日常回帰/02
神楽市は、南北に連なる成瀬川によって東西に区分され、その東手には住宅街、西手には工業地域、と単純かつ無骨な区分けとなっている。
そして、市を大きく縦断する成瀬川とは別の、もう一つ大きなシンボルがこの神楽市には存在する。
神楽山。
地域名をそのまま取ってきただけという、実に何の捻りもない真名を持つその山は、神楽市の中央部にゆったりと腰を降ろしていた。
これと言って高度が高いわけでも低いわけでもない、特に紅葉が綺麗というわけでもないという神楽山なのだが、いかなるわけか地元民には深く愛されていた。
おそらく、その理由の一端としては、そこで『青春』というときに青臭く、あるいは汗臭い、しかし未来永劫ともに輝き続ける友との大切な年月を過ごした住民達が多いからであろう。
そう、つまりは神楽山の中腹部には青春の代名詞とも言える高校が一つ建っている。
そしてそのOBたる地元民が、かつて自分たちの青春の日々を費やした土地を愛するのは、もはや当然のことであった。
「う〜、痛ててっ」
さて、そんな地元民たちが愛して止まない山間部の校舎の中。
一人の少年がキリリと痛む胃を抑えながら、苦渋の表情で廊下を歩いていた。
この少年の名を黒崎空雅という。
艶やかな漆黒の黒髪と黒曜石がごとく輝く瞳を持つ少年である。
「うがぁ〜」
朝。学校の始業時間より少し前の時間。
職員室から自らが所属する教室へと繋がる渡り廊下を歩く少年の口から軽い溜め息が漏れる。
その息は白く、実に頼りない。
そして何より空雅の表情は芳しいものではなかった。
当然いつものような慈愛に満ちた優しそうな、柔和な笑顔ではない。
その顔は哀感溢れるものでも寂寥感を感じさせるものでもなかったが、どこか諦観とも達観とも取れる仙人のような印象を与える……そんな疲れたような悟りきった表情だった。
空雅は痛む胃を抑えひた歩く。一路教室へ向けて、ゆっくりと確実に。
(この胃の痛みは心労から来るもの何だろうなぁ。後でベルさんから胃薬でも貰っとこう)
と、そんなことを考えながら歩く空雅ではあるが、言わずもがな心労の原因というのは大半がベル絡みである。
ベル自身は凄く可愛くて優しい良い子だ。勿論そういった意味では空雅も彼女のことは好きだ。
しかし、如何せん彼女はあまりにも特殊すぎたのだ。
普通の人のそれとは何もかもが違う。その違いを逐一咎める気はさらさらないが、ある程度は普通の基準と合わせなければ社会において円滑な生活など有り得ないのだ。
ともなると彼女には必要最小限とは言え、ある程度の常識は教えなければならない。そして彼女に人の世の常識というものを教えるという大義を果たすのは、当然の帰結として許婚にして同居人である空雅の役目だった。
(でも、やっぱ、普通の人と感覚がずれてるんだろうな〜……)
お世辞にもまともな感覚を持っているとは言い難い同居人のことを思い、空雅は微苦笑をする。
サンタと普通に暮らしている自分もどこか感覚がずれているとは微塵も思わぬ空雅である。
そんなことはさて置くとして、今ベルは空雅の隣にいない。勿論、前にも後ろにもその姿を確認することはできなかった。
というのも、転校生であるベルは原則として先に職員室に寄らなければならない。そして始業の鐘が鳴り響いたらば、教師に連れられて自分がこれから所属することとなる教室に案内されるのがこの高校での通例である。
そういった経緯で、無事にベルを職員室に送り届けた空雅はそそくさとその場を後にし、自らの教室に向かうのであった。
1年4組。
なんの装飾品もついていない簡素なプレートには黒字でそう書かれていた。空雅の所属する教室である。
ガラリとドアを開け、さっそく中に入った空雅は授業が始まる前の学生の早朝特有の騒がしさに思わず顔をしかめる。
そして一際騒がしい一団が自分の席の周りで群がっているのを見つけて、更に空雅は顔を険しくさせた。
「なにやってんのさ、錬」
「おっ空雅、今日は早いじゃんか。あの遅刻大魔王のお前が早くから登校してくるとは、あな珍しや」
そう軽い調子で返す男は空雅の親しい友人の一人でもある松江錬であった。
茶髪に染め上げた頭に軽薄そうな……もといノリの良さそうな雰囲気を醸し出す彼は完全な三枚目で役割で言うところのボケ。憎めないお調子者とはまさに彼のことであった。
「でも、ホンマ珍しいこともあったもんやなぁ〜。あの空雅がこんな早ようから登校するやなんて……」
このどことなく関西のイントネーションで話す少女の名前は橘佳乃。
やや気が強そうな猫のようなつり目に、黒髪を頭部で結い上げたポニーテールが特徴の女の子である。充分に美人の類に入るものであった。
「錬も橘さんも僕のことを何だと思ってんの」
ジト目の空雅は錬と佳乃を一瞥すると、そっと溜め息をつく。
「何ってアレだ。毎朝ラブラブのメイドさんに優しく起こして貰ってる豪邸の主だろ?」
「豪邸の主というところに異論はないけれど、あとは突っ込みどころ満載だよ?」
ニヤニヤと笑う錬に絶対零度の視線で返す空雅。
可愛くないものには超絶厳しい奴である。
ともかく錬が言った『ラブラブ』のところはさて置くとして、おそらく、いや十中八九確実に錬が言っている『メイドさん』というのは黒崎家家政婦のことであった。
いや、まぁ確かに彼女は黒地のワンピースの上にフリルの付いた純白のエプロン、頭の上にはカチューシャにしてはやや華美なヘッドドレスを身につけてはいるが、あくまでも彼女は家政婦なのだ。それ以上でも以下でもない。
「せやなぁ……、あと許嫁とかおったら完璧やのになぁ」
「!?」
何気ない佳乃の呟きに、思わず顔が引きつる。
つい昨日の朝、許嫁ができたのだ。空雅は乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。
「何が完璧なんだ?」
と、錬が首を傾げながら訊ねる。
「や、だってな。関西娘な女の子に、委員長キャラの紬やろ、それに王道のメイドさん。あと自分に足りへんのは許嫁だけやん、許嫁おったら完璧やで?」
(あっはっは、充分足りてますけどねぇ〜)
とは、死んでも言わない。何というか上手くは言えないが、言ってしまったら人として終わる気がする。
「それに橘さんは僕を何だと思ってんですか。僕は一体どこのギャルゲーの主人公なんです?」
「え、ちゃうかったん?」
驚いたような心底意外そうな顔の佳乃に、同じく間違えて碁石を飲みこんだような顔の錬。
この両人の反応で空雅の第三者からどういった認識を持たれているか一目瞭然であった。
「いや、空雅と言えば吐き気を催すほどの優しさでいつの間にかフラグを立てている、とかそんな感じだろ」
「むぅ……」
錬の言葉に空雅は若干顔をしかめてみせる。
が、確かに錬の言うことは正しかった。
この空雅という少年は一部の女の子達からは物凄く人気がある。この空雅という少年は知っての通り『可愛いもの』に目がない。詰まるところが意識的にせよ、無意識にせよ、可愛い女の子にはべらぼうに優しいのだ。
そして当然、その逆も然りで、そうではない子にはわりと厳しい。
つまりは女の子達にとって黒崎空雅という少年は一種の登龍門とも言えるものであった。
空雅に優しくしてもらえることこそが、『可愛い』という何よりもの証。
空雅に認めてもらう為に、可愛いという証を得るために。日々美容を追求する乙女達も少なくないという。
そして、その結果として女子達は空雅に認めてもらうために必死に磨きをかけるので、空雅が所属するクラスは毎年のことながら可愛い子やら綺麗な子が揃うという逸話が残されているのだった。
まさに生きた伝説。
男子生徒側としても女子が綺麗になるのは歓迎すべきことなので、空雅様々と言ったところだろう。
「ちゅうわけで、自分は確実にギャルゲーの主人公やん」
うんうん、と腕を組んで頷く関西娘。
この娘こそが初めて『登龍門』を見事に看破した少女でもある。
もっとも無自覚のうちに看破していたのだが……。
「だから、僕はギャルゲーの主人公じゃないってーの。フラグを立てた覚えもないしさ」
空雅は反論を試みる。
フラグを立てるとか立てないとか言われても、全く身に覚えはないのである。もはやこの抵抗は必然であった。
「でた! ギャルゲー主人公スキル『恐ろしいまでに鈍感』!」
「せやなぁ、実際にウチはフラグ立てられとるわけやし……」
が、そんな弱々しい反論などどこ吹く風よ、とばかりに一蹴。
錬は失礼極まりない上に、佳乃に至っては何やら気になる発言を残している。これ以上何を言ったところで無駄であろうということは容易に理解できた。
「皆さん、朝から騒がしいですよ?」
と、そんな言い争う三人組を窘める軽ろやかなソプラノが背後で響く。
空雅達が振り向くとそこには一人の女子生徒が眼鏡の弦を抑えて立っていた。
黒縁の眼鏡に三つ編みがトレードマークの少女、進藤紬である。
知的な印象を与えるその少女についたあだ名は委員長。品行方正にして成績優秀、そしてこの少女も佳乃と同じく『登龍門』をくぐり抜けた数少ない乙女の一人である。
勿論、自覚はないのだが。
「元気なのは大変良いことです。しかし、ここは公共の施設、学校であるということもお忘れなく。少しは自重すべきですね」
紬はキラリと眼鏡を反射させながら淡々と喋る。
はてさて、何故この少女が委員長のようなことを言っているかというと、それは委員長だからである。決して委員長はあだ名だけではないのだ。
「おや? 黒崎くん、今日は早いんですね」
小首を傾げながら詮索するような目つきで空雅を見る紬。しかし、今日に限って空雅が早く来た理由が解らない。
「そういう紬こそ、今日は随分遅かったやん。どないしたん?」
佳乃の言う通り今日の紬はいつもの登校時間に比べてかなり遅いものであった。
いつもであれば、「一番に来て、教室のカギを開けるのも委員長の仕事です」と、クラスで最も早く登校していたのに今朝はどういったワケか遅かったのだ、佳乃が疑問に思うのも無理はないというものだった。
「いえ、学校自体にはいつも通りの時間に登校していたのですが……。少し職員室で呼び止められてまして」
「呼び止められる? 進藤がか?」
思案顔で首が取れそうなほどに首を傾げる錬。
本当に首が取れたら面白いと思う。
「面白くねぇよ! 相も変わらず男には容赦ねぇな、空雅!」
即座にツッコミ、そして文句を一つ。
これを反射的にこなしてしまう辺り、錬の芸人レベルが伺える。
「まぁ錬はさて置くとして、進藤さんはどうして先生に?」
「……マジでひどいな、空雅」
もはや無視。完全に錬をアウトof眼中にした空雅 は優しい笑みで紬に訊ねる。
「いや、どうも転校生がこのクラスに来ることになったみたいでして……」
(……このクラス?)
ピキリ、と空雅の頬が引きつる。
「それで、その子は女なのかっ!?」
「錬、がっつきすぎやで。自分どんだけ飢えてんねん、見苦しいで?」
「いえ、性別は解りませんでした。顔もよく見えなかったもので……」
固まる空雅をよそに、錬、佳乃、紬は会話を続ける。
空雅のおかしな様子に気づくものはまだいない。
──その時、始業のチャイムがなった。
席を立っていた生徒は自席に戻っていく。
ガラリ、と扉が開いた。
人が二人、中に入ってくる。
一人は空雅達の担任。
そして、もう一人は天使のような容姿であるベル……ではなく。
そこにいたのは一体の“西洋甲冑”であった。
黒崎空雅の受難の日々はまだ始まったばかりのようだった。
うにゃ。
つ、ついにストックがきれました〜><
これからは更新ペースが落ちるかも……。




