一二 辛苦
明治一五年正月五日、山形県令三島通庸は、松方正義参議兼大蔵卿の私邸に招かれた。
正月三日の休日が明け、太政官に顔を出した三島が新年の挨拶がてら松方を訪ねると、松方が思いがけず明日自宅に来て欲しいと懇願した。松方の意図は分からなかったが断る理由もないためそれを承諾し、翌日改めて松方の私邸を訪問した。
松方の私邸は三田にある。小石川の自宅から走らせてきた人力車が屋敷の敷地に滑り込むと、いきなり目の前にばらばらと子どもが飛び出してきた。男女入り交じり六七人もいようか。三島は慣れたもので、車を止めるよう車夫に命ずるとその巨体を車外に下ろし、目についた男児をひとり捕まえて脇を抱えて高々と持ち上げた。
持ち上げられた男児はけたけたと歓声を上げ、それを羨んだほかの子どもが次をせがんで三島の周りに群がった。その喧騒を聞きつけたのか、母屋の玄関が開いて中から学生服に身を包んだ少年が飛び出してきて、三島に纏いつく子どもたちを叱りつけて追い払ってしまった。弟妹が逃げ帰ったのを認めた少年は、改めて三島に相対し礼儀正しくお辞儀をして私邸を詫びた。
三島は笑顔で少年を制しながらも、この少年は何番目かと考えていた。
松方の女好きを知らぬものはいない。そのため子も多い。三島が記憶しているだけで男児が七か八人、女児が四人もいただろうか。もちろん正妻の子ばかりではないから、三島の知らぬところにまだ何人かいるのかもしれない。
案内を乞うまでもなく場所だけを訊ねて勝手に屋敷の廊下を進み応接室に向かうと、足音を聞きつけたらしく、すでに待ち構えていた松方が部屋の扉を開けて三島を迎え入れた。
三島はこの朋友の歓待を訝りながらも、勧められるままに席につき、まずは松方の酌でなみなみと注がれた焼酎を飲み干した。松方も同じように三島が返す盃を一気に煽り、暫くはお互いの近況について評し合った。松方は前年一〇月の政変により大隈重信の後を襲って大蔵卿に返り咲き、西南戦争以降続くインフレーションの終息を図るべく、濫発された太政官札の回収と日本銀行の創設に取り掛かっていた。一方の三島は山県令就任以来進めてきた山形と福島を結ぶ幹線道路を完成させ、前年一〇月に帝の行幸を得て開通式を挙行していた。その道路は帝により萬世大路と名付けられ、三島を大いに感激させた。
「今年は関山峠ん隧道も抜けっ予定や。そうすれば仙台も近うなっ」
仙台に通じる道路が抜ければ、山形の産物は帝都に運ばれ経済は活性化する。かつて大久保利通は東北の地を 「其土壌ノ広闘ナル」「皇国ノ宝庫」といい殖産興業政策の肝に据えていた。三島は大久保の意を酌みその尖兵たらんと土木政策に傾注してきた。いまそれが形となって実を結ぼうとしている。三島はいつになく饒舌であった。
「ところでのぉ、弥兵衛」
松方は、三島の興奮に水を差すことを詫びるように切り出した。
「おまんさぁ、福島に行ってはっれんか」
「なんじゃと」
松方は、腹を決め真っすぐ三島を見据えて続けた。
「福島で自由党ん動きが盛んになっちょっことを知っちょろう。そいを少しばかり抑えて欲しか」
「ないごてだ」
三島は、表情を変えることなく訊ねた。
もとより、三島は自由民権論者の主張には否定的であった。帝を頂点とする国家の統治こそがこの国には最もふさわしく、帝の大いなる慈悲に抱かれつつ自己の責務に邁進することこそが民の幸福であると信じていた。板垣退助が掲げる自由主義は「(帝を)自由貴重の民上に君臨せしめ、無上の光栄を保ち、無比の尊崇を受けしめんと企図」しているとうたっており、三島の主張と通ずるものがあったが、すべての自由党員が板垣と思いを一緒にしているわけではなく、むしろ政府を転覆せしめ「自由」という名の無政府状態を出現させようと目論む者が主流を占めると三島は考えている。その主張を容れての要請であるなら、何を躊躇うことがあろうか。その言質を取るべく発した質問である。
松方は無論、三島の意図は承知の上であるが、加えて政府の意図を上乗せして三島の責務を明確にする必要があった。
「福島は河野広中が牛耳っちょっ。これ以上自由党をのさばらせっのが利口じゃなかとは勿論じゃが、それ以上にわいに取り締まってほしかもんがあっ」
「はっきり言え」
「自由党を隠れ蓑に、せごどんを復活させようとすっ輩が暗躍しちょっ。こいを潰さんなならん」
三島は、すでに那須野が原に西郷南進防御の前進基地である開拓農場を築いており、その整備にかなりの私費を投じている。新天地の開拓と言えば聞こえはいいが、これまで人の手が入らなかった荒れ地の開墾は金を食うばかりで一向に生産性は上がらない。この計画の当初、太政官は兵士を兼ねた農民が土地を拓きながら自給自足で防衛戦に備える青写真を用意していたが、一年を待たずして破棄していた。いまとなっては、三島の忍耐に頼りきっていると言っていい。松方は、これ以上に三島に任を負わせることを心苦しく感じているが、しかし今回の福島取り締まりに三島以上の適任者は見当たらないため、無理を押して三島に頼み込もうと決めていた。
松方を真っすぐに見据える三島の眼光が怪しく光を帯び始める。
しばしの沈黙の後三島は静かに言った。
「そげんこっか」
「そげんこつとはなんじゃ。わいは、政府んおおごつをなんじゃて思うちょっ」
「そうじゃなか。おいに気を遣うことはなかちゆちょっ」
そう言った三島の顔を、松方は暫し見詰めていたがやがて念を押すように訊ねた。
「わいはそいで良かちゅうとな」
「しつけど」
「じゃっどん、山形ん仕事もこれから仕上げに入っとに、そい放ってんよかか」
太い眉の下に並ぶ双眸が、楽し気に松方を見つめ返していた。松方はその眼圧に怯んで僅かに身を引いた。
それを面白がるように三島は身を乗り出して言った。
「なら、福島と山形両方やっちゅうたぁどげんけ」
「本気か」
「ああ」
「じゃっどん、福島は山形とは勝手がちごっじゃろに、並大抵ん仕事じゃなかぞ」
「そげんこつは百も承知や。じゃっどん誰かがやらなならんならおいがやっ。福島で河野ん首根っこ押さえつけてやっわ。いや、河野を煽っちょっ奴らを一網打尽にしてやっわ」
三島はほかの選択肢など端からないと言わんばかりに胸を張った。
その三島の獅子のような顔を覗き込みながら、松方はこれが出まかせの安請け合いでないことを確信した。しかしそれは並みの決心では到底遂行できぬ難題であり、三島の胆力あってこそ打開できる峻険なる道程である。松方は、それを易々と承知して見せる三島の決意に感謝とも同情ともつかぬ思いがこみ上げ、思わず声を震わせた。
「弥兵衛」
「なんじゃ」
「わいはほんのこてとんでんなか男じゃな」
松方はそう言って深々と頭を下げた。
「お任せ申す」
その十日後の一月二五日、三島通庸は山県令兼務のまま福島県令に就任した。
三月の声を聞くころ、那須野が原は強風に見舞われる。
北西に位置する高原山系から吹き降ろす風は渇いて肌を突き刺さすほどに冷たく、猛烈な勢いで痩せた畑の土を舞い上げる。入植して一年目の家は、その半数が風で小屋を破壊されこの開拓地の過酷さを思い知る。
谷口弥彦は、入植二年目にしてようやく植え付けた麦の苗を一夜のうちに畑の土ごと吹き飛ばされた。
風が吹いた翌日は判で押したように晴天となる。その朝、いまにも倒壊しそうな小屋の中で不安な夜を過ごし夜明けを待っていた弥彦が、外に出て初めに目にしたのは吸い込まれるように深い青空だった。東の空は痛いほど眩しく輝き、一晩中吹き荒れた風の名残が空の高いところで笛のように唸りを上げていた。頬を撫でる風はその優しさとは裏腹に鮫肌を擦りつけるように痛い。なぜか世界に取り残されたような心細さを覚え、吹き付ける風に逆らって見あげると、北西の彼方に溶け残る雪を頂く高原山の稜線が蒼天に白く輝いていた。一昼夜にわたり吹き荒れた凶暴な風は、その優美な山の頂からもたらされたのだった。
目の前には箒で掃き清めたような畑が朝日に晒されていた。昨日まで申し訳程度に地表を覆っていた麦の苗は跡形もなく姿を消し、黒く乾いた土が遠くまで広がっていた。弥彦は畑に蹲り両手で土を掬いあげてみた。弥彦自身の虚しさを物語るように、灰のように軽い土が指の間を滑り落ちて行った。
昼近くに長瀬の家を訪ねると、夫婦は揃って夕べの風に薙ぎ倒された作物の養生に精を出していた。
弥彦とは違い丹精を尽くした畑は、昨夜の大風にも苗を引き留めるだけの地力を養っていたらしく、大風の爪痕は残るものの以前の姿を留めていた。女房のハツは、飛んできた芒の葉を掻き集めていたが弥彦の姿を認めるとにこやかな笑顔を見せて、大丈夫だったかと訊ねた。
弥彦は力なく笑って首を振って見せた。
長瀬が振り返り、厳しい顔で頷いた。その目は、百姓に精を出さず兵隊の片手間で畑を耕していた報いだと言っている。そんなことは自分が一番知っているのだと思いながら、弥彦は言葉を飲み込んで二人に近づき、後片付けを手伝うと申し出た。
ハツは戸惑いを隠せなかったが、竹造は申し出を受け入れて家の方を指さし壊れた屋根の修理を頼んだ。
家の中では、梅子と太一が床の掃除をしていた。どうやら剥がれた屋根の隙間から土埃が吹き込んだらしく、壁の隙間から差し込む外光に照らされた家財道具一切が煤けて見えた。太一は、弥彦を見つけると歓声を上げて駆け寄り遊ぼうとせがんだが、弥彦はそれをいなして屋根の修理をするから邪魔するなと告げた。
「姉ちゃんがいないみたいだな」
家の中を見渡して弥彦が訊ねると、梅子が答えた。
「関根村におつかいに行ってる」
「そうか、最近川の向こうで神隠しが流行ってるらしいから、あんまりひとりで出歩かない方がいいんだがな」
「だって、母ちゃんが行けって言うんだもん」
「わかった。あとで母ちゃんに言っておくよ」
弥彦は、梅子に頷いて家を出て建物の裏に回った。
開拓地の家には、修理に使うための藁と竹はいつも欠かさず用意されている。素人が建てた拙い家は、いつ倒れても不思議はない。倒れないまでも、屋根や壁の修理は年中途切れることがない。日頃、肇耕社の事務所やその周辺の立派な建築物を見慣れている弥彦には、自分の小屋も含めこれが同じ人が暮らす家とはどうしても思えない。故郷では家畜小屋でさえもう少しまともな作りをしていた。ここにも大工がいないわけではないが、手間賃を払える裕福な移住人は一握りに過ぎない。
小屋の周りを一通り見まわして、破損個所の目星を付けると弥彦は竹造手製の粗末な梯子を掛け、その重みで小屋が倒れないことを願いながら藁束を担いで登って行った。
四段も上ると屋根全部が見渡せる。ちょうど手を伸ばせば届くところの藁が吹き飛ばされてぽっかりと穴が開き、家の中を覗き込むことができた。薄暗い家の中では太一が、上から見下ろす弥彦を見あげてゲラゲラと笑っていた。弥彦はその姿を隠すように手にした藁を広げて穴を塞ぎ、上から押さえの割竹を渡して荒縄で括りつけた。
仕事に一区切りつけて目を上げると、低い屋根の向こうに長瀬夫婦が佇む畑と、その奥に打ち捨てられた畑の残骸を見渡すことができた。見つめるうちに涙が滲んできて、弥彦は年甲斐もなく声をあげて泣いていた。
後片付けが一段落し使いに出ていた駒子が戻ったところで、長瀬は弥彦に声をかけて遅い昼食となった。
誘われるままに長瀬の家に上がり込んだ弥彦は、正面に座る駒子の顔を見て先ほどの梅子との会話を思い出して口を開いた。
「そういや、最近川向こうの村で神隠しが流行ってるらしいです。なんでも、十歳くらいの子どもばかり四五人いなくなって、大田原から巡査が来て方々探し回ったけど、結局見つからなかったと」
「その話、おれも聞いたな。人攫いなのか狼の仕業なのかもよくわからねえって」
と長瀬が相槌を打った。
長く人が寄り付かなかった原野は、それまでは狐や狸や狼の棲み処だった。それらが後から入り込んだ人間に遠慮するはずもなく、鍬を振るう移住人の目の前を悠然と狐の親子が横切り、夜には狼の遠吠えが木霊して移住人たちを怯えさせた。隣の那須開墾社では、昨年狼に襲われて農耕用の馬が全滅したと聞いていた。東隣の井口村では墓が荒らされ死体を持ち去られたとも聞いている。しかし、もう一つの噂もあった。家財を投げ出して開拓地に移り住んでみたものの水もない痩せた土地のため収穫がままならず、このままでは一家心中するしかなくなった者が、ここから出て行く資金を得るために年頃の娘を売るのだと言う。それを目当ての人買いが大田原や佐久山辺りに定宿を設け、定期的にこの辺りをうろついているという話を弥彦も何度か耳にしていた。真偽はともかく、中には目星をつけた娘を人知れず攫い姿を消してしまう人買いもいるという。
弥彦は、目の前の駒子を一瞥してからハツに向かって言った。
「あんまり、子どもだけで歩かせない方がいいと思います」
ハツは、そうだねと言って二人の娘に目をやった。その背中にまとわりつく太一は、ハツの着物の衿もとに手を入れ乳房をまさぐっている。
話の向きを変えようと思い立ったのか、唐突に長瀬が弥彦に訊ねた。
「おめさん、野火焼のこと聞いているかね」
「いつやるかですか」
「そうだ」
「それなら、来週末だと事務所で聞きました」
野火焼とは、那須野が原に火を放ち立ち枯れた萱を焼き払う作業を指している。使い物にならない古い萱の処分と、新芽の発育促進を意図したもので、それこそが那須野が原形成の原因と言っていい。本来であれば、那須野が原は周囲の森林の浸食を受け、広大な原生林となるはずであるが、周辺村落の入会秣場として利用されてきたため定期的に火が入れられ芒原の形状を維持してきた。開拓が始まった現在も続けているのは、萱場の保全もさることながら、不心得者の放火により被る不測の被害を防止するためでもあった。開拓農場の設立により入会地を奪われたと考える旧来からの住人は思いのほか多い。農場自体は政府の要人や土地の有力者が名を連ねており表立って非難できぬため、怨嗟の矛先は様々な形で移住人に向けられていた。萱場の放火もその一つだった。しかしそれは開拓地だけでなく、周辺村落にも予想外の被害をもたらす危険性を孕むため、農場の主導による一斉の野焼きが実施されるようになっていた。火入れは周辺村落の共同作業により一斉に行うことになっている。竹造が訊ねたのは、その予定日だった。
「そうか、大丈夫だとは思うが家の周りの萱刈っとかなきゃなんめえ」
「なら、おれも手伝います。一緒にやったほうが早いでしょ」
「すまんね」
そんな大人たちの会話を、駒子は黙って見ていた。
この弥彦と名乗る青年は、いつの頃からか自分の家に頻繁に顔を出すようになり、家族の一員のように一緒に働き飯を食べ笑っている。同郷だと言うだけでなく、その人柄の好さが両親や妹弟たちの心を開かせ近しく感じさせていることも承知している。しかし、駒子は梅子や太一のように無邪気に弥彦に甘えることができない。年が明けて一四になった駒子は、父親とは違う大人の男として弥彦を見ていた。それは恐怖に似た言いようのない違和感で、なぜ父と母が屈託なくこの若者を家に招き入れるのか理解ができない。なのに、なぜかその姿を認めると、つい視界の端で追ってしまう。万一それを弥彦に見破られはしまいかと思うと、駒子は知らず知らずに肩に力が入り俯いてしまう。いったい自分は、この若者に家に来て欲しいのか来てほしくないのか、そう思うといたたまれない気持ちになった。
おそらく、母はそんな駒子の気持ちを見透かしているはずだが、だからと言って駒子を宥めも咎めもしようとしない。弥彦が姿を現すたびに目に見えて駒子が無口になることをむしろ面白がっているようにさえ見えるときがあった。いまも横目で盗み見た母は、駒子の視線に気づきながら平然と弥彦に話しかけ溌溂と笑っている。そんな母を恨めしく思いながら、駒子は自分に余計な注目が集まらないよう黙って飯を掻き込んだ。
昼飯が終わると、弥彦はまた来ると言ってさっさと帰って行った。そのことに安心しながらも、駒子は一抹の物足りなさを覚えた。
一週間後、那須西原に火が入れられた。
風が強ければ延期の予定であったが、幸い風は弱く最初の火元から立ち上った薄灰色の煙は緩やかに広がりながら南の空に消えて行った。
それを合図に、原野の数か所から火が上がりじわじわとその範囲を広げ、いつしか繋がり合い勢いを増し中央に向かって進んで行く。燃え盛る炎は子どもだけでなく、大人たちの気持ちも奮い立たせ、周囲はいつにない喧騒と歓声に包まれた。
両親と弟妹は、地平線を這うように燃える炎を遠くに見ながら歓声を上げていたが、駒子は少し離れたところに独りぽつんと立ち、ぼんやりと冬空を覆っていく灰色の煙を眺めていた。
前日、朝早くから竹造と弥彦は野火の思わぬ延焼に巻き込まれぬよう、畑の周囲に残る枯草の刈り取りを行った。そのとき弥彦は、刈り取りの手伝いに同僚だと言う一人の男を連れてきた。名を堀田三蔵といった。
三蔵は、精悍だがどこか田舎臭い弥彦と違い、瓜実顔の優男で喋り方もどこか都会風の上品さを帯びていた。母のハツは、あからさまに「いい男だね」と褒めそやしたが、太一は人見知りして弥彦にしがみつき顔を上げようともしなかった。そして駒子は、一瞥しただけで黙って家を出て父たちとは別の場所の草刈りを始めた。
黙々と手を動かしながら、駒子は頬が火照るのを感じていた。三蔵の姿を一目見た途端に訳が分からず息苦しくなったので何食わぬ顔で外に出たが、誰かに気取られるではないかと内心大いに慌てていた。それは、それまで父にも弥彦にも感じたことのない感情だった。それが他人を好ましく思う感情なのだろうと漠然と感じていたが、反面気持ちの片隅に、何かぞっとする冷たさを覚えていた。その意味するところは分からないが、駒子は朧気に感じ始めている大人の世界とはこのようなものなのだろうと考えていた。
それまで知らなかった感情の染みは、透明な水に一滴落とされた墨汁のように薄い膜となって広がり、駒子の心を侵して行く。胸の内に広がりゆく微かだが確実に色を持った黒い膜が、遠くに棚引く野火の煙と重なって見えた。
冬の終わりを告げるように連日吹き荒れた大風は、四月の声を聞くと嘘のように止み、地表にはどこに隠れていたのか様々な植物が一斉に芽吹き始める。
時を同じくして、那須野が原を見下ろす山の端にも変化が見え始めた。
那須野が原を見下ろす形で北から南に約一〇里に亘り隆起する関谷活断層の断崖には無数の祠が並んでいる。大小取り混ぜると数にして二〇を超えるが、それらの祠の注連縄が一斉に真新しいものに取り換えられ、長年眺望を遮っていた木々が次々切り倒されていった。
指示は、神道事務局から戸長役場を通じて周囲に連なる村々に労力の提供が命じられた。
同様に、各農場の主からも直接現場責任者に命令が下され、農場からは多くの男たちが駆り出された。崖を覆う高木は、軍事訓練で鍛え上げられた男たちの手により次々に切り倒されて運ばれ、麓から見上げると、崖の上にほぼ等間隔に祠や鳥居が並ぶのを目にすることができた。
この工事に携わるものは、誰一人その作業の意味も目的も知るものはなく、その理由を訊ねる者もなかったが、何か途方もない出来事が迫りつつあることは誰もが肌で感じていた。特に肇耕社の男たちは、いよいよ自分たちの訓練が実践に向け動き出すことを覚悟し、熱を帯びた視線を崖上に向けていた。
程なくして、山肌を覆う灰色の木々の枝が緑に縁どられ温んだ風に白や薄桃色の花が揺れる崖の上に、異形の姿が認められるようになった。明治以前はさほど珍しくなかったが、ここ十数年の間にめっきり姿を見なくなった山伏である。日を追うごとにその姿を目にする機会が多くなり、いつしかその数は五〇を軽く超えているようであった。彼らは数人単位で整備された神社に集まり日がな修行に明け暮れている様子だったが、時折一斉に移動して受け持つ範囲を交替するらしく、その際に吹き鳴らす法螺の音が一〇里に渡り鳴り響き、周辺村落の農民を震え上がらせた。
山伏の不気味な行動は二ヶ月に及んだが、梅雨の到来を待たずに潮が引くように姿を消し里山に再び平和が訪れた。しかし麓の村人は、申し合わせたように山伏が占拠していた山上の様子を覗きに行こうとはしなかった。季節は春から夏に移ろうとしていた。
厚い雲が日差しを遮り、触るものすべてが不快な湿り気を帯びる季節の初めに、ハツが倒れた。はじめは少し疲れがたまって体がだるいと言って笑っていたが、久しぶりに晴れた日の早朝、伸び始めた雑草を毟ろうと屈んだ姿勢のまま畑の上に崩れ落ちた。
すぐ傍にいた駒子の悲鳴を聞きつけ竹造が駆け寄り抱き起したが、ハツは朦朧として熱い息を吐き「ごめんね」と呟いた。
駒子が肇耕社の事務所に駆け込むと、中では権藤を囲んで数名の男たちが打ち合わせをしていた。駒子のたどたどしい説明を理解した権藤はすぐに弥彦を呼ぶように言った。作業場から呼びつけられた弥彦に、権藤はすぐにハツを大田原の医者まで連れていけと命じた。弥彦は事務所の納屋から大八車を引っ張り出すと、泣きじゃくる駒子を荷台に乗せ大急ぎで長瀬の家に駆けだした。
大田原まで一里半の距離を、荷台にハツを括りつけた大八車を弥彦と竹造が代わる代わる曳いてようやく医者の門を叩いたときには昼に差し掛かっていた。
ハツの診察を終えた医者は栄養不足からくる極度の貧血だと言い、心臓もだいぶ弱っていると付け加えた。
いつも快活に笑っていたハツの姿を思い起こし、弥彦はその笑顔の下に隠された辛苦のほどを思った。災難はいつも貧しいものに好んで降りかかる。弥彦はこの誠実で勤勉な一家が被る不条理に胸が締め付けられた。
弥彦は、そのままハツを入院させるよう竹造に勧めたが、竹造はそんな金はないと言って声を上げて泣き出した。弥彦は竹造を宥めて金は自分が事務所から借りて肩代わりすると言った。そのくらいの恩はこれまで十分に受けていると自分に言い聞かせた。
弥彦の申し入れは権藤に聞き入れられ、その後の手続きも権藤が引き受けてくれた。竹造は地面に額を擦りつけて権藤と弥彦に礼を言った。
ハツの入院は、子どもたちにとっても衝撃だった。泣きじゃくる太一と梅子を、駒子は懸命に宥めていたが、その健気な姿は余計に痛々しく見るに堪えなかった。
翌日農場の作業が終わると、弥彦は手土産をもって長瀬の家を訪ねた。
長瀬の家の竈からは炊事の細い煙が立ち上り、暮れ残った空に幽かな爪痕を引いているのが見える。畑を見回しても竹造の姿はなかった。
家の入口の筵を捲り弥彦が覗き込んでも、太一は床に大の字に倒れたまま横根で一瞥しただけで顔を上げようともしない。二人の姉は、黙って夕飯の支度にかかっていた。竹造の姿はどこにもなかった。どこに行ったのか訊ねると、駒子が沈んだ声で日銭を稼ぐため出仕事に行ったきりまだ戻らないと言った。
開拓地の住人は、生活を維持するために何かしらの副業に携わっている。あるものは周辺の古い村の耕作を手伝い、あるものは俵を編んでそれを大八車に積んで宿場町まで行商に行った。秋には山に入り栗を拾って売りに行き、冬には炭を焼いて売りに行く。そうして稼いだ金は、その日の食い扶持として消費され、蓄えは一向に増えない。そうした生活が幅を利かせ本来の開墾は二の次に追いやられ生活はますます苦しくなっていた。
竹造も例に漏れず、普段から隣村の養蚕農家に通い日銭を稼いでいると聞いていた。
「父ちゃんはまだ帰らないのか」
訊ねる弥彦に、駒子が答えた。
「母ちゃんのお医者代稼ぐって言って昨日の夜出て行った」
「昨日のうちにどこに行ったんだ」
「知らねえ、この辺りじゃ大した手間賃になんねえから、道路工事の人夫になるって言ってた」
確かに、土木作業の日雇いは農家の手伝いより実入りがいいが、長瀬の体力が持つのだろうかと、弥彦は心配になった。
「そうか。駒子も偉いな。母ちゃんの代わりがちゃんとできて」
弥彦の労いに、駒子は力なく笑って、鍋の中の薄い汁をかき回した。
弥彦は雑嚢に手を入れ、権藤が子どもたちに食わせてやれと言って持たせてくれた駄菓子を取り出し、太一の前に差し出した。
「権藤さんがくれたんだ。後で三人で食べな」
太一は、つまらなそうに包みを眺めながら、のろのろと起き上がり、弥彦に訊ねた。
「母ちゃんいつ帰る」
弥彦は、曖昧な笑みを浮かべて首を傾げて見せた。
「母ちゃん死んじゃうの」
そう訊ねる太一の頬に涙が流れた。
「そんなわけねえべ」
背後から駒子が大声で太一を叱りつけた。
太一は一瞬体をこわばらせ、すぐに火がついたように泣き出した。つられて梅子がしゃがみ込んでしゃくり上げた。
泣き続ける妹弟に目もくれずに、駒子は真直ぐ弥彦を睨みつけていた。
眼尻に涙を浮かべ見開かれた目には怒りが満ちていた。それは母の病や父の不在、泣き続ける妹弟に対するものではなく。もっと理不尽なものへの怒り、貧困や、不毛な労働を自分たちに強いる社会への怒り、それ以前に今この地上に自分が存在することの怒りが綯交ぜになり目の奥に渦巻いている。それが八つ当たりでしかないことは承知の上で、誰かにぶつけずにはいられぬ目だった。
弥彦は、駒子の怒りを全身に受け止めながら、どうしてまだ一四の娘がこれほどの怒りに苛まれねばならぬのか、その細い肩と小さな手に持て余す不幸を背負わねばならぬのかと、怒りとも悲しみとも知れぬ感情の高まりに体が震え出した。
「大丈夫だ」
そう言いながら弥彦は、泣き続ける太一を抱き上げて駒子と梅子に歩み寄り、太一を抱いたまま、土間に座り込んだ。
「大丈夫だ。母ちゃんも父ちゃんも、ちゃんと帰ってくる。誰もお前らを見捨てねえ。お前らみんな強いな。みんないい子だ。太一は優しいな。梅は働きもんだ。姉ちゃんを大切にして、三人仲良くな。おれもいるから。大丈夫だ」
そう言いながら弥彦は、太一を抱きしめ、梅子の頭を撫で、涙を流しながら駒子の顔を見あげた。
駒子は黙って弥彦を見下ろしていた。
その目は赤く染まっているが、さっきまで瞳の奥に渦巻いていた怒りの感情は影を潜め、代わりに戸惑いの色を浮かべている。弥彦の唐突な行動に驚いたには違いなかったが、何より地面に座り込んで憚りなく泣く弥彦の姿に呆れているようだった。
いつの間にか、駒子の肩からは力が抜け、握りしめていた拳は解かれ、きつく引き結んだ唇から小さな嗚咽が漏れ出し、涙が溢れた。自分でも驚くほどの涙が頬を伝い落ちて行く。駒子は泣くほどに気持ちが楽になって行くのを感じた。
そんな自分の姿を弥彦が見つめることに恥ずかしさを覚え、駒子は涙で濡れた頬を着物の袖で乱暴に拭いながら、ほんの少し頷いて見せた。




