で、私は自分の指先を見つめる。あの時、血に触れた唇。舌に残った、鉄の味。
「……これ、攻略法になるんじゃない?」
ふと、そんな考えが浮かぶ。触れるだけで上がる。近づくだけで反応する。なら、次は――。
「……また、舐めてみる?」
思った瞬間。胸の奥が、きゅっと縮んだ。
急に、恥ずかしさがこみ上げてくる。さっきまで冷静に数値だの効率だの考えていたのに、今さら。
「……なに考えてるの、私」
顔が熱い。一人なのに、誰かに見られているみたいな気分になる。
攻略のため。効率のため。そう言い聞かせても、頭の中に浮かぶのは、あの時のシグナさんの表情で。
困ったような、逃げ腰で。でも、完全には拒まなくて。触れられるたびに、ぎこちなく反応していた。
「……」
私はベッドの上で、小さく丸くなる。
効率的。有効。それしか、考えていなかったはずなのに。
「……次は、もうちょっと、心の準備してからにしよ」
そう呟いて、布団を引き寄せた。
攻略は続く。ただし――少しだけ、ドキドキも一緒に。




