口裂け 12
僕は病院に行った。なぜか口裂け女もついてきた。同じ指を同じタイミングで失った二人の患者に対して医者は戸惑いを見せたが、何はともあれ処置はすぐに終わった。僕の指は彼女の胃袋の中で消化されているだろう。晴れて僕は左手の薬指を失った。
翌朝、僕はいつも通りバスに乗って作業場へ向かった。いつもと違うことと言えば、口裂け女が隣に座っていることだ。
不思議なことに僕は彼女を拒絶しなかった。恐怖することもなかった。指を食べられたにも関わらず、一緒にいることに疑問を覚えなかった。これも思考の霧のせいなのかもしれない。
彼女は人前では樋口と名乗った。この機会に僕の名も明かしておくが、僕は楠間竜一という。僕の名を覚える意味はない。
作業中も樋口は僕の隣に座ってきた。単純作業中に、何度か僕に身体をくっつけてきた。邪魔とか恥ずかしいとか以前に、彼女は臭かったので、あまり近づいてきてほしくはなかったが⋯⋯しかし女性に近づかれたことのない人生だったので全く嬉しくなかったと言えば嘘になる。
家に帰ると、樋口は僕の部屋を掃除し始めた。僕はまぁまぁ部屋を綺麗にしていたつもりだったが、どうやらそうでもなかったらしい。僕はありがとうとだけ言って、それから布団を敷き、彼女と横並びになって眠った。
彼女はなんでもしてくれた。料理を作って、洗濯をして、ゴキブリが出たら退治してくれた。宗教勧誘は断ってくれたし、雨の日に傘を忘れそうになったのを注意してくれた。
それはある種の依存のような心を生んだ。
一ヶ月ほどの期間が過ぎた。生活が快適になるにつれて、僕の頭の霧は徐々に薄くなっていった。単純作業のなかで少しばかりの空想をするくらいの楽しみが可能になっていった。顔のむくみも少しずつ引いてきているような気がした。
彼女は僕の指を奪った代わりに、人生を豊かにしてくれたのかもしれない。
ある日僕は、与えられてばかりな自分を不甲斐なく思った。一ヶ月以上経ってやっと気づいたというのも恥ずかしいが、それだけ頭の霧が晴れたということなのだろう。
聞くところによると彼女は僕と同じような退屈な人生を送ってきたようだった。最近になって幽魔町に引っ越してきたらしいが、その以前から今と変わらない単純作業の仕事を繰り返していたとのことだった。
幸いなことに僕にはある程度の貯金があった。決して贅沢できる額ではないけれど、二人分の旅費にはなる。
⋯⋯そう。僕は彼女を旅行に誘おうとした。
しかし僕は僕自身の愚かさを理解している。いきなり人を連れて旅行など行けるはずがない。そもそも誰かを誘って出かけたことすらなかった。
だから僕はまず慣らし運転として、ある日の帰り道に商店街前のバス停で降りて、彼女と一緒に定食屋に行った。
「ずいぶんとボロボロなお店ね」と彼女は言った。それは事実だった。
料理が到着すると、彼女はマスクを外し、その大きな口を露わにした。
しまった。僕はなんてバカなんだ。口裂け女を飲食店に連れてくるだなんて。彼女自身は特段なにも気にしていないような素振りを見せたが、厨房の方を見ると、店主らしき人物がこちらをチラチラと見ているのがわかった。
「なあ、僕が悪かったよ。今日はもう帰らないか」
鋭い牙の間から乱暴に白米をかき込む樋口。僕の言葉にやっと気づいたかと思うと、「なんで?」とだけ聞き返してきた。
「いや、だって、その口を晒すことになっちゃうだろ」
「⋯⋯顔の醜さで言えば、あなたのほうがよっぽど酷いと思うけど」
「否定はしないけど⋯⋯きみの骨格は、そういう美醜の基準以前に人間離れしすぎているじゃないか。こんな狭い田舎では悪い噂になってしまうんじゃないのか」
「随分と論理的で落ち着いた話し方をするようになったのね」
「そうかな?」
「えぇ。前までじゃ考えられないくらいに」
改めて彼女の顔を見てみる。
彼女の歯茎が口の中からメキメキと伸び、太く長い舌が皿を持ち上げた。牙が皿を砕き、中身の白米ごと破片が飲み込まれるのを僕は見た。
「どうしたの?」
「いや⋯⋯⋯⋯なにも」
冷や汗が額から噴き出た。
彼女⋯⋯樋口は、こんなにもバケモノじみていたか?
動揺を隠すため、僕は樋口から目を逸らした。右の方向、厨房に視線を向ける。するとそこには、明らかに動揺した様子の店主がいた。瞳孔が開き、驚愕の表情を浮かべている。
「まずい」と僕は思わず漏らした。それがいけなかった。
僕の声に反応した樋口が店主の動揺を目撃。その後、彼女は厨房に乗り込んで、店主と若い店員二人の頸動脈をハサミで切断し、その死体を巨大な口でよく咀嚼し、飲み込んだ。




