第2話:極寒の執務室とリーゼの「めっ!」
季節は春を迎えようとしていたが、アルカディア王城の分厚い石壁は依然として冬の冷気を溜め込んでいた。
僕の執務机の上には、グレモリー公爵が「王家の威光の再確認」という名目で作成した、数千枚に及ぶ『許可申請書』が地層のように積み上がっている。
「……なんなんだよ、これ。リンゴ売るのに王族の署名が必要って、正気か?」
僕は一枚の書類を放り出し、隣の束を手に取った。
こっちはジャガイモの販売申請書だ。
驚くべきことに、たった一軒の商店から、ジャガイモの種類や産地ごとに細分化された二十枚近い申請書が届いている。
「男爵イモで一枚、メークインでまた一枚……。これを全部、僕に読めっていうのか? 嫌がらせにも程があるだろ……」
ペンを握る指先はすっかり悴んでしまい、感覚がほとんど残っていない。
そんな僕の向かい側では、シルヴィアが優雅に、湯気の立つカップを口に運んでいた。
「大変そうね、リオン。グレモリー公爵も、ずいぶんと手の込んだ『嫌がらせ』を思いつくものだわ」
シルヴィアは、温かそうなココアを一口啜り、満足げに微笑む。
僕はブルブル震えながらシルヴィアに聞いてみる
「……シルヴィア。そのココアか。そんなに温かいのかい?」
「これ? ええ、そうね。さっきハンスが淹れてくれたばかりだから。」
「ええっと……一口、飲む?」
シルヴィアは少し意地悪そうに笑いながら、自分が飲んでいたカップを差し出してきた。
普段ならハンスに入れてもらうから、と遠慮するところだが、極寒の執務室で指が凍りかけていた僕は、背に腹は代えられないとばかりにそのカップを受け取った。
「……もらうよ。温まらないと、署名がミミズの這った跡みたいになっちゃう」
僕は躊躇なく、シルヴィアが口をつけていた場所からココアを飲んだ。
じんわりと熱が指先に、そして甘みが胃に染み渡っていく。
「……ふぅ、生き返る。ありがとう、シルヴィア」
「…………え、ええ。そう。よかったわね」
ふと前を見ると、さっきまで余裕たっぷりだったシルヴィアが、耳まで真っ赤にして俯いていた。どうやら、僕が本当に飲むとは思っていなかったらしい。
少し気まずくなった僕は、話題を変えるために机の隅に置かれた「別の茶葉」を指差した。
「そういえばさ、シルヴィア。君のお父様――ゼノビア皇帝から贈り物が届いたんだ。『健康にいいから飲みなさい』って手紙が添えてあったんだけど……これが異常に苦いんだよね。シルヴィアはゼノビアにいた頃、飲んだことある?」
その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアは少し懐かしそうな、それでいて微妙な表情を浮かべた。
「……あのお茶ね。ゼノビアでも『まずいー、もう一杯!』っていう宣伝文句で流行ったことがあるってお父様から聞いたことがあるわ。わざとその不味さを売りにして、健康への効果をアピールしていたみたいだけど……」
「『まずいー、もう一杯!』って……。お義父さん、そんなお茶を僕に飲ませてるのか。健康に良さそうだからいいんだけれど……」
僕が戦慄していると、バタン! と勢いよく扉が開いた。
「お兄様っ! もう『めっ!』ですわ!」
現れたのは、もこもこの冬毛に包まれた小動物のような妹、リーゼだった。彼女は両手を腰に当て、頬を膨らませて僕を睨んでいる。
「リーゼ……どうしたんだい、そんなに怒って」
「どうしたもこうしたもありませんわ! お兄様、もう三日もリーゼと遊んでくださらないじゃないですか! シルヴィアお姉様だけココアを飲んで、ずるいですわ! お兄様もシルヴィアお姉様と一緒に飲んでてずるいです!」
リーゼはトテトテと歩み寄ると、僕の机をバンバンと叩いて抗議した。
「お兄様ばっかりずるいですわ! リーゼにもココアをくださいまし!」
リーゼがぷんぷんと頬を膨らませたその瞬間、背後からスッと影が伸びた。
「お呼びでしょうか、リーゼ様」
いつの間に現れたのか、ハンスが完璧な所作でトレイを差し出した。そこには、湯気が立ち上る新しいココアのカップが二つ載っている。
「リーゼ様、そしてリオン様。新しいココアをお持ちいたしました。お仕事の合間に、温かい一杯はいかがでしょうか」
「ハンス! ありがとう。これすごく温まるのです!」
リーゼは差し出されたカップを嬉しそうに受け取った。
僕はハンスのあまりのタイミングの良さに、彼が扉のすぐ外で聞き耳を立てていたのではないかと疑ったが、温かいココアの香りに免じて深く追求しないことにした。
「お兄様のお仕事はまだ終わらないのですか?」
リーゼはシルヴィアの隣に座り、足をプラプラさせながらそんなことを聞いている。
ココアの温もりを感じながら、僕は改めて目の前の書類の山を見上げた。
一本の薪を買うにも許可証。一つのイモを売るにも署名。
かじかんだ手でこれ以上ペンを走らせても、効率が悪いだけだ。何より、僕の可愛い妹がこんなに悲しそうな顔をしている。
「……そうだね、リーゼ。今日はもう、これ以上やってもしょうがないや」
「えっ、本当ですの!?」
「ああ。こんな冷え切った部屋にいても良い考えは浮かばないし……よし、気分転換に行こう。シルヴィア、君もどうかな? こんな寒い部屋で仕事に付き合わせちゃってごめんね。みんなで街の美味しいケーキでも食べに行こう」
僕がペンを置いてそう告げると、リーゼはパァッと顔を輝かせた。
「はいっ! そうですわお兄様! すぐに行きましょう!」
「……ええ、そうね。糖分を補給して、一度頭を冷やした方がいいかもしれないわ」
シルヴィアも少し照れくさそうに、でも嬉しそうに頷いた。
僕はハンスの「殿下、帰ってきたら分かってますね……」という視線を背中で受け流しながら、二人に連れられるように執務室を後にした。
……この時の僕は、まだ呑気に「甘いものを食べてリフレッシュしよう」くらいにしか考えていなかった。




