第38話 稲葉山城、陥落
夜が明けた稲葉山城は、深い霧に包まれていた。城壁に立つ信長軍の兵士たちは、未だに信じられない思いで城門を見つめている。難攻不落とされた稲葉山城は、一夜にして陥落したのだ。
(これが……信長様の「理」なのか……)
兵士たちは、互いに顔を見合わせ、安堵と、そして困惑を隠せないでいた。彼らは、稲葉山城を攻め落とすために、多くの犠牲を覚悟していた。だが、信長は、武力ではなく、謀略によって、この難攻不落の城を落としたのだ。
「俺は、故郷に帰れるのか……」
「血を流すことなく、こんなに簡単に勝てていいのか……」
兵士たちは、安堵の涙を流しながら、この勝利が武士の「誉れ」に反するものではないか、と自問自答していた。
---
稲葉山城内は、地獄のような混乱に陥っていた。裏切り者によって開かれた城門から、信長軍がなだれ込み、斎藤軍の兵士たちは、恐怖に凍りつき、ただ逃げ惑うことしかできなかった。
斎藤義龍は、自室で、燃え盛る城下を眺めていた。彼の顔は、絶望と怒りに歪んでいた。
(なぜだ……父上、なぜ……!)
義龍の脳裏に、父・道三の姿が蘇る。道三は、信長を「うつけ者」と見せかけ、その才を見抜いていた。だが、義龍は、父を殺し、天下を取ろうとした。その結果が、この城の炎上だった。
「父上……貴様を討ち取った俺が、今度は信長に滅ぼされるのか……」
義龍は、そう呟くと、刀を手に取った。彼の瞳は、もはや怒りも、絶望もなかった。あるのは、ただ、敗者の矜持だけだった。
義龍は、燃え盛る城の中を、一人、信長を探して歩いていた。彼の耳には、斎藤軍の兵士たちの悲鳴や、裏切り者たちの高笑いが届いていた。
「義龍様……」
義龍の前に、一人の家臣が立ちはだかった。彼は、義龍への忠義を誓っていたが、信長の「理」に恐怖を覚えていた。
「退け……! 俺の最後の務めだ……!」
義龍は、そう叫ぶと、家臣を斬り捨てた。彼の刀は、血に濡れ、重く、彼の手にのしかかる。
義龍は、信長が待つ天守へと向かっていた。彼の足音は、燃え盛る城の中で、重く、しかし確固たる意志を宿して響いていた。
---
天守の最上階。信長は、ただ静かに、斎藤義龍を待っていた。窓の外からは、燃え盛る城下から立ち上る煙が、空を黒く染めていた。
「信長……!」
斎藤義龍は、息を切らし、信長の前へとやってきた。彼の甲冑は、血に濡れ、顔は煤で汚れていた。だが、その瞳は、未だに信長への怒りと、己の矜持を宿していた。
「信長……! 貴様のような卑怯な手で、天下が取れるものか!」
義龍は、そう叫んだが、信長はただ静かに、義龍を見つめていた。
「貴様の父は、わしを『うつけ者』と見抜いた。だが、貴様は、父の知恵を継がず、自らの感情に走った。貴様の敗北は、武功の差ではない。理と感情の差だ」
信長の言葉は、まるで氷のように冷たかった。義龍は、信長の言葉に、言葉を失った。
「信長……!」
義龍は、そう叫ぶと、刀を抜き放ち、信長へと斬りかかった。
信長は、その一撃を、静かに、しかし確固たる意志を宿して、かわした。信長の刀は、義龍の喉を、一突きにする。
義龍の体から、力が抜けていく。彼は、信長を見つめ、静かに、しかし確固たる意志を宿して呟いた。
「信長……いつか、お前も……」
義龍は、そう呟くと、信長の足元に倒れた。彼の瞳は、信長への呪詛を宿したまま、虚空を見つめていた。
---
その日の午後、信長は、稲葉山城の天守から、美濃の地を眺めていた。城下からは、信長軍の兵士たちの歓声が聞こえてくる。
「やったぞ! 俺たちは、稲葉山城を落としたのだ!」
「これで、美濃も、俺たちのものだ!」
兵士たちは、喜びの涙を流し、信長への忠誠を改めて誓っていた。
信長は、静かに、しかし確固たる意志を宿して、呟いた。
「天下布武……この理想を成すには、尾張はただの一点に過ぎぬ。されど、この一点を疎かにすれば、全てが崩れ去る」
信長は、静かに、しかし確固たる意志を宿して、呟いた。
「犬千代、藤吉郎、兵たちを整えよ」
信長の言葉に、犬千代と藤吉郎は、無言で頷いた。
(俺は…信長様の手足。言われるままに動く、ただの犬だ…)
犬千代の心臓は、トク、トク、と不吉な音を立てる。だが、その音は、信長が目指す「天下布武」という、冷徹な「理」への共感と、彼にしか見出せない「未来」への期待が、彼自身の内部で葛藤している証拠だった。
(若殿の理は、恐ろしい。だが、それが正しいと、俺が証明せねば…)
藤吉郎もまた、信長の言葉に、心の奥底で震えていた。信長の非情な裁きを目の当たりにし、次は自分が裁かれるかもしれないという恐怖と、それでも「若殿の理」が正しいと証明したいという、成り上がり者としての自負が、彼の心臓を激しく揺さぶっていた。
その鼓動は、犬千代も、藤吉郎も、信長も、そして広間の全ての者たちも、同じように感じている、不吉な、しかし確固たる決意の音だった。
夕暮れの空が、黒漆の鞘に、鈍色の光を映していた。風が、砂利をさらい、まるで戦場を先に掃除しているかのようだった。鴉の群れが、不吉な鳴き声を上げながら、古き武士の「誉れ」を食い散らかすように飛び去る。夕陽が赤々と雲を染め、それが桶狭間の血の残照に見えた。
その遠くから、太鼓の音が、ドォン、ドォン、と響いてくる。城下町の寺の鐘が、ゴォン、と重い音を立てる。そして、遠い空から、雷が、ゴロゴロと鳴り響く。すべての音が重なり合い、まるで尾張の地に住む全ての者の心臓が、一斉に高鳴っているかのようだった。
信長の横顔に、夕陽の鈍色の光が反射し、まるで鬼火のように揺らめいていた。彼は、人なのか、鬼なのか、それとも、ただただ、新しい世界を創造する「理」の化身なのか。誰も、その答えを知らなかった。




