一三 邪教
一三 邪教
福島県白河で起きた連続誘拐殺人事件が、新聞紙面を賑わせ始めたのは、七月半ばのことだった。
事件の概要は、福島県西白河郡白河町と同郡白坂村において、七月五日から一三日にかけて一〇歳から二七歳までの男女六名が相次いで失踪し、うち三名が惨殺死体となって発見されたというものである。
発見された遺体は、どれも損傷が激しく見るに堪えない状態だといい、中には内臓すべてを取り出された者や、四肢を切断され頭と胴体だけが打ち捨てられていた者もあるという。福島県警察は百人体制の捜査陣を敷き、遺留品、被害者の足取りや交友関係、共通点などの捜査と、行方不明者の発見に精力を傾けたが事態が好転する気配はなかった。
日を置かず四番目の死体が発見されたが、その惨状はこれまでのものとは比較にならぬもので凄惨を極めた。
発見されたのは、五件目の失踪者で一七歳の少女と推定された。遺体は体の大部分が失われ、かろうじて若い女性であることが判明したため該当するその少女とされただけで、万一発覚していない失踪事件があった場合、それを少女の遺体とする根拠はないに等しかった。
そして、もはや肉片と呼ぶ方が相応しいその遺体には、いくつかの特徴があった。
一つは、組織内の血液がすべて失われていたこと。
次に、肉片の断面は切断されものではなく、強いて表現すれば弾け飛んだように組織が千切れていたこと。
そして最後に、表皮に梵字を思わせる痣が残されていたことである。
痣は、かなり強い力で型押しされたような明確な輪郭を持ち、血の気のない白蝋のような皮膚に赤黒く浮き上がっていた。その陰影が示す梵字はダ。茶枳尼天を現す種字である。
続報を報じた新聞は、その文字の意味するところは不明と書いたが、この事件と残された梵字に強い関心を示した者がいた。
土御門晴栄である。
福島の事件は、京都では新聞の片隅に大雑把に紹介されただけだったが、晴栄は、すぐに東京の川上操六大佐に連絡を入れ、事件の詳細を訊ねた。川上は、その年の二月に近衛歩兵第一連隊長に昇進していた。
川上から事件の詳細が送られると、晴栄はすぐに東京に向かうと川上に告げ、併せて明石元二郎を同席させるよう依頼した。
川上、晴栄、元二郎が一堂に会したのは七月末日のことである。
元二郎が晴栄と会うのはほぼ一年振りだった。
京都での出会い以降、元二郎の周囲は俄かに騒がしくなっていた。那須で遭遇した怪人物を川端馬之助と踏んだ元二郎は、警視庁の藤田五郎の助けを借りて、近畿から東北までの広範囲にわたる警察情報網を掌握するとともに、提供された工作資金を元手に独自に民権運動家や新聞記者など独自の情報源を開拓し、川端の足跡を追っていた。元二郎自身はあくまでこの諜報作戦の伝令役を装ったため、乱れ飛ぶ情報を一手に集約し解析しているのが誰かを知るものはなかった。協力者の中に頭山満という男がいた。頭山は前年に玄洋社という政治結社を起こし、中江兆民や板垣退助、河野広中などと交流があり川端の動向を誰よりも詳細に元二郎に教えた一人だった。頭山の本拠地は福岡にあったが、早稲田にも家を持っており定期的に上京しては政府関係者や民権家と会談を持っていた。元二郎は頭山の上京を聞くと必ず挨拶に出向き、情報を仕入れた。頭山は自分と同郷だという一回りも年下の若造が作戦の立案者であろうとは思わず、元二郎を呼び止め、遣いの駄賃代わりにしばしば蕎麦を奢ってくれた。元二郎も、いつも喜んでかけ蕎麦を二杯平らげ、いつもありがとうございますと最敬礼していそいそと去って行った。
巧妙に自分の立場を粉飾した元二郎ではあったが、最初の襲撃で暗殺者を射殺して以来、何度か命の危険に晒されていた。
或る時は、町中で突然数名の暴漢に襲われ袋叩きにされたが、たまたま場所が橋のたもとだったので、欄干を飛び越えて川に飛び込み難を逃れた。またある時は、後ろから勢いよく走ってきた馬車に危うく跳ね飛ばされそうになったが、瓦斯灯の柱に取り付いてやり過ごした。
驚いたのは、士官学校の敷地内で頭上から煉瓦が落ちてきたことだった。このときは、仁田原と連れ立って校舎脇を歩いていたが、仁田原の詰まらない冗談に突っ込みを入れようと振り返った背中を何か重たいものが勢いよく掠め落ちた。足元に転がる煉瓦はどう見ても偶然に降ってきたとは思えない。見あげると、真上にある三階の廊下側の窓が一枚だけ開いており、そこから放られたことは疑いようがなかった。二人は急いで校舎に飛び込み一気に三階まで駆け上がったが、犯人がそこに待ち受けているはずもなかった。
「いったい誰がこげんわるそうするたい」
思わず呟いた仁田原に、元二郎は答える言葉を持たなかった。何より不気味なのは士官学校の内部にまで敵の息がかかっている可能性があるということだが、初動において派手に振舞い過ぎたことをいまさら後悔しても仕方がない。この失敗を教訓として以降の任務を無事に勤め上げることが肝要と観念して、元二郎は仁田原にこのことは他言無用と約束させた。
その日以降、元二郎は藤田に依頼し、警視庁の密偵を数名自分の護衛に付けてもらった。保身のためではなく、自ら囮となって相手を引き寄せ敵を捕らえるためであった。作戦が功を奏したのは初めの二三件だったが、彼を狙った暴漢が悉く尻尾を掴まれ、関係者が捕らえられると、ぴたりと元二郎に降りかかる災難が途絶えた。それでも時折元二郎は、自分を窺う視線があることを感じていた。
だが、幸いなことに敵もこの諜報戦の首謀者がまだ学生の身分の元二郎本人であることには思い至ってはいないようで、これは川上大佐の作戦の妙と言うべきであった。
川端馬之助については、三島県令が着任早々に着手した会津三方道路の開削に反対する住民を裏で煽動していることが判明しているが、この点は三島も織り込み済みで、むしろ火に油を注ぐように、召集した県会に出席せず予算審議は部下に任せているという。議会が紛糾するのをむしろ面白がっている節もある。福島の地には三島県令への呪詛が凝り固まり不気味な形に膨れ上がりつつある。いつ破裂してもおかしくない状態であるが、それはむしろ三島に利するであろうことは誰の眼にも明らかだった。何か騒動が起きれば福島県警察にはそれを機に川端を捕らえるよう指示が出されていた。
北の丸にある連隊司令部の一室に集まった三名は、前置きもなく本題に入った。
「説明してもらおうか」
川上が促すと、晴栄は小さく頷いて語り始めた。
「少々込み入った話になるやも知れませんがご容赦を。
明石君が持ち帰った護符に描かれた梵字、そしてこのたびの福島の連続殺人事件で、被害者の体に刻まれていた刻印。どちらも同じ文字で「ダ」と読みます。この字は、荼枳尼天の種字で、このことはすでにご存じのことと拝察いたします。では、荼枳尼天とはどのような神なのかご説明いたします。
荼枳尼は、もとはヒンドゥー教の女神カーリーの侍女で、人の肉を食べる夜叉とされております。仏教では大黒天に属する夜叉とされ、胎蔵界曼荼羅には、従者を従え死者の前に座る姿で描かれています。その姿は大変美しく、性的魅力に溢れているとされております。
大日如来に調伏された荼枳尼が仏教に帰依する代償として、六ヶ月前に人の死期を予知できる能力を授けられ、この力により生あるうちはそのものを守護し、死後その心臓を取って食するようになったと言われますが、荼枳尼は、死や破壊をもたらすだけでなく収穫後の土地に新たな活力を与える豊穣の神の側面を持ちます。我が国においてはそれが稲作に関連付けられ、いつしか在来の稲荷信仰と習合し一種の福神として広まり、その姿も半裸の女人像から白狐に跨る女神へと変化してまいりました。
少し話がそれますが、以前お話しした九尾の化身である古代中国殷王朝紂王の妃妲己。その名前、荼枳尼と似ているとは思いませぬか。両者が混同され、荼枳尼天と九尾が結びついた。ですから、本来なら荼枳尼天が跨る狐はすべからく九尾であったはずなのです。
話を戻します。この荼枳尼天という女神は祀るのが非常に難しく、一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされ、もし約束を破るとその修法を止めた途端に没落、あるいは災禍を招くと考えられ、これを外法として忌み嫌う傾向がありました。
しかし、外法として禁じられる荼枳尼信仰は、禁忌であるが故に魅力的でもあります。その修法の破壊力はすさまじく、古くより真言のある流派では密かに荼枳尼の修法が続いてきたと言われております。戦国の世では、多くの武将がその力に縋り荼枳尼天を祀りました。それは我々陰陽師も同じでございます。この修法は陰陽師同士の覇権争いにもしばしば利用され、いくつかの流派が敵対するものを退けるためにこれを用いました。中でも、この修法に長け他を寄せ付けぬ力を得た一族がありました。名を幸徳井と申します。
幸徳井家は土御門と同じ安倍晴明の血を引く一族ですが、初めて幸徳井を名乗った友幸は賀茂氏に陰陽道を学んだため賀茂の系譜とされております。友幸から数え三代に亘り朝廷に重んじられ、南都七大寺の一つである興福寺の支援を受けて勢力を延ばし、京の陰陽寮に対抗する勢力を築きました。一時は零落した土御門家に代わって陰陽頭を努めるほどの権勢を誇りましたが、霊元帝の御代に陰陽頭をめぐる争いに敗れ我が土御門の傘下に下り、やがてご維新を迎えました。その後の在り様は、どちらも似たようなものですが、辛うじて家名を留める土御門に対しその零落は甚だしく、一族の係累悉くその消息が知れません。わずか十数年の出来事でございます」
「その幸徳井が今回の事件に関わっているというのか」
川上が訊ねる。
「幸徳井が得意とするものは、荼枳尼の外法に限られたものではございません。あ奴らは、あろうことか反魂の術を弄びます」
「反魂の術って、そりゃ屍人を蘇らせる術じゃなかと」
元二郎が思わず呟いた。
「さよう。かつて空海が戯れにその術を使い、あまりのおぞましさに以降二度と施すことのなかった秘法。外法の中の外法でございます」
その乾いた口調に反発するように元二郎が訊ねた。
「そん術で西郷大将ば蘇らしぇるつもりなんか。それじゃ蘇った大将はただのでくの坊やなかか」
「その真意は分かりかねますが、今回の事件を見る限り、反魂の術を試みているとしか考えられません」
晴栄の答えはどこまでも静かである。
「仮にそうだとして、一人二人では手に負えまい。手助けする者がいるはずだが」
訊ねる川上に、晴栄が答える。
「今は途絶えたと伝わる真言の一派がございます。立川流と呼ばれておりますが、本来の立川流は空海の流れをくむ真言の正当な流派でございます。それとは別に、荼枳尼天を祀り髑髏本尊という儀式を信仰する謎の一派がございました。立川流はそれを邪教と非難しましたが、何故かその一派と混同され邪教の汚名をそそげぬまま衰退いたしました。わたくしが今申し上げているのは、その非難された方」
「偽立川流の方か」
「左様でございます。二年前、筑波の山中に巨大な護摩壇を設け行われた修法は明らかに荼枳尼の修法」
「そ奴らが、幸徳井と組んだというわけか」
「間違いありますまい」
「明石」
不意に、川上が元二郎を呼んだ。
「はい」
「貴様に与えてある宿題の進捗はどうなっておる」
「川端馬之助の動きは完全に把握しております。ばってん、幸徳井の名も偽立川流もどの報告にも挙がっておりません」
川上は瞑目し、しばし沈黙した。
「川端は、福島の農民を扇動して一揆を企てていると言ったな」
「はい」
「国中から自由民権の志士が押し寄せているらしい。三島県令の人気も大したもんじゃ。それが隠れ蓑になっておるな」
「何が紛れ込んでもおかしゅうなかとです」
川上が微かに笑ったように見えた。
「何も聞こえてこないということは、川端は囮とみてもよかろう」
「監視は無駄というわけですか」
元二郎が訪ねた。
「いや、おそらく川端の行動には意味がある。ただ、その裏でもう一つ隠れた思惑が進行している。我々が川端に注目しているなら、注意をそちらに向けておけば動きやすい。そんなところだ。ならこちらは、川端に気を取られたふりをして、もう一つの陰謀を探るまでだ。しばらくは、川端の監視を強化しろ」
「分かりました」
「今回の連続殺人がもう一つの陰謀の端緒であろう。晴栄が気づかなければ見過ごしていた」
川上は、晴栄に訊ねた。
「まだ死人が出ると思うか」
晴栄は顔色を変えることなく答えた。
「まだ序の口と存じます」
「それだけの死体何に使うと思う」
「あまり考えたくはありませんが、使い方は二通り。ひとつは南洲公復活のための贄。あとのひとつは、南洲公の軍隊」
晴栄の答えに、初めて川上に嫌悪の表情が浮かんだ。
「十や二十では済まぬと言うことか」
そう訊ねる川上に、晴栄は沈黙で答えた。
ハツは、二週間病院で療養した後、病状が落ち着いたことを理由に竹造が家へ連れ帰った。
全快には程遠いが、それを待っていては一家全員が飢え死にすると言って、竹造は弥彦の説得を振り切った。
長い梅雨が終った日照りの道を、ハツを寝かせた大八車に弥彦と竹造が前と後ろに取り付いて運んだ。
大田原は旧大田原藩一万一千石の城下町であり、町の中心は奥州街道の宿場町として栄えたところである。近隣の村々とは比べ物にならぬほど家や商店が立ち並び人通りも多い。同じ扇状地であるのに、わずか二里離れただけでこうも景色が変わるものかと、この町を訪れるたびに弥彦は哀情に似た感慨を覚える。家並みが途切れると、初夏の日差しが容赦なく三人に降り注いだ。ハツを寝かせた荷台には筵を立てて日差しを遮っているが、弥彦と竹造は、じりじりと焼ける肌に流れる汗をぬぐうこともなくひたすら道を急いだ。
荷台に横たわるハツは、合わせた両手を額に押し付けて拝んだまま動かない。弥彦は恐縮して手を下ろすよう頼むが、ハツは首を振ってますます縮こまった。
「済まねえなあ、入院の費用をあんたが工面してくれた話したら、ずっとこの有様だ」
「困ったときはお互い様でしょう。いつも畑の面倒見てもらってるし、次何かあったら今度はおれが世話になるんだから」
同じやり取りを何度か繰り返しながら、やがて三人は開拓地に足を踏み入れた。
加治屋開墾を通り抜け、肇耕社に入り、遠くに農場事務所を望む真っすぐな道を進んでいく。草が駆り払われ、平らに均された農場地内には強い風が吹いていた。日に照らされた大地の空気が熱せられ上昇するため、空気の薄いところを目がけて山の上から風が吹き込んでくるのだ。荷台に掛けた筵が勢いよく捲れ上がり、ハツの着物の裾が乱れ、弥彦と竹造が慌てて筵を抑え込んだ。
「手荒い歓迎だな」
と竹造が言うと、初めてハツが声を上げて笑った。
「もうすぐ子どもらに会えるべ」
「うん」
笑顔で答えるハツの眼尻は砂埃のためだけでなく濡れていた。
昼を回るころようやく家に帰り着くと、ハツの帰りを待ちわびた子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。
太一は、ハツの首にかじりついたまま竹造が叱っても宥めても離れなかった。それに不平を言う梅子を駒子がたしなめ、困惑気な目を弥彦に向けていた。
弥彦は、駒子の健気さを愛らしく思った。
帰ってはみたが、数日を過ぎてもハツの体調は一向によくならなかった。
体力が戻らないだけでなく、どこか気が抜けたように四六時中ぼうっとしているらしく、弥彦が見舞いに顔を見せると、太一が駆け寄ってきてハツの様子がおかしいと訴えた。折を見て何気なくそのことを竹造に訊ねると、竹造は、ハツが故郷に帰りたいそうだと投げやりに言い捨てた。
これまで気丈に振舞ってきた付けが回ったのだろう。そんなハツの言動を諫める竹造にしても同じ思いであることは疑いようがない。帰りたくても帰れないというのが実情なのだ。弥彦は慰める言葉もなく、手土産に持ってきた夏野菜を土間の片隅に置いて、逃げるように長瀬の家を後にした。
それからしばらく日照りが続いた。昼間は容赦ない日差しがひび割れた地面と痩せた作物を焼き、夜にはいつまでも消えない熱気に眠ることもできない。喉の渇きを癒す水は半里も歩かなければ手に入らない。開拓地では、水汲みは子どもの仕事だった。
駒子と梅子は天秤棒に水桶をぶら下げて一日おきに隣村まで湧き水を酌みに行ったが、日照りのためにその水も涸れていた。湧水地は擂り鉢状の小さな谷底にある。谷の縁から見下ろすと、二日前には申し訳程度に流れていた細い水路が、からからに乾いているのが見て取れた。ここから一番近い水場まではあと半里歩かなければならない。水を汲むだけならまだしも、それを担いで家まで帰ることは梅子には厳しい。駒子は意を決して途方に暮れる梅子の手を引き、農場事務所に向かった。
農場事務所の裏手には、井戸が掘られていた。その深さは一五間にも及ぶ。そこまで掘らなければ水が出ないのだ。普段移住人がその井戸を使用することは認められていない。移住人に割り振られた土地が事務所から離れていることも理由の一つだが、貴重な水源を分け与えるだけの余裕がないことが本音だった。それを承知の上手で、駒子は事務所の戸を叩いた。顔を出した権藤は、駒子の怒りに満ちた目に睨みつけられ戸惑いながら訊ねた。
「どうした。二人して」
「水が涸れた」
駒子はそう言って黙り込んだ。
権藤にはそれで十分だった。顔を上げると、昨日と変わらぬ雲一つない空が広がっている。まだしばらく雨は期待できそうにない。権藤は駒子に向かい、ため息交じりに言った。
「分かった。汲んでけ。母ちゃんに飲ませてやれ」
駒子は黙って頷いた。
「まだ、起きられんのか」
「最近は飯もあんまり食べてくんねえ」
「そりゃ困ったな。それじゃ元気が出んな」
そう言って権藤は腕組みして思案顔を見せたが、妙案を思いついたのかちょっと待てと言って建物の中に入り、キュウリとナスを手にして戻ってきて、それを駒子の水桶の中に置いて言った。
「水に冷やして持って帰って、母ちゃんに食わせてやれ。冷たくてうまいぞ」
駒子は大きく目を見開いて、満面の笑みを浮かべて権藤に頭を下げた。
駒子は、最近ようやく弥彦のことを厭わしく思わなくなっていたが、この権藤にも同じく親しみを覚えるようになっていた。しかしその感情には少し違いがあって、弥彦には親しみを感じるが、権藤には尊敬の念を覚えると言った方がふさわしい。父や弥彦とはまた違う存在だった。
「あ、三蔵兄ちゃん」
不意に隣で梅子が声を上げたので、駒子が驚いて振り返ると、そこに晒し布を腹に巻いて上半身はだけた堀田三蔵の姿があった。
「ああ、駒子と梅子か。なんか用か」
三蔵は屈託なく笑って近づいてきたが、駒子は慌てて権藤に礼を言うと、梅子の手を引いて井戸に向かった。
「なんだかな。おれ嫌われてるみたいだな」
三蔵が言うと、権藤は笑って言った。
「駒子は年頃だからな。その格好が目に余るそうだ」
「なるほど」
三蔵は頭を掻いて二人の後ろ姿を見送った。
八月に入ると、ようやく雨が降り出したが、今度は底が抜けたような大雨が連日降り続くようになった
昼間のうちは相変わらず茹だるような暑さが襲い、夕方には南の空に湧きあがった雨雲が黒々と空を覆い滝のような雨を降らせた。普段水が流れない蛇尾川には本来の姿を思い出したように水が流れはじめ、ときを置かずに濁流となった。日頃水不足に悩まされる開拓地が、この時ばかりは皮肉にも水災害に怯えることとなる。
近ごろ弥彦は、農作業と軍事訓練が終わるのを待って、長瀬の家を訪れるのが日課になっていた。ハツは相変わらず床に伏せたきりで日に日に無口になり、太一はその鬱憤を晴らすように弥彦に八つ当たりした。弥彦は、太一の気が晴れるまで一緒に遊んだ。
連日の雨のせいで、弥彦の畑はまた雑草に覆われ始めている。ため息交じりにそれを眺めて、暗い道を宿舎へと帰った。
そんな状況を嘆く弥彦に同情した三蔵が、八月の中頃から畑の手入れを手伝うようになった。三蔵は、自身の畑の手入れもあるはずなのになぜか進んで手伝いを申し出た。弥彦がそのことを訊ねると、自分の畑は隣に住む移住人に農場事務所から貰う手当てをほぼ全額払って手入れしてもらっていると答えた。収穫が上がったらそれを折半する約束だという。弥彦には、そんな発想がなかったため驚いていると、この状況にけりがつくまでの一番賢い方法だと涼しい顔で言った。三蔵は弥彦にはない聡明さを持っている。そこまで知恵が働くなら、何もこんな荒れ地の開墾に従事しなくとも世を渡って行けるはずだと思うが、欲がないのか、より遠大な計画があるのか三蔵は飄々とここでの生活を楽しんでいる。その余裕が弥彦には羨ましくも妬ましくもあった。
だが、久々に訪れた三蔵を出迎える長瀬家の子ども等の態度は冷ややかだった。
太一が三蔵に馴染まないのは相変わらずだったが、またしても駒子は三蔵の顔を見るとさっさと姿を消してしまい、駒子に感化されたのか梅子もどこかよそよそしい。三蔵はそんな冷遇に頓着することなく、毎回畑の手入れについてきた。休みの日は朝から畑にいるため、竹造が梅子に言いつけて昼飯を一緒にとるよう誘うようになった。何度か繰り返すうちに、梅子は打ち解け、太一も弥彦を介して三蔵と会話するようになっていたが、駒子だけは頑なな態度を崩そうとはしなかった。しかし、三蔵を無視してその場を離れる刹那に、必ず駒子の眼は三蔵に向けられていた。
立ち去る駒子の背中を目で追いながら、弥彦は胸の内に粟立つような不安を覚えた。
三蔵を盗み見る駒子の視線がか細いほど、それを認める弥彦の胸は締め付けられるような切なさに駆られる。長瀬の家を辞し三蔵と別れてからも、ざらざらとした感情が腹の底に居座りいつまでも消えない。それが、三蔵と駒子が顔を合わせることへの不安であることは弥彦にも自覚できた。
それ以来、何気ない風を装い毎日三蔵と顔を合わせながら、弥彦は何かと理由をつけて畑の手入れを控えるようになった。そうなれば長瀬の家からも足が遠退き、三蔵を駒子から遠ざけられると考えたが、そのことが裏目に出るとは思いもしなかった。
三蔵は、もはや弥彦抜きでも長瀬の家を訪ねていくほど一家と打ち解けていた。
それに思いが至らない弥彦は、三蔵に隠れて独りで長瀬の家を訪ねて行き、三蔵がいないことを訝る子ども等に適当に言い訳しながら曖昧にやり過ごす日々を送っていたが、ある日の夕暮れ時、いつものように畑仕事を口実に長瀬の家を訪ねると、そこには当然のように一家と談笑する三蔵の姿があった。
三蔵は、にこやかに弥彦に声をかけ、弥彦は動揺を隠して団欒に加わったが、そこで親しく三蔵に話しかける駒子の姿に衝撃を覚えた。それを横目に、竹造と秋蒔きの野菜や天候の話を続けていたが、やがていたたまれなくなり、用事を思い出したと言って逃げるようにその場を後にした。
己の愚かさと悔しさに歯噛みしながら暗い道を走って帰る途中、弥彦は駒子の面影を振り払おうと足を止めて空を見あげた。そこには、それまで見たことがないほどの星が溢れていた。夜空に輝く星々はどこまでも美しく、それを見あげる自分はなんと小さいことか。思う間もなく視界が滲み、瞳の中で星が混じり合った。
それから十日後のことだった。
朝から、生温い南風が吹きつけ、昼を過ぎるころには横殴りの雨が混じるようになった。農場では誰もが不安を口にし。気象に詳しい何人かは、ここ何年かで一番大きな台風になりそうだと言った。
権藤の指示で農場全域に台風への備えが進められた。事務所の窓には雨戸が立てられ、納屋の備品は風の影響を受けない奥へ運ばれ縄で括られ、家畜小屋には牛や馬を宥める係が張り付いた。
大方の備えが整い、権藤が各自の家の養生に戻るよう指示を出そうとしたとき、梅子が事務所を訪ねてきた。
濡れた髪が張り付いた梅子の顔は風雨に晒されて色を失い、小さな肩は小刻みに震えていた。驚いた権藤が理由を訊ねる間もなく、梅子は声を張り上げた。
「お願いです。太一を探して」
言い終えると同時に泣き崩れた梅子を宥めて権藤が事情を訊ねると、梅子は切れ切れに説明した。
長瀬の家は、去年の同じ時期に襲った台風で屋根が飛ばされたため、竹造は朝から風雨への備えを始めていた。駒子と梅子もそれを手伝って屋外にいたため、昼を過ぎてハツが訊ねるまで太一の姿が見えないことに気づかなかった。竹造と駒子があちこち探し回ったがどこにも居ない。そのうち風が強くなり雨が降り出したため、事務所に助けを求めるため、竹造が梅子を遣したのだった。
梅子の説明を聞いた権藤は、弥彦に自分の家の様子を見に行くついでに一緒に探してやれと言った。弥彦は了解し梅子と一緒に長瀬の家に向かった。
長瀬の家に帰り着くころには、風は益々強まり、雨の粒が大きくなった。入り口の筵が騒がしく風に踊るのが遠目に見えた。辿り着いた家の中では、取り乱したハツが床から這い出ようとするのを竹造が押しとどめ、駒子がその姿を土間で呆然と眺めていた。
弥彦が駒子に太一の行先で思い当たるところはないかと訊ねると、振り返った駒子は蒼白な顔を横に振って見せた。その時、思いがけず梅子が関根村の神社かもしれないと呟いた。
「なんだそれ」
弥彦が訊ねると、梅子は隠し事を白状するような怯えた声で答えた。
「三蔵兄ちゃんが、前に言ってたんだ。関根村の神社は願い事がよく叶うって。母ちゃんを元気にしたいならそこにお参りに行ったらいいって」
「あの馬鹿、なんでそんなことを言ったんだ」
思わず弥彦が呟くと、梅子が消え入りそうな声で続けた。
「後で姉ちゃんにも教えて、三人でお参りに行けばいいって。太一は母ちゃんが早く良くなるようにお参りに行くって聞かなかった」
梅子の説明が終わらぬうちに、床の中のハツが呻き声を上げた。それを竹造が宥めるのを横目に、弥彦は探してきてやると言って家を飛び出した。
子ども等を慰めるつもりだったのだろうが、その言葉が引き起こす結果に思いが至らなかった三蔵の迂闊さを恨めしく思い走りだす弥彦の背中から、駒子の声が呼び止めた。振り返ると駒子が走り寄り、一緒に行くと言った。
「お前は母ちゃんの傍にいてやれ」
「父ちゃんと梅子がいるから大丈夫だ。あたしも一緒に行く」
「神社の場所知ってるか」
弥彦が訊ねると、駒子は首を振った。
「仕方ねえ、三蔵に訊くか」
そう言って、弥彦は駒子を連れて走り出した。
三蔵の土地は、農場の南側の境界にあてがわれていた。事務所を挟んだ向こうの端に当たる。弥彦は、真っすぐそこに向かうのではなく一旦事務所に寄って権藤に三蔵の行方を訊ねた。
「堀田なら、急用ができたと言って昨日から休んでるぞ」
そう答える権藤は、びしょ濡れの二人に笠と蓑を貸してくれた。弥彦は礼を言いながら、関根村の神社はどのあたりか訊ねた。
「それなら、原街道を黒磯に向かって行って、蛇尾川の手前を右に行ったところだな」
「分かった。ありがとう」
「ちょっと待て、いまは川が増水しているかも知れんぞ」
「なら余計に急がなきゃ」
そう言い残して、二人は事務所を飛び出した。
風が頬を叩き、いよいよ強くなった雨が真横から降り付けるため、笠も蓑も役に立たない。二人は手を取り合って風に逆らいながら蛇尾川を目指して進んだ。時折、鋭い笛のように風が唸り、飛ばされた芒や木の葉が手足を打ち据えた。その度に駒子は小さな悲鳴を上げて首を竦め立ち止まった。弥彦はやはり連れてくるべきではなかったと後悔したが、今更置いても行けないため、励ましながら先を急いだ。
ようやく、道が蛇尾川に差し掛かるところまで来ると、権藤が言ったように、普段水がない河原いっぱいに茶色い水が溢れ波打ちながら流れている。原街道は突然現れた川に飲み込まれ忽然と姿を消していた。わずかに高くなった堤を超えて水が溢れだすのも時間の問題に思えた。あまりの光景に我を失っていた弥彦が、思い直して駒子を促そうとした時、駒子が言った。
「狐がいる」
意味が分からず弥彦が訊ねると、駒子は弥彦を見あげて言った。
「狐が、原っぱを走ってる。いっぱいいるよ。ほら、あそこ」
そう言って駒子が指さす先に、色づき始めた芒の葉と見紛う黄色の背中をくねらせて獣の群れが跳ね回るのを、弥彦は確かに見た。
狐の群れは、まるで嵐の到来を祝うように鳴き喚きながら輪を描いて走り回っている。その姿は、海原を飛び跳ねる魚の群れにも似ていた。黒く重い雲が猛烈な速さでその上を滑り、時折風の音とは違う雷鳴が地面を揺るがすように鳴り渡った。
弥彦は、怯む気持ちを奮い立たせて駒子の手を引き、神社を目指した。
神社の在り処はすぐに分かった。巨大な欅の森を背中にして二間四方の茅葺きの社殿が川に向かって建っていた。建物は質素な作りで何の飾り気もない。おそらくは祠を内蔵する鞘堂で、中に神殿が納められているのだろう。近づくと、正面の扉は開けられ、風に煽られてばたばたと音を立てている。
二人は、いまにも壊れそうな階段を恐るおそる上り、太一の名を呼んでみた。中から変事はなかった。
日が傾き、分厚い雲が垂れ込めているため、中はかなり暗いが、それでもまだ物の形は認めることができる。そっと堂の中に足を踏み入れると、床一面に広がる獣の足跡が見て取れた。それだけではない。弥彦は、記憶に残る臭いが建物の中に立ち込めていることに気づいた。それは、かつて鹿児島の戦場で嗅いだのと同じ匂いだった。
不意に、弥彦の袖を駒子が引いて、奥の暗がりを見るよう促した。袖を引く駒子の口からは、小さな嗚咽が漏れ出していた。
弥彦は、駒子を入り口に押しとどめ、中に進んでしゃがみ込みそこにあるものを拾い上げた。それは太一の着物の一部だった。小さな布切れに似合わずずっしりと重い。指先に粘着質の湿気が纏わりつき、かつて戦場で嗅いだ臭いが鼻腔をくすぐった。
背中で、耐えきれなくなった駒子が悲鳴を上げた。
その声は、強風に掻き消され森の外に届くことはなかった。
日が暮れて風は激しさを増し、滝のような雨が屋根を押し潰す勢いで降り続いていた。
弥彦は、猛烈な雨の中を駒子を背負い長瀬の家に帰り着いた。
二人が帰りつくと、床のハツが体を起こし縋るような眼で二人を見あげ、「太一は」と訊ねた。
弥彦は、言葉を失い肩で息をしながら黙ってハツを見詰めた。
ハツは大人の機嫌を窺う子どものような顔でもう一度訊ねた。
「太一は」
弥彦は返事をしなかった。吹き付ける風の音が大きくなり家の中に木霊した。それに混じって、弥彦の背中に顔を埋めた駒子の嗚咽が、切れ切れに聞こえていた。
一一月二八日、三島県令の強引な土木事業の遂行に伴う強制労務と資産の没収、議会を無視した増税、そして旧会津藩士からなる帝政党を使った自由民権運動の弾圧に抗議する農民千数百名が喜多方警察署に押し寄せ、武力鎮圧された。翌日、東京と福島において警察による自由党員の一斉検挙が始まり、河野広中をはじめとする自由党員二五名が逮捕、その後約二千名に上る関係者の逮捕拘束に発展した。世に言う福島事件の始まりである。
この一連の逮捕劇に便乗し、警視庁の藤田は川端馬之助とその配下のもの十数名を拘束し、秘かに東京に連行した。
一二月二四日、東京鍜治橋の警視庁旧第一庁舎の一室に、川端馬之助の姿があった。警視庁は二週間前に新築の第二庁舎に移転し、第一庁舎は廃棄されたはずだったが、藤田は内務省の許可を得てそこを拠点としていた。
暖房のない八畳ほどの部屋を照らすのは、窓際の卓子に置かれた小さな洋灯の灯りだけだった。部屋の中央には、後ろ手に川端を縛り付けた椅子が置かれている。藤田はその前に立ち、尋問を開始した。
「河野が連行されてきた。いま取り調べ中だ。そう遠くないうちに裁判が始まる」
そう切り出した藤田の顔を川端は黙って見上げた。その顔から感情を読み取ることは難しかった。
「福島自由党もしばらくは大人しくなる。三島県令の思う通りとなった」
藤田は、ゆっくりと川端の後ろに回りながら続けた。
「貴様は、民権家を装い河野に近づいたが、その後の貴様の行動を見ると、農民たちを焚きつけ一揆を起こさせた以外、民権家らしい行動は見られない。百姓を煽って時勢を混乱させただけだ。お陰で福島警察はずいぶん振り回されたようだ。上々の出来だったな」
川端は微動だにしない。その背後に立った藤田が言う。
「だが我々は、一緒に振り回されるふりをして、貴様の裏を掻いた」
川端の背中がわずかに動揺するのを藤田は見逃さなかった。
「三島県令が河野を捕らえた騒ぎに乗じて、我々は二本松にほど近いある村を急襲した。以前から内偵を進めていたある組織を壊滅させるためだ。今回の騒ぎで二千に上る逮捕者が出たと聞くが、その村のものも二桁を優に超えている。もっとも、逮捕される前に自ら命を絶ったものも同じくらいいるらしい。詮議の結果、そいつらはある宗派の一門らしいが、今回の一件で身動きできなくなった。貴様にも礼を言わねばなるまい。喜多方の騒ぎが大きかったお陰で、こちらは新聞の片隅にも取り上げられずに済んだ」
「何を言ってるのか意味が分からん」
呟くように川端が言った。藤田はそうだろうという顔で再び歩き出した。
「そうか分からんか。話は続きがある。その村の隣に小さな集落があってな。子どもから年寄りまで全部数えても五〇に満たない。そこの村人全員の行方が分からんのだ。こちらはさすがに手を回して新聞ネタにならぬよう圧力をかけてあるが。先ほどの一派が絡んでいることは間違いなさそうだ。どうだ、知らんか」
川端は藤田から目を逸らしながら知らないと呟いた。
「そうか。話は変わるが、我々は貴様についても面白い話をいろいろ仕入れていてな。貴様、もとは役者だそうだな。ちょい役で南座の舞台に立ったこともあると聞いたぞ。そのまま精進していれば芽が出たかもしれんが、辛抱が足りんかったな。どこで躓いたのやら。大阪で二度、名古屋で一度恐喝で捕まったな。岐阜では人身売買の容疑もかけられとる。それに麻薬の密売。なかなか手広くやっとるな。そして今回は人心惑乱、騒乱煽動。立派な政治犯だが、どれ程の信念があってのことか。それは、これから存分に調べてやる。幸い、ここはいま使われていない建物でな。自由に使っていいことになっておる。時間もたっぷりある」
そう言って振り返りざまに、藤田は川端の左頬を殴り飛ばした。
不意を喰らい、川端は椅子ごと真後ろに倒れた。
藤田はしゃがみ込んで、仰向けに倒れる川端に訊ねた。
「まずは、貴様が知っていることを教えてもらおう。行方が分からん村人はどこに行った。次にあの教団の目的はなんだ。最後に、あいつらの後ろにいる奴の名前を教えてもらいたい」
見あげる川端の眼が恐怖に見開かれるのを見て、藤田は訝し気に訊ねた。
「何を恐れている」
川端は、わずかに首を振っただけで答えようとしない。その顎を押さえつけて、藤田は噛んで含めるように言った。
「幸徳井という名に聞き覚えがあるな」
藤田の掌の中で、川端の震えが大きくなった。それを押さえるために思わず力が入る。しかしそれを振り払う勢いで川端の体が暴れ出し、藤田は体勢を崩して尻餅をついた。その時初めて、「幸徳井」が符号であったことに気づいたが、すでに手遅れだった。
信じられなことに、川端は椅子に縛られたまま弓なりにからだをのけぞらせ、床の上を転げまわった。衝撃に耐えられず椅子の脚が折れ、背もたれに回された川端の腕がひしゃげる音が部屋中に響き渡る。呆然と見つめる藤田の目の前で、断末魔の呻きを上げて夜目にも鮮やかな鮮血を吐いて、川端は動かなくなった。
川端がのた打ち回った床には、赤黒い血と垂れ流された小便が後を引いて飛び散っている。静まり返った部屋の中に藤田は立ち上がり卓子の洋灯を取り上げると、横たわる川端を仰向けにして、はだけた襦袢の襟元から覗く胸元を照らした。
丁度心臓に当たる場所に、鮮やかな赤い模様の刺青が彫られていた。
そこに刻まれた刻印には見覚えがあった。
一見模様に見える異国の文字、読み仮名は「ダ」。




