ファンファーレ
雨が降っているのは予想通り。
俺は前もって準備していた合羽の上下を装備し、雨の府中駅の前で花蓮を待った。待ち合わせ時刻である11時ちょうどだった。
「あ~翔太!もう来てたんだ!待った?」
11時を5分すぎて花蓮が現れる。
花蓮も雨合羽に長靴というスタイルで現れた。少女趣味とすら言える出で立ちだったが、彼女にはよく似合っている。
花蓮の手が冷たくて、俺は繋いだ手に息を吹きかけた。
「全然。俺も今来たところだよ」
「翔太も合羽着て来たんだねぇ」
「天気予報では雨ってなってたからね。急いで買って来たんだよ」
合羽を買った経緯には、若干の嘘が混じっている。雨が降ると分かったのはmodで見たから。従って急いで買ったのではなく、前もって通販で手に入れたものだった。
「じゃ、行きますか!」
「かわいいお馬さんが待ってますよぉ!!」
揃って合羽を着た俺達は、はしゃいだ子供のように競馬場へと向かった。
完全装備を豪雨が叩きつける感触は童心に返ったようで面白い。
何度も見た道のりだったが、やはり実際の経験には代えがたいものがある。
「また外れた―!」
自嘲気味に叫んだ俺の横で、花蓮が破顔している。第十レースのもみじおろしステークスまで全敗したが、花蓮があまり心配していないのは、俺に必死な様子があまりないからだろう。
レース中ずっと繋いでいた花蓮の手は、ずいぶんと暖かくなっていた。
「もう。翔太はすぐに熱くなってぇ。お金が貯まらない人の典型だよ。いくら負けたの?」
「三千円位かな?」
「まあ、それ位なら許容範囲かな?競馬はほどほどに賭けて楽しまないとね」
「そういう花蓮は結構勝ってるじゃん」
「私のお馬さん愛を舐めるなよ~!」
俺は財布が痛まない程度に負けていた。
第十レース以降の着順しか憶えていないので、勝ちたくても勝てない事情もある。
でも大丈夫。一レースあたり数百円という少額なので、そこまでテンションが落ちることは無い。
「天丼賞で取り返す!見ておれ!」
「じゃあ、次のレースの馬券を買いに行ってみよ~!」
いつか見た花蓮のリアクションとは若干異なっている。
現実は良い調子で進んでいるみたいだ。
天丼賞の券売機に並ぶ列は決めてあった。
最後尾に並んだ俺の前にいる人は、落ち着かない様子でクシャクシャになった封筒の中身を数えている。
俺はその人物に近寄り、なるべく警戒心を与えないよう注意しながら話しかけた。
「随分と張り込むんですね?どの馬に賭けるんですか?」
突然声をかけられたその人は、俺の方を見て一瞬訝しい表情をした。
「あ、ええ。お恥ずかしい話ですが、一世一代の大博打ってやつでして…」
そう、俺が声をかけた男性は、ある時は雨に打たれるゾンビとして花蓮から電車代を与えられ、またある時は落ち着かない様子で券売機の列に並んでいたあの人だ。
聞くと、天丼賞の一レースに百万円近い金を賭けようとしているらしい。
ちなみに、一番人気からの馬連に賭けるつもりとの事。
このままだと、この人は大金をドブに捨てる未来が待っている。
「それは大勝負ですね~。でも、この天気だと荒れたレースになるんじゃないかな?ねぇ花蓮?」
俺は、この後ゾンビと化す哀れな男を、人の姿で止めるべく行動する。
花蓮に話題を振ったのもそのためだ。
素人の勝敗予想よりベテランの慧眼に期待した。
「そうねぇ…あのお馬は、重馬場だと途端に順位が下がる傾向にありますよ。うん、絶対あのお馬は来ない」
ベテランの花蓮は、俺の思惑を補強してくれた。
一番人気の馬は負ける。
それはもう、絶対負けると断言できる。
「え?そう言われてみれば…」
案外人のよさそうなゾンビ候補は、花蓮の話で少し考え込んでいるようだ。
よし、もうひと押し。
「とても失礼なのですが百万円というのは、負けてもいいと思える額なんでしょうか?」
前もって断っているとはいえ、失礼な質問だろう。
『あなたはお金持ちなんですか?』と、聞いているのと同じだ。
「い、いや…恐らく、この勝負で負けたら、私は自殺を考えます」
自殺とは穏やかではない。俺が前にmodで見たシーンでも相当なショックを受けていたからな。
「なら止めときましょうよ。後悔してからじゃ遅いです。お馬さんもドン引きですよ~」
「………そうですね。おっしゃる通りです。あなたたちの様子を見たら、なんだか正気に戻ったような気がします。止めておきましょう」
花蓮が屈託のない笑顔で放った一言が、この男の人を思い留まらせたようだ。
俺達は数百円ずつ賭け、そろって天丼賞を観戦した。
三人とも外れた。
わざと外した。なんか、当てちゃうと、流れ的に微妙な感じになる予感がしたから。
負けは負けなのだが、悔しいのとは少し違う。
それでも気のよさそうなおじさんが、死にたくなるようなストレスを受けずに済んだのだから、目的は達成したと言うべきだろう。
当然ながら、花蓮が男の人に電車賃を恵んであげるような展開にもならなかった。
◇◇◇◇◇
話は遡り、戦慄の動画を見た後に慌ててコメントを元に戻した時。
天丼賞で大勝したものの、小麦色の妖怪になり、暴漢に刺され、花蓮を簡単に捨て、脳外科医からは簡単に捨てられた未来を見た俺は、modの編集機能を使って殺伐とした未来を元に戻した。
『花蓮と競馬に行く 2018/10/28 11:05』
未来を元に戻した俺は、自分に起こる出来事をmodに穴が開くほど観察した。特に、四十二歳を目前にして脳腫瘍で死んだ経験があるので、この辺りを重点的にチェックした。
死んだ経験があるっていう表現はずいぶんおかしいが、こうとしか言いようがないので放っておいてほしい。
とにかく、元々の未来を確認する限り、この医師が俺にとって命の恩人なのは間違いない。
大量のコメント欄からそれを見つける事が出来た。脳腫瘍で死んだのは1991年生まれの俺が四十二歳になる目前の出来事だったので、おおよその的を絞って探すことができたのが幸いした。
『脳腫瘍と診断される 2032/11/10 10:13』
年に一回、会社で強制的に受診させられる人間ドッグにて、俺の脳に異常が見つかる。
ドッグの結果は、脳のMRIで影が映っているとの診断で、即座に専門医を受診せよとの内容だった。
ちなみに、このコメントを編集しようとしたが出来なかった。
診断したのは医師なので、他人の運命は変えられないようだ。
ヘルプの意味が初めて分かった。コメントの文字色が黒と灰で別れているのもこのせいだ。
『脳に影』
そのフレーズは我が家を戦慄させた。
娘も生まれている。まだ幼い子を残してこの世を去るわけにはいかないだろう。
その頃の俺はコールセンターで少しばかり出世した、働き盛りのお父さんだった。
大黒柱に降りかかった大病の兆し。このような場面で、花蓮は落ち着いているタイプではない。専門医に診てもらうため総合病院を訪れる際には、顔を強張らせた花蓮が同伴していた。
「脳腫瘍がありますね~」
細部は異なれど、この年代に脳腫瘍を患うのは俺の運命のようだ。
バカボンのパパと同い年の俺に、脳外科の吉田医師から飄々と魔の宣告が下された。
「不可能ではありませんが、大手術になります。かなり困難なオペになるので、誰でもできるものではありません」
「この病院ではできないんでしょうか!?」
即座に聞き返したのは花蓮だった。
「私にもできる手術ですが、残念ながら年内のスケジュールは厳しい状況です。それまで佐藤さんの体がもてばいいのですが…」
「そんな!!何とかならないものでしょうか?」
と、そこで花蓮の語気に怯んだのか、吉田医師がカルテから顔を上げた。
「すいません。以前どこかでお会いした事がありませんか?」
「?」
唐突な吉田医師からの言葉に、首をかしげる花蓮。
しかし、花蓮の戸惑いをよそに、吉田医師の頭に何かが閃いた。
「そうだ!あの時!確か2018年秋の天丼賞!電車賃を差し出してくれた女性ではありませんか?」
「はぁ…そんな事もあったような…」
「いや、間違いない!あの時の方だ!いつか会えたら、是非ともお礼を言いたいと思い続けていました!」
「え~っと…今はそんな事より、主人の手術のスケジュールを…」
もう俺から説明はいらないかもしれない。なんという偶然なのか、この吉田医師こそがゾンビの正体だったのである。
小さな縁ながらも、ここが突破口と見た花蓮は吉田医師に食い下がった。
「先生にとっては取るに足らない命かもしれません。ですが、私と娘にとっては、かけがえのない大切な家族なんです。私にできる事ならば何でもします。どうか、なにとぞ、主人の手術を引き受けてください。この通り、お願いします」
そう言うや、花蓮は病院の冷たい床に額をこすり付けて懇願した。
画像がぼやけて、時折視界をこする手が見える。
泣いているようだ。
もちろん、動画の俺の気持ちは分からない。
だが、死の宣告に怯えて泣いているわけではないだろう。
動画の中の俺は、花蓮を抱きしめていた。
「ありがとう。花蓮がここまで俺を愛していてくれたなら、それだけで幸せな人生だったって思えるよ」
画面からは、嗚咽を噛み殺しながらも真摯な声が響いている。
恥ずかしいような、臭い演技のようなワンシーンかもしれない。
だけど、あの動画を見た後だから分かる。
あの時の、感情のこもらない上滑りな会話とは全く違う。
これは俺の本心で、どこまでも血の通った言葉だった。
驚いたことに、どうやってスケジュールの都合をつけたのか、吉田医師はその年の暮れに俺の開頭手術を成功させた。
ほとんど花蓮に救われたようなものだ。彼女には感謝してもしきれないだろう。
こうして未来の俺は、厄年という第三コーナーをどうにか乗り越えたのだった。
◇◇◇◇◇
「え?難病の子供の手術費用ですか!?それって、今ニュースになってる愛理ちゃんの手術じゃないですか!?」
心底驚いたという風に、花蓮が目を真ん丸に開いて問い返す。
そういえば、そんなニュースもやっていたな。そうか、難病で苦しむ子供は愛理ちゃんというのか。
天丼賞の帰り、府中から学芸大学に三人で移動し、駅前の店でホルモン焼きを食べながらの会話である。
ゾンビ改め吉田医師は、ホルモンの各部位を詳細に解説してくれた。
以前見た動画では、俺達は聞いた事の無いホルモンの名称で盛り上がったが、流石はお医者さん、その知識は半端じゃなかった。
何せ吉田医師はメニューの写真を見ながら「横隔膜と、肝臓、直腸もいっとこうか?」なんて、全て臓器の名前で注文をした。
その後食べることを考えてちょっと引いたけど、それはそれで盛り上がった。
「はい。私は脳外の専門なのですが、心臓病に苦しむ子がいまして。そういう話って医師仲間から伝わってくるもんなんです。費用なんですが、ご家族と支援者が頑張ってもどうしても足りませんでした」
「でも、どうして…?」
俺を置いて花蓮が質問攻めにしている。
当然の疑問だろう。赤の他人の手術費を捻出するために、負ければ自殺を考えるような勝負に出なくてもいいと思う。
「何で…か」
吉田医師は遠い目をしてはにかんだ。
「私もいい歳になって、最近色々と考えるようになったんです。私は何のために医者になったんだろうって。子供の頃からの夢でした。その頃は、人の命を救うヒーローに憧れてたんでしょうね。でも、大人になって現実を知った。脳外科医の私には心臓の手術は出来ないし、お金が無くて散っていく命を何度も見てきた。愛理ちゃんは小児科なんで、脳外科の子供を診察した時に懐かれちゃってねぇ…」
炙った豚の横隔膜をホッピーで流し込んだ吉田医師は、一回だけしゃっくりをした。
「特に気持ちが萎えるのは、子供の死に直面した時です。それを考えれば、たかだかの私財など惜しくはありません」
「………」
花蓮は絶句している。と思ったらダバーっと泣き出した。
彼女の涙が言っている。この人は聖人だ。
ゾンビにすら電車賃を出してやるような花蓮だ。聖人の言葉は俺とは違ったニュアンスに響いているのかもしれない。
だが、俺はこのお医者さんの人となりをよく知っている。
そりゃもう、マジでよく知っている。もはや他人とは思えない。
「立ち入った事をお聞きするようですが、その子の手術費用はいくら足りないんですか?」
「ご両親や救う会の人達も頑張ってはいるのですが、あと一千万円ほど不足しています。正確には、私が賭けようとしていたお金はそのまま救う会の基金に回しますので、九百万円ほどでしょうか」
天丼賞では、一番人気からの馬連オッズは確か九百円そこそこだったと思う。
この人は賭け金が無くなるのではなく、当たらなかった結果、愛理ちゃんが助からない事を恐れていたんだ。
自殺を考えるほど、競馬で外したらゾンビみたいに落ち込むほど、一人の女の子を助けたかったんだ。
「うわっ!大金ですね~!」
花蓮は大げさに驚いている。彼女は表現というかリアクションが非常に大きい。
「不足している額は小さくありませんが、支援者に呼びかけるとかして頑張るつもりですよ。お二人のおかげで、少ないながらも手術費用の足しにできますしね。あのまま賭けていたら、この百万だって消えていたところです」
どこか吹っ切れた表情で吉田医師が告げた。
「私も出来る事があれば何でもします!そうだ!これ、少ないですけど、今日私が競馬で勝ったお金です。愛理ちゃんのために使ってください」
目に熱いものを溜めた花蓮が、今日の稼ぎを差し出した。
「よっし!じゃあ俺からはここの店のお勘定を支援しましょう!」
俺だって、こんな良い話を意気に感じないわけじゃない。
微力ながら後方支援させていただこう。
「え~!翔太が奢ってくれるの?今日のレースだって負けっぱなしだったじゃない?どこにそんなお金あるのよ!?」
自分は愛理ちゃんに寄付するのに、俺が居酒屋を奢るのはナシなのかよ!
『俺の財布の中身を気にするなんて、ワイフになってからでも遅くないんだぜハニー』
なんて言う筈も無く、曖昧に濁す俺。
「ナイショ!」
「もう!翔太ったらお金遣いが荒いんだから!」
未来の妻は厳しいねぇ。