168.〇三〇二〇九掃討戦 菜花、後送される
二二〇三年二月九日 一〇五六 KYT 中層部 居住区
小和泉は菜花のヘルメットを脱がせた。菜花は脂汗を流し、痛みを堪える為か、強く歯を食いしばっていた。その隙間から呻きが漏れている。目も固く閉じ、意識は混濁している様だった。
小和泉は水筒の水でタオルを濡らし、菜花の汗を優しく拭う。
ヘルメットの後頭部には、強打した傷が大きく残っていたが、背後に吹き飛ばされた程度の衝撃は、十分吸収したはずだ。頭部や頸部へのダメージは心配する必要は無い。
「鈴蘭、どうだ。」
小和泉は、虚しい言葉を紡いだ。いや、紡ぐことしかできなかった。
鈴蘭は医療キットから薬を取り出し、鎮痛剤、消毒薬、抗生物質と順に傷口に流し込んでいた。傷口に生体フィルムを貼り付けて塞いだ。傷口は完全に焼けてしまい、前線で出来る外科手術は無かった。
傷口を保護する事と痛みを散らす事が精々できることであった。
「心臓、肺、脊髄、横隔膜には損傷なし。複数の臓器にダメージを確認。胃の内容物が体内に流出。後送を進言。応急処置では対処不能。」
鈴蘭がはっきりと対処不能と言い放った。散々、小和泉が壊した月人の体で実地練習を行ってきた。
その練習で高めた医療技術で、傷ついた兵士達の体を縫い合わせてきた。
それにより、多くの兵士達の命を救ってきた優秀な衛生兵であった。その鈴蘭でも手の施しようが無かった。
それは小和泉も最初から理解していた。
「総司令部、こちら8312。重傷一。後送の手配を。早く、早く。」
小和泉は無線の全回線で叫んだ。飄々としている普段の小和泉の姿は無かった。戦場を駆け回る狂犬の様な咆哮だった。
「総司令部、了解。医療隊を送る。」
「今すぐだ。早く来い。すぐに来い。」
小和泉のヘルメットに表示される菜花の生体モニターが真っ赤に染まっていた。
生体モニターは、無傷は緑色、軽傷は黄色、重傷は赤色、死亡は黒色の四段階で表示される。その生体モニターが真っ赤に染まっているのだ。小和泉が初陣で二人の部下を失って以来の表示だった。
「菜花、目を開けろ。死ぬことは許さん。皆で俺を取り合うのだろう。」
菜花の両肩を掴む手に力が入り、菜花の体を揺すってしまう。
「隊長、落ち着いて。揺すらないで。お願い。」
鈴蘭が小和泉の背後から押さえつける。涙声だった。小和泉の身体から勝手に力が抜けた。
「菜花。皆の結婚式を挙げよう。お前達、全員もらってやる。いや、奪ってやる。法律なんか知らん。重婚だろうが知らん。結婚するぞ。だから目を開けろ。俺にはお前が必要だ。」
小和泉の言葉は、全軍の無線に乗って流れていた。総司令部への無線を繋いだままだった。そんな些事まで気が回らなかった。総司令部もそれを咎めることをしなかった。いや出来なかった。
総司令部は、何も言わず回線を総司令部直通回線のみへと切り替えた。狂犬が嘆く姿を全軍に通信するような悪趣味は無い。
菜花の生体モニターの心拍数、血圧が下がる。
「起きろ。目を開けろ。死ぬな。」
再度、小和泉は叫ぶ。鈴蘭は昇圧剤を注射する。しばらくして、血圧が持ち直した。
「たい、ちょう。うるせ、えよ。きず、ひびく。」
昇圧剤の効果なのか、菜花がうっすらと目を開き、撃たれてから初めて反応を返した。どうやら、ショック症状から持ち直したようだ。
「ちょっと、かぜ、とおし、いいだけだぜ。」
「分かった。話さなくていい。俺だけを見ていろ。」
菜花はこくりと頷き、小和泉の目を見つめ続けた。その瞳に怯えや恐怖の色は、無かった。澄んだ黒い瞳に小和泉の顔が映る。その顔は、子供の様にべそをかいていた。
小和泉の表情を見て、菜花は笑顔を浮かべた。全身に激痛が走っている筈だ。鎮痛剤を打たれても痛みがゼロになることは無い。笑えるはずが無い。しかし、菜花は笑顔を浮かべた。
―隊長の俺の最期の記憶が、苦痛に耐える顔なんて嫌だね。絶対に笑顔を覚えててもらうんだ。―
菜花は、全ての苦痛を脳が受け取るのを強靭な精神力で拒否し、人生で最高の笑顔を浮かべた。菜花なりの意地だった。
「医療隊を呼んだ。病院で治療だ。ここから近い。すぐに治る。退院したら結婚式だ。入院中にドレスを選んどけ。」
小和泉の叫びに対し、菜花は頷く。
「誰かと被ったら、菜花を優先してやる。好きな物を選べ。」
菜花は再度頷く。
「おれ、しなない。けっこん、たのしみ。」
「そうだ。死なん。退院後に結婚式だ。」
菜花は弱々しいが、幸せそうな笑顔を浮かべた。大好きな小和泉の腕に抱かれているのだから。
そして、はっきりと口説かれている。小和泉が、東條寺へもこれほど熱烈な口説き文句を発していないことを皆が知っていた。
―俺が、一番最初に、隊長からコクられたな。―
「医療隊です。負傷兵は。」
担架を担いだ衛生兵二名が駆け寄る。総司令部は近くに医療隊を待機させていた様だった。
「ここだ。急いでくれ。」
衛生兵の為に、いや、菜花の為に場所を小和泉は譲った。
「応急処置確認。問題無し。担架に乗せる。三、二、一、今。」
二人の衛生兵は、菜花の体を持ち上げ、担架に移した。即座にベルトで固定し、落下防止処置を行った。
「固定確認。では、後送します。持ち上げ、今。」
と言うと二人の衛生兵は、菜花を乗せた担架を担いで走り去った。恐らく、その方角に野戦救急車が待機しているのだろう。あとは医者と菜花の生命力を信じ、一縷の望みにかけるのみだった。
小和泉にこれ以上、菜花へ出来ることは無かった。
「隊長。鎮静剤。飲んで。」
鈴蘭は白い錠剤を二錠差し出すと同時にその内の一錠は自分自身が飲み込んだ。鈴蘭の掌には一錠の鎮静剤が残された。
「分かった。」
小和泉は素直に錠剤を掴み、水無しで飲み込んだ。普段の小和泉ならば、薬の力は必要無かった。
即座に冷静さを取り戻し、呼吸法や精神統一などで様々な方法で心拍数を下げる事など朝飯前のはずだった。
しかし、生体モニターを見ると明らかに小和泉と鈴蘭の心拍数と血圧は異常に高かった。極度の興奮状態だと言える。
射撃を維持していた為、菜花の傷を見ていない桔梗ですら心拍数と血圧が高かった。不安状態を示していた。だが、小和泉達ほどではない。鎮静剤は不要だと思われた。
カゴは平静を保っていた。その様に調整され、何事にも動じない様に設計された熟成種、防人だったからだ。カゴに揺らぐ様な心は無い。戦闘機械には不要な感情である為、人為的に消されたのだ。
極度の興奮状態では、人間には正常な判断が下せない。鈴蘭の行為は、それを正常値に戻す為だった。
即効性の軍用の鎮静剤はすぐに神経に作用し、興奮状態を鎮め始めた。脈拍は徐々に落ち着き、正常値へと戻るのに二分ほどかかった。
その間に、菜花の生体反応は信号消失の表示に切り替わった。恐らく救急車に乗せられた後、治療の為、センサーが組み込まれた野戦服をはぎ取られたのだろう。
小和泉の精神状態は、鎮静剤の効果もあり、冷静さを取り戻し、思考を戦場へと無理やり戻した。
小和泉は深呼吸を一つ行い、戦線から離れていた間の状況説明を桔梗に求めた。
「桔梗。状況説明だ。」
小和泉は、この慌ただしい数分間の状況を知らない。菜花に全神経が集中していたからだ。
「膠着状態です。射撃戦を続けています。敵はアサルトライフルを二丁所持している模様。反撃が続いています。射点へ集中攻撃を加えておりますが、こまめに射撃位置を変更している為、排除できていません。
なお、目標の一階部分は損傷により二階の重量に耐えきれず押し潰されました。敵は旧二階部分より反撃を行なっています。このまま、射撃を継続すれば削り切ることが可能だと推測されます。」
「温度センサーはどうか。」
「目標が蓄熱している為、判別不能です。」
「俺が突入して状況が変わるか。」
「不利になります。辿り着く前に撃たれます。突入できた場合、味方が射撃できなくなります。」
「分かった。このまま射撃戦を継続。こちらの射点も逐次移動しろ。遮蔽物に隠れろ。身を出すな。絶対だ。」
「了解。」
そう言うと小和泉は放り出していたアサルトライフルを構え、目標への射撃を再開した。鈴蘭も小和泉に続き、射撃を再開した。
冷静さを取り戻した小和泉は、無線が司令部直通で固定されている事にようやく気がついた。
「早い対応に感謝する。以上。」
それだけを伝えると小和泉は返信を待たず、小隊無線へと戻した。
小隊無線は、8313は右を狙え、8314は下を狙えなどとうるさく鳴っていた。
小和泉が菜花に付き添っている間、鹿賀山は8312小隊への攻撃が無い様に戦術を駆使してくれていた様だった。
8312分隊だけは沈黙を保ち、ひたすら射撃を加え続けていた。他の隊からオーダーが入れば、素直に従い、射撃を集中させていた。
小和泉は、余計なことを考えたくなかった。頭を空っぽにし引き金を引き始めた。
桔梗は、小和泉へ菜花の容体を確認したかった。
―どこに。
どの様な。
どの程度の。
後遺症は残るの。
生死に関わるの。―
様々な疑問と不安が湧き上がる。
―錬太郎様に確認したい。今すぐ答えが欲しい。―
そんな欲求が桔梗の中に渦巻いていた。
しかし、それを口に出すことはできなかった。口に出したところで菜花の傷は癒えない。症状が軽くなるわけではない。薬で落ち着かせた小和泉の心を逆立てるだけと分かっていた。
桔梗は、静かに菜花が無事であることを祈り、信じるしかできなかった。




