第十章 からっぽ①
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気がつくと俺は、目の前に広がる煌びやかに瞬きをする夜景を笹野と二人で眺めていた。
「綺麗ですねぇ…。」
そう夜景よりも瞳を輝かせる笹野の両腕には、先程俺が差し出した向日葵たちが抱きしめられている。
成功したんだ……。さっきのは………夢だったんだ…。
笹野の嬉しそうな笑顔を見て、俺はそう気づいた。
枯らさないように、慎重に優しく抱きしめている笹野に、安堵で不意に腰が抜ける。その場に倒れ込む前に、咄嗟に笹野が俺を抱き抱えてくれた。
その拍子に、薄桃色の包装紙で包まれた向日葵の花束がポスッと地面へ落っこちる。
「びっくりした…。どうしましたか?碓氷さん。」
心配そうな笹野の声に再び安堵して、俺は頼りなく柔らかい腕に支えられながら立ち直した。
「悪い……。変な…夢を見たんだ……。」
「『変な夢』、ですか?」
「うん…。」
「それは……どんな夢ですか…?」
「……笹野に………振られる夢だ。」
成功した今でも不安を感じてしまっている自分を嘲笑して答える。現実じゃなくても、「笹野に振られる」という単語を口にするだけで怖くなる。
そんな俺を、笹野はゆっくりと抱きしめてくれた。バニラと石鹸の安心する香りが強まる。
安心する愛おしい声が、俺の耳に響く。
「もう忘れましたか碓氷さん?さっき、『私もずっと大好きでした』って言ったじゃないですか。もう、碓氷さん以外の人なんて好きになれませんよ。」
囁くような柔らかい声に、俺はふと思う。
……「私もずっと大好きでした」なんて、言っていただろうか…?
夢だったと勝手に思っていたが……いつ…………俺は眠ったんだ…?
そんな疑問を抱いている俺の視界の端には、冷たい地面に横たわっている花束が見切れている。
拾わないのか……?
そういえば、声や香りはリアルだが……抱きしめている笹野の身体は冷たいままだ。それも、「寒さ」の所為なんかじゃない。もしこれが寒さならば、とっくに域を超えている。
まるで……雪を抱きしめているかのように冷たく、触れている感触が無い…。
俺の瞳は、未だ向日葵の花束を捉えたまま。
虚ろな目で見つめていると、その向日葵はバグが起きたかのようにジリ、ジリジリと音を立てて黄色のチューリップや、ミヤコスワスレ、アネモネなど幾つもの花に変わっていった。
そして最後には……桃色のアスターが灰のように枯れ、静寂の風に乗って散ってしまった。
その刹那、抱きしめていた筈の笹野が見えなくなって俺は前方へよろける。
「さ…さの…?」
何度も呼んだ名前が、震えた声で勝手に零れ落ちる。
辺りを見回すと、先程の美しい夜景とは打って変わって、そこは何も無い無機質な暗闇であった。
「――ささのっ!!」
嗄れた自分の声で俺は目を覚ました。
頭に鉛でものしかかっているような重みを感じる。
地元・下川に肌着一枚で立っているみたいに寒くてブルブルと全身が震える。
何か固いものが居座っているかのように目の奥が痛む。
ゴホゴホと零れる咳は、渇ききった喉を痛めつけるには充分な勢いを持っていた。
いつの間にか自宅のベッドで眠っていたようだが、辺りを見回してみるとそこは見慣れたいつもの整頓された部屋では無く、荷物やゴミが放置された汚い部屋。
そうだ……。昨日は片付ける気力も無くてそのままベッドに飛び込んだんだった…。けれど、眠ろうとしても苦しさや涙が溢れてきて眠れなかったんだ…。
束の間の睡眠で、あんな最悪な夢を見るなんて…………。
そうやって思い返してしまえば、何度も何度も頭の中で繰り返された笹野の絶望した顔が、震えて詰まったような声が、もう一度頭の中を駆け巡る。ごちゃごちゃと混ざった様々な負の感情が、胸の奥で再び沸き上がってくる。
昨晩、帰ってきてから涙が止まらなかったことを証明するかのように、触れた枕はびっしょりと濡れていて、涙で濡れたティッシュがベッドの上から溢れ落ちていた。
俺の心の中から……または身体の中から、何か大切な大きなものが抜けていってしまったような喪失感や絶望感が重苦しい頭に居座り、気持ちが悪い。
ふと昨日が日曜日だったことを思い出し、慌ててスマートフォンを手に取ると、ロック画面には「11:26」という数字が並んでいた。
出勤時間をとっくに過ぎている。そのことには直ぐに気づいたのに、俺の身体と精神には動く気力なんて全く残っていなかった。
もう、今日は休んでしまおう。
職場へ休みの連絡を入れると、ゴホゴホと喉が焼けるような咳をして、ベッドにもう一度倒れ込む。恐らく昨日のイルカショーで濡れたまま放置していたから風邪でもひいたんだろうと、呑気に考えつつも俺はスマートフォンを開いた。
昨晩、帰って直ぐに送ったメッセージに返信が来ていないかトークルームを無意識に開く。
『今日は困らせるような言って本当悪かった。家には無事帰れたか?心配だから帰ったら連絡して欲しい』
当然、返信は愚か、既読さえついていなかった。
……もう………笹野は…俺と関わる気は無いのだろうか………。そう思うと自然にまた、涙が溢れてくる。息が吸えなくて過呼吸状態になるが、泣いているからなのか高熱の所為なのかもわからなかった。
どうして……あんなに脈アリかと思わせるような言動をしていたのに振ったんだ…。
どうして………笹野は告白したときに嬉しそうな顔を見せたんだ…。
どうして、笹野はあんなに苦しそうな顔を………。
どうして俺は、笹野の気持ちをわかってやれなかったんだ…。
そんな、幾つもの疑問が頭を巡り続ける。
そうしていると、例え寝転がっていたとしても体力や精神も削られていく一方で……俺の意識は朦朧としてきて……
あぁ…………やばいかもな……これ…。
俺は、そのままベッドの上で気を失った。
どれくらいの時間、気を失っていただろう。パチッと目を覚ますと……
「うわっ?!!」
誰かが俺の顔を覗き込んでいた。
最早ホラーの事態に思わず俺は物凄い勢いで後退りをして、後方の壁へ頭をゴンッとぶつける。
離れたことで視野が広がり、漸く俺の顔を覗き込んでいた人物が誰か把握することができた。
「岸本っ…?!!なんでお前勝手に!!」
と声を荒らげたところで、ゴホゴホと嫌な咳が炎症を起こした喉を通って飛び出す。
「あぁ怒らんでええ、って……え?!覚えてへんの?!」
「……なにが…。」
岸本の無駄に騒がしい声が頭に響く……。しかし、岸本はそんなの全く気にしない様子で答えた。
「電話かけてきたん碓氷やろ!今にも死にそーな声で『助けてくれ』て!俺っ…俺、碓氷になんかあったか思て急いで遠藤に電話してっ……住所教えてもろてここ来たんよ!けど……開いてへんでっ…今度は遠藤んとこ行って合鍵もろうて、やっとの思いで来たんや!!やっと家着いて家上がったら、あんた『はぁはぁ』言いながら魘されとるし……病院連れてこ思ても保険証見当たらんしっ、ただ………濡れたタオルをデコに載っけることしかできんくて……俺がどんだけ心配したかっ!どアホ!!助け求めるんはもっと早くにせい!!」
今にも泣きそうな勢いで岸本はそう俺へ訴えた。
岸本がこの家に辿り着いてから、相当時間が経っている筈なのにコートは身につけたままで、本当に心配だったのがわかる。
「………お前、仕事は…?」
「あぁ?!仕事やと?!んなもん早上がりしたに決まっとるやろ!!」
「…そう……なのか……。」
仕事を早退してまで来てくれただなんて……申し訳無い…。俺の所為で……。
胸の奥から罪悪感が沸き上がってきた俺は、ついこんなことを言った。
「……仕事戻れよ…。俺はもう大丈夫だから……。」
笹野のことで気が動転していたこともあるのだろう。つい、俺は「ありがとう」も「ごめん」も言わずに、そんな不躾なことを言ってしまった。
けれど、岸本は呆れて帰ることは無かった。
「大概にせえやどつきまわすぞアホ!!」
と怒鳴って、本当に右フックをかまされた。
おかげで左頬にバコンと衝撃が走り、吹っ飛ばされた拍子に俺はもう一度壁に頭をぶつける。
「いっ…」
「なんやねん自分!!!ふざけとんのか!!大丈夫な訳ないやろ!!!そんな『はぁはぁ』声洩らして!目も真っ赤に腫らして!!咳もゴホゴホ出すしデコもむちゃくちゃ熱いし!!!仕事なんて んなもん、どーでもええねん!!俺は!!!友人がピンチだから助けに来たんや!!!」
「ゆう、じん……。」
岸本の口から出た思いもよらない言葉を、俺は無意識に繰り返していた。そんな俺に、岸本はショックを受けたように騒ぐ。
「も…もしかして、俺のこと友達やと思うてなかったんか?!」
「え……?うん…。」
「うっ…嘘やろ……。むちゃくちゃ俺悲しいやん…!!ずっと俺は友達かと思っとったよ?!合コンのときから…!!」
そんなアホな顔を見ていたら、頭や喉の痛みなんか吹き飛んだ。
「ははっ、冗談だよ。復唱したのは嬉しかったからだ。岸本は、数少ない俺の友達の一人だ。」
それでも胸の痛みは消えなくて、俺は掠れた声で力無く笑った。岸本は俺の笑顔を見て、目を丸くする。
「……碓氷もそんなふうに笑えるんやな…。」
そして、あの日と同じように優しく笑う。
「明香里ちゃんのおかげやな。なんや、頑張れば素直になれるやんか。」
「明香里」という名前に俺は胸を抉られる。
ずっと呼びたかったその三文字を聞くだけで、様々な想いが再度頭を駆け巡り始める。それは、血管を通して心臓から全身へと広がり、俺という人物を新たに構築する。
「さ、しんみりもええけど、今は体温計るで。体温計どこにあるん?」
「あ、あぁ…その引き出し…。」
また笹野のことを考えてしまいそうになっていたところ、岸本に問いかけられて意識は少しは逸れたが、勿論 完全に消えることなんか無い訳で……結局は自分を苦しませるばかりであった。
「てかなんやこの部屋、汚ったないなぁテッシュくらい捨てたらどうなんや。」
なんて言いながら、岸本は俺が指さした引き出しを開ける。
「……そんな体力ねえよ…。」
「ただ腕動かすだけやろこんなん。俺は捨ててやらんからな?人の汚物包んだティッシュなんか触りたないで。」
「馬鹿か、涙だよ。」
と、ツッコんだ瞬間、岸本は顔を上げた。
ハッとして悲しそうな目で、俺を見つめている。
「やっぱ……泣いてたんやな…。」
くっそ…嵌められた……。
目の前で立ち尽くしている岸本から体温計を奪いつつも、顔は合わせないようにして脇に挟む。
けれど……
「………フられ、たんか…?」
顔を合わせないようにしたところで、他人との距離感がおかしい岸本が何も訊いてこない訳が無かった。
岸本が口にした所為で、「振られた」という事実が再度俺に重くのしかかる。
振られたときの瞬間が――俺の頭に繰り返し映し出されては消えていく。けれど、今回はそれだけでは無い。
笹野の無邪気な笑顔や怒ったときの真っ直ぐな瞳、しおらしい泣き顔、無防備な寝顔、柔らかい声、キラキラと希望で満ち溢れているエメラルドの瞳、風に靡く顎先まで伸びたオレンジゴールドの柔らかい髪、バニラと石鹸の甘く優しい香り、安心させるように囁く優しい声、白くきめ細やかなマシュマロのように柔らかい肌、偶に見せる半目の阿呆らしい寝顔、映画を観ているときの真剣な表情、美味しいものを食べるときの蕩けたような笑顔、人参を食べるときの微妙な表情……これが見たくてわざと手料理に人参を出したこともあったっけ…。
そんな、笹野の愛おしい全てが頭の中で走馬灯のように浮かんでは消えた。
「……っ…」
どうして、態々思い出すようなことを言うんだこいつは……。
溢れ出てくる涙を拭い続けていると、岸本は微笑んで言う。
「こうやって泣いて全部出すのも必要なんやない?今は寝た方がええけど、治ったら幾らでも話聞いたるから。」
泣いても泣いても全部が出るわけ無いだろ…。
そう心の底から腹が立つのに、聞いてくれる相手がいるという現実に俺は何故か酷く安堵した。別に、聞いて貰ったところで心が楽になる訳でも無いのに。
もしかしたら、いつでも頼れる存在がいることが嬉しかったのかもしれない。
いつの間にか計測終了の合図が鳴っていた体温計を、岸本は受け取ろうと手のひらを見せる。
涙を袖で拭って渡すと――
「はぁ?!!!」
岸本の騒がしすぎる声が部屋に響いた。
耳がキーンと音を立て、頭に鈍い痛みが走る。
「…うっさ……何だよ急に――」
「四十二度…!!!碓氷っ、ヤバいで死ぬで?!そら気も失うわ!!今すぐ病院行こ?!!!」
「四十二」…?
「あー……やばいなぁ…。俺…死ぬかも……。」
なんか逆に午前よりも楽になってるし、感覚が麻痺してきているのかもしれないな。
「『やばいなぁ』ちゃうねん!!ほら病院行くで!!!動けるか?!」
「うぅん……動きたいのはやまやまなんだけど、からだがおもうようにうごかな――」
「やろなあ?!おっしゃじっとしてろよぉ?!」
とか頭に響く大声で騒いで、岸本は俺の腰を思い切りホールドして、そのままの勢いで担いだ。おかげで頭がぐわんぐわんと揺れ、再び気を失いそうになる。
絶対病人にする担ぎ方じゃねぇ……。
と、吐きそうになったところで、俺の脳は一時的に停止した。
目を覚ますと、俺は変わらず自分のベッドの上にいた。焦げたような匂いが鼻を掠める。
ゆっくりと布団から起き上がると、岸本が直ぐに俺に気がついてこちらへ歩いてきた。
「目が覚めたんやな。」
「あれ…びょういんは……?」
具合は先程と変わらないが…。
「結局、解熱剤しか貰えなかったんよ。医者に『この人の身体は通常の人間の二倍くらい強いので、あと二度くらいは大丈夫です』って言われて直ぐ帰された。アイツ絶対ヤブ医者やで…。『ありえんやろ』って抗議したんに、全っぜん相手してくれんかった……。」
「……いや…たぶん、ちゃんとした医者…。しょうがくせいでインフルなったときも…いしゃにそんなこと言われた………。」
「えっ、ホンマか?だとしたら……碓氷…相当キショいな…。」
「おい精神ズタボロのやつに言うセリフじゃないだろ。」
「あぁすまん。ほんで……もらったんも なんか口に入れとかなきゃ飲めへん薬やから、ちょうど晩メシどきやし、今から食べるで。」
「おぉ、なにをつくってくれてるんだ?」
すげー焦げてるにおいするけど……。
「ん?あぁ、カツ丼や。」
「はっ?なんて?」
「カツ丼やて。熱で耳おかしくなってるんちゃうん?やっぱ、病原菌に打ち勝つためにはカツ丼やろ。」
…………???
「……まあ、そうなのか。」
それから暫くして、岸本はお盆を持ってこちらへ歩いてきた。そして、カツ丼をスプーンいっぱいに(この「いっぱい」というのは「一杯」という意味ではなく、「特大盛り」という意味だ)掬って、俺の口へ近づけ――
「まって。」
そのカツ丼は何故か真っ黒だった。
先程から部屋に充満していた何かが焦げたような匂いが、めちゃくちゃ強くなっている。
「ん?なんや。」
「なんか…くろくね?」
「あぁ、ちょっと焦がしてしもうたんや。」
「ちょっと」…?
あまりの黒焦げに少し俺は戸惑ったが、高熱で考えられる脳も無く……
「あ。」
俺は黙って口を開けた。
すると、凄い勢いで岸本が俺の喉へカツ丼を突っ込む。
「げっほげっほ…!」
「だっ、大丈夫か?!!」
「………あ、あぁ…。」
「どや……?美味いか…?」
「うーん………。」
と、唸りながらたった今 口へと飛び込んできたカツ丼を繰り返し噛む。
「……………にがい……。」
これは俺の舌がおかしいのだろうか。それとも、岸本がおかしいのだろうか。
「『苦い』やと?!碓氷……あんたコロナかもしれんなぁ…。」
「マジか……。」
夕食後、薬を飲んだが、カツ丼よりは苦くはなく、とても飲みやすい薬だった。
翌朝、薬のおかげか体調もだいぶ良くなって、鉛でも載っているかのように重かった頭も少しだけ軽くなった。未だにあの嫌な咳は出るが、目眩や悪寒は無い。
岸本は、仕事があるのにも関わらず付きっきりで看病に当たってくれた。
早朝五時。
目が覚めて、俺は無性に風呂に入りたくなった。なんてったって、もう二日も風呂に入っていないのだ。
流石に身体中気持ちが悪い。熱はまだ八度二分あったが、もうこの気持ち悪さは耐えられない。
少しだけ覚束無い足取りで俺は風呂へと向かった。岸本は、ソファの上で物凄い鼾をかきながら爆睡していた。
風呂から出て、ふと机の上に置かれた小さな箱に目を奪われる。
ぽつんと寂しげに残されていたその箱は……笹野がくれたチョコレートだった。
シンプルに包装されていた藍色の箱を開くと……少しだけ歪なチョコレートがキラキラと輝きを放って二つだけ、残っている。
一粒、静かに人差し指と親指で掴んでみる。
直ぐに体温でチョコレートは溶けだしてしまうが、急いで口に入れることはしなかった。
笹野から貰った特別なチョコレート。
……勿体なくて、食べられない…。もう、二度と口にできない味はきっと、一度食べてしまえばこの先もずっとずっと恋しく思ってしまうだろう。
思い出となってしまったチョコレートを見つめていると……あのときの、笹野の可愛らしい声が聞こえてくる。
――「手作りを…食べてもらいたいのはっ…碓氷さんだけなので…!」
一生懸命頑張って言ったような一言で、ふと…俺は動画を撮っていたことを思い出してしまった。
自分でも惨めになる程、縋るような思いで急いでスマートフォンを手に取る。そして、アルバムを開き、震える人差し指であの日の動画の再生ボタンを押した――
『あ、ごめん動画だった。』
『ど、動画でしたか…!』
そう動揺してから画面の中の笹野は指ハートを使って、恥ずかしそうに耳まで顔を赤らめながら『碓氷さん…!ハッピーバレンタインです!』と語りかける。そして、いつもの懐かしいあほ面で俺を見つめて、チョコレートの説明を始めた。
『こっ、これはボンボンショコラというやつです!碓氷さんはお酒飲めませんし、運転中に食べることを想定して、アルコールは飛ばしておきました!勿論、毒味はしてあります♪ 我ながら、結構美味しいですよ♪』
初めの恥ずかしそうな姿が嘘のように、笹野は無邪気にカメラではなく、俺へ笑いかけていた。『おぉ…』なんて、俺の感心したような声が聞こえたところで、動画は終わった。
ニコッと屈託の無い笑顔を浮かべた笹野の動きが止まる。
耳にはまだ、笹野の懐かしく可愛らしい声が媚びりついていた。その声は、俺の心を抉ったり、包み込んだりと繰り返しては次第に消えていく。
息ができなくなるほど苦しいのに、笹野の無邪気な姿を見ると懐かしくて笑顔が溢れ落ちてくる。
液晶の中の動かない笹野の頬へ涙が零れ落ちて、その柔らかい頬を撫でるように人差し指で拭う。キュウ…と嫌な音が聞こえ、その動画が縮小されてしまう代わりに、俺の瞳にはずらりと並んだ笹野の笑顔を映した写真たちが飛び込んできた。
その瞬間、ぽたぽたと止めどなく涙が零れ落ちてくる。
すべて、愛おしくて、すべて、俺の心に痣を作り出す。
見れば見る程苦しいと解っているのに、写真を一枚一枚スワイプする指は止まらなかった。その中にも何枚か、俺と笹野が一緒に映った写真もあった。
その写真の中の俺は、決まっていつも笹野と同じような無邪気な笑顔を咲かせていた。
過呼吸になるほど泣いて、手に持っていたチョコレートが溶けだし箱の上へと落ちる。
岸本が目を覚ましたのはその声の所為だろうか。「どしたん?」と心配そうな声が聞こえたところで、俺は岸本の鼾が止まっていたことに気がつく。
けれど、振り返る訳にもいかない。だが、そんな俺に、岸本はすぐさま駆けつけ、背中をさすった。
「……それ、明香里ちゃんから貰ったんか…?」
悲しそうな岸本の声に、こくりと頷く。
「なんや…形も大きさもバラバラやないか……。お菓子作り、あんま得意やないのに碓氷のために頑張ったんやな…。」
「っ……なんで……なんでっ…………」
なんで俺を振ったんだ……。
笹野にとって………バレンタインに手作りを渡したい相手は…どんな存在なんだ………。
一昨日から……ずっと泣いてばかりだ…。
水分も殆どとっていないのに、どこからこの涙が溢れてくるのか不思議でたまらない。
よく小説なんかでは「涙はもう枯れてしまって…」なんて表現を見かけるが、涙が枯れることなんて無いということを今初めて知った。
岸本は……うんざりする程泣いている俺に、嫌な顔ひとつせずにずっと背中をさすってくれていた。
三十分以上は経っただろうか。
漸く泣き止んだ俺をベッドへ寝かせたあと岸本は、直ぐに氷嚢を持ってきた。
「会社……行かなくていいのかよ…?」
自分のことを後回しにする岸本に申し訳なくなって、俺はそう尋ねた。すると、岸本はまるで当たり前とでもいうように答える。
「昨日も言うたやろ?碓氷がピンチなら、仕事なんかどうでもええんやって。」
「でも…!――」
「『でも』、そうなんよ。俺には、あんたが死にかけのときに会社行く勇気なんか無い。心配やから看病してるだけや。それに、こういうときこそ、誰かといるべきなんやで。一人になったらあかん。」
岸本は、そうやって安心させるように俺へ微笑む。
……どうして…笹野みたいなことを………。
「俺は社長やから、休みもとりやすいしな。」
…どうして……岸本は俺なんかに…――
「ん?待て……『社長』…?」
岸本の口からは絶対に出ないような言葉に俺は思わず耳を疑う。
岸本は顰めっ面をした俺にきょとんと首を傾げた。
「あれ、言っとらんかったか?俺、社長なんやで?」
「……は?なんの?」
「雑誌の出版社。『マガジン・ホークス』って知らん?」
「知らん。」
「『Neez-u』は?俺の会社が出版してる雑誌なんやけど。」
その岸本の一言で、全身の毛が逆立つような感覚に陥る。
『Neez-u』は、俺の愛読しているファッション雑誌だったのだ…。笹野とのデートの前も、毎回この雑誌で勉強していた。
「……そこの…棚、見てみ…。」
世間の狭さに薄気味悪さを感じながらも、部屋の角にある棚を指差す。
岸本は「んー?」と棚の一番下の段に入っている雑誌を取り出した。
「うおぉ〜!俺らの雑誌や!しかも毎月分…!碓氷、読んでてくれたんか!」
「……お世話になっております師匠…。」
だからこいつ、妙にオシャレだったのか……。
なんて、勝手に納得していると…ふと、疑問が浮かび上がってきた。
「…………笹野は…岸本が社長だったってこと、知ってたのか…?」
新刊を出す度にファッション雑誌ランキング上位にランクインされている雑誌の出版社……の社長…とくれば、恐らく年収一千万は超えるだろう…。そんな高収入の男から口説かれて、靡かない女はそうそういない……。
しかも、こいつはコミュ力抜群、顔もイケメンで俳優に普通にいそうなレベル。そして、スタイルも申し分無い…。おまけに優しい上に人を巻き込む力もあるから、女性側としては理想の男性像だろう。どう考えてもこいつの欠点なんて見当たらない。
故に、笹野が岸本に靡かないのは岸本の魅せ方に問題があると考えたのだ。
けれど……返ってきたのは俺が想像していた言葉とは真逆の答えだった。
「あー……言ったで…。どんな形でもええから明香里ちゃんのもんになりたくてなぁ……。けど…効かんかった…。『カッコイイ職業ですね!』て褒められただけで、そのあとは話題にも上がらんかったよ。」
困ったような岸本の笑顔には、憂いの色が混じっている。最終手段を使ってまでも笹野が靡かなかったことが、苦しかったのだろう…。
けれど、よくよく考えてみればそれは当然の結果でもあった。笹野は人の価値を「金」で判断するような人間では無い。
そのエピソードを聞いて、俺は誇らしくも悲しくもあった。
「……それならあいつは…どんな人となら付き合うんだろうな………。」
「ああああ今俺も思ったわぁぁ……。俺は金もファッションセンスも料理も持ち合わせてるスパダリの筈やのに…。」
「いや料理は持ち合わせてないだろ。」
「あ?」
「てか『スパダリ』ってなに。」
「え?!ウソやろ?!この世代で『スパダリ』も知らんの?!!」
「知らん。日本人なんだから日本語使え。『スポーツドリンク』の仲間か?」
「アホやなぁ、『スーパーダーリン』の略や。容姿も身長も金も学歴も、レベルの高いもんを持ち合わせたハイスペックの男を言うんやで。正に、碓氷のことやな。」
「なるほど。」
「おい否定せい。」
「なんかもうめんどくって。」
自分のことをイケメンだとは思わないが、顔だけで告白してくる奴は見ていれば直ぐにわかる。勝手に期待して、勝手に失望してきた奴らに何度も価値判断されて、もう疲れたのだ。
けれど……笹野は最初から俺のことを顔なんかで判断しなかった。笹野だけは…他の奴らとは違う見方で俺を見てくれた…。
「はぁ……。」
また涙が溢れてきそうになって、俺は静かに寝返りをうち岸本に背を向けた。
そして、溢れてくる感情を抑え込むように深呼吸をしてから……ゆっくりと目を瞑った。
「なあ……それ、食べちゃった方がええんやない…?」
その日の夜。風邪も殆ど治って症状も和らいだ俺に、岸本はそう言った。
目線の先には、朝手に取ったチョコレートの箱が佇んでいる。
「そうだな……手作りだし…危ないかもな………。」
俺は、静かにチョコレートの箱へ手を伸ばした。そして、少しだけ溶けてしまったチョコレートを摘む。
その瞬間、静まり返った部屋で俺は思う。
もったいない……と…。
もうチョコレートは二つしか残っていない……。
…もう、二度と………この味を感じることはできない…。
本当に今食べていいのだろうか……。
けれど…………そう、笹野がせっかく手作りしてくれたチョコレートだ…。このまま味を落ちさせる訳にもいかなかった……。それに、きっと……俺はこの味を今思い出してしまえば、二度と忘れることは無いだろう…。
チョコレートを掴んだ震える手を、渇いた口元へと持っていく。
笹野の作ってくれたボンボンショコラは、口の中に入れるとゆっくりと溶け出して、舌に苦味とほんの少しの甘みが染みていった。コロコロと口の中でキャンディのように転がしていると、チョコレートの苦味甘みの先にフルーティーな香り高い味のするペーストに辿り着いた。
よくチョコレート専門店で売っているようなボンボンショコラは、中が甘ったるくて歯に纏わりつくようなペーストが入っている。けれども、これは噎せるような甘さは感じず、オレンジのフルーツの香りと甘さのバランスを適度に保っていた。
俺の好みに合わせた味に、再度 胸が苦しくなる。
落ち着いたトーンの箱には、最後のチョコレート一粒が俺のことを見つめていた。
…………だめだ……食べられない…。
二日前に俺の心を幸せで満たしてくれていたボンボンショコラは、味を感じる度に、目に焼きつける度に、俺の心を深く深く傷つけた。
「………岸本…………これ、食べてくれないか…?」
悲しくて苦しくて切なくてどうしようもなくて、俺は零すように岸本へそう頼んだ。
「……………え……?…ええ、んか…?」
戸惑った岸本の問いかけに こくりと力無く頷く。
その反応を確認してから……岸本は「い、いただきます…。」と小さく言ってチョコレートを口に入れた。
「美味い………。明香里ちゃん、料理 上手いんやな…。」
早く、早くこのチョコレートに詰まった思い出を忘れてしまいたくて……俺は急いでチョコレートの箱を潰す。
しかし……
――カタッ…
手に持っていた箱の狭い隙間の中で、何かが動くような音が部屋に響いた。不思議に思ってチョコレートを入れていた区切りのある厚紙を外してみる。
すると……可愛らしいメッセージカードが、俺の目に飛び込んできた。思わず震える手を素早くそのメッセージカードへ伸ばす。ゆるい絵柄のパンダが描かれたメッセージカードには、こんなことが書いてあった。
『ハッピーバレンタインです碓氷さん! お返しは、碓氷さんの手作りお菓子だと ものすご〜く喜びます♪ ホワイトデー、期待してますね(。•̀ᴗ-)✧』
笹野の全てを表したような丸っこくて可愛らしい字が目に飛び込んできた途端、俺を熟知したような笹野のプレゼントが嬉しくて、…止まった筈の涙が再び零れ落ちる。
ひょこっと後ろからメッセージカードを覗き込んだ岸本が後ろで「うああこりゃ相当来るなぁ…。」と呟く。
執拗いくらいに咽び泣く俺の背中を、岸本はずっとさすってくれた。
翌朝、風邪は完治した。
付きっきりで看病を続けてくれていた岸本も帰って、再び一人の生活に戻った。
体調は治っても心は未だ傷を負ったままで、その傷は治るどころか日を追う事に、ガラスの破片が突き刺さったように俺の赤く腫れた心を深く深く切り裂く。傷口から溢れ出してきた大量の血は止まることは無く、大量出血で死んでしまいそうだった。
しかし、どれだけ心に深い傷を負っていたとしても身体は元気なのだから仕事を休むことなんか許されない。
いつものように出勤すると桔梗さんがポンっと俺の肩を叩いて楽しそうに話しかけてきた。
「漸く復活〜♪ 体調はどう?」
と、俺の顔を覗き込んだ途端……目を丸くして今度は両肩を掴む。
「ちょっと目の下真っ赤じゃない!どうしたの?!」
……まずい………。
冷やしたのに消えていないのか…。だいぶ良くなったとは思っていたのだが………。
「なんでもないですよ。熱でちょっと荒れただけです触んないでください。」
なるべく「いつも」を意識して、鬱陶しさ全開で桔梗さんの手を払う。しかし、そんな俺を見て……桔梗さんは余計心配そうな顔をした。
「…なんかあった…?元気なくない…?」
「は……。」
なんでわかるんだ…?いつもと変わらないじゃないか……。
「…なんもありませんよ。いつも俺こんな感じでしょ。」
「うーん…?なんか違う気がするんだけどなぁ……。」
「久しぶりだからそう感じるんじゃないですか?」
なんて適当にあしらってデスクへ向かう。今度は上手くいったのか、桔梗さんが追いかけてくることは無かった。
仕事をする元気なんか無いと思っていたが、仕事をしている間だけは少しだけ笹野のことを忘れられた。
時々思い出してしまったとしても、仕事柄、普通を取り繕うのは案外容易なことであった。
けれど、仕事が終わってしまえばまた笹野のことを考えてしまう…。
だから俺は、定時になると、残業をしようと無理矢理仕事を探していた。が……
「あれ〜?まだ帰らないの?碓氷くん。」
……面倒臭い奴が絡んできた。高坂さんは俺をからかうように大袈裟に俺の顔を覗き込む。鬱陶しい。だから俺は無視をかました。
だが、突然誰かに高坂さんとは反対方向の肩を叩かれた。不思議に思って振り向くと遠藤が立っている。
またイチャモンをつけられるのかと身構えていたが、そうではなかった。遠藤は俺に微笑んで言った。
「碓氷、今から飲みに行こう。」
「はっ?なんで。」
「『なんで』?んー、桔梗さんが言い出したんだよ。『そういえば四人で飲んだことないね』って。」
「四人」って……俺と遠藤と…桔梗さんと……高坂さんか…。
メンツ怖すぎ……。
まあ………どうせ無理矢理残業なんかしてても、やることが少ないから笹野のことは考えてしまうのだ…。何度も俺の家で映画を観た所為で、家に帰ると更に笹野のことが頭に浮かぶのだから、誰かと話していた方がいいのだろう。
「……いいよ。」
「やった〜。碓氷くん、案外ノリがいいねぇ。さ、じゃあ早くお店行こー。」
ということで、俺は異様なメンツで居酒屋に行くことになった。
今日は車で来ていたので運転席に乗ろうとしたが、何故か遠藤が「今日は運転したい気分」と言ったので代わってやった。
まさか元気が無い理由を聞き出されるんじゃないかと怯えていたが、実際その類の話題は一切出てこず、ただ単にワイワイと仕事仲間や客の愚痴を言い合ったり、迷惑客や部長の誇張したモノマネを披露したりと「The 飲み会」と言った話ばかりしていた。
解散したのは二十三時。遠藤は酒を飲むのも我慢して、態々 俺の車を俺の家まで運転してくれた。そして、特に何も訊くこともせず、大人しくタクシーを呼んで帰っていった。タクシー代を渡そうとしたが、受け取ってはくれなかった。
飲み会は思ったよりも楽しくて、笹野のことも少しは忘れることができた。
けれど……家に帰って一人になってしまえば、やはり思い浮かぶのは笹野のことで……気がつけばまた、脳裏にこびりついた笹野の姿や匂いを思いながら涙を流していた。
早く忘れたいのに、心のどこかでは忘れたくないと思ってしまっている自分がいて……笹野と関わっていく中で知ってしまった色々な感情が、思い出が、希望が、ぐちゃぐちゃと絡まって幾ら解こうとしても解けることはなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
離れ離れになってしまった二人ですが、この先もぜひお楽しみにしていただけると幸いです(*ˊ˘ˋ*)
※本作はフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。




