2-7 篠原綾香は思いを飲み込む
ショッピングモールの衣料品売り場は、春夏物の服で華やかな彩りに包まれていた。
淡い色のブラウスに、明るい色のパンツ。モールを行き交う人々も、春らしい装いを身にまとっている。
「まずは、あそこから見てみる?」
明美が正面を指さした。
ベースボールキャップを目深にかぶり、身を縮めるように歩いていた蓮は、顔を上げてそちらに目を向けた。
正面には、青い背景に黄色い文字をあしらった鮮やかな看板が見える。
隣を歩く綾香が、蓮の横顔を覗き込んだ。
「素敵な服が見つかるといいね」
蓮が笑みを返すと、綾香はわずかに表情を緩めて前を向き直った。
長い髪が肩からさらりと流れ落ちる。
その後ろ姿を目で追っているうちに、蓮の脳裏に昨日の電話がよみがえった。
――
土曜日の夜。
悠真が帰ったあと、蓮は自室でしばらく考え込んでいた。
悠真の言葉を聞いて、学校に戻るという気持ちは強くなった。
けれど、不安がなくなったわけではない。
教室に足を踏み入れ、クラスメイトと顔を合わせたとき、自分はどう振る舞えばいいのだろう。
今までと同じように過ごせるのか。それとも、やはり何かが変わってしまうのか。
考え始めれば、答えの出ない問いばかりが浮かんでくる。
悠真には話を聞いてもらった。
その悠真からは、綾香に相談するよう勧められている。
スマートフォンを手に取り、連絡先を開いたてみたものの、電話をかける直前になって、指先が止まった。
入院中も気にかけてもらっていたのに、また心配をかけてしまうのではないか。
自分のことで、これ以上、彼女の時間を使わせていいのだろうか。
それでも、悠真の言葉を思い出し、大きく息を吸い込んで発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が耳に届いた。
『もしもし、蓮くん?』
「うん。今、平気?」
『大丈夫だよ。私も電話をかけようと思ってたんだ』
「あ、そうなんだ。どうしたの?」
『明日ね、お邪魔してもいい?』
「いいよ。それなら、俺の話は来てもらったときにしようかな」
『そう? せっかくだから、蓮くんが大丈夫なら、もう少し話せないかな? 今ちょうど勉強が終わったところでね。あとは寝るだけなの』
「分かった、ちょっとね。あのさ……」
蓮は、学校のことで抱えている不安や、両親、悠真と話した内容を伝えた。
綾香は途中で口を挟むことなく、最後まで話を聞くと、間をおいてから言葉を返す。
『環境を変えるのも、ダメってことはないんじゃないかな?一つの方法だとは思うよ』
「……そう?」
『うん。環境が変われば、今より気持ちが楽になることもあるだろうし。不安な気持ちに、無理して立ち向かう必要はないと思う』
悠真は、学校に戻ってきてほしいと言った。
それは蓮にとって素直に嬉しいことだった。
蓮がいない学校は寂しいと、そう言ってくれる悠真の存在は、これから先、どれほど心の支えになるか想像に難くない。
けれど、綾香の言葉もまた、蓮の中に残った。
戻ることだけが正解ではない。
別の道を選んだとしても、それで自分の価値が否定されるわけではない。
『大事なのは、蓮くんがどうしたいかだと思う』
「……俺が?」
『うん。周りのことも、これからのことも、いろいろ考えなきゃいけないと思うけど……自分の気持ちを大事にしてね』
「……ありがとう。もう少し考えてみるよ」
『うん。それがいいと思う』
――
「……どうしたい、か」
「……蓮くん?」
呼びかけられて、蓮は我に返った。
いつの間にか立ち止まっていた蓮の元へ、先を歩いていた綾香が戻る。
「どうしたの? 昨日のこと?」
「ああ、うん」
「……大丈夫?」
「うん。平気、平気」
蓮が答えると、綾香は頷いてそれ以上は尋ねず、また歩き始める。
蓮も、少し遅れてその斜め後ろに続いた。
退院してから、まだそれほど日が経っていない。
家の中で過ごす分には、困る事はそう多くはないが、外出となると体の変化を改めて意識させられる。
服選びもその一つで、今ある服で十分だと思っていたが、実際に袖を通してみれば、肩や腰回りの具合が合わないものもある。
以前と同じ感覚で選んだ服が、思いのほかしっくりこないこともあった。
結局、明美の提案を断りきれず、綾香を伴って、買い物に出かけることになったのである。
店に入ると、明美はさっそく白いカットソーを手に取り、蓮の胸元に当てた。
「これなんか、いいんじゃないかしら?」
「うーん……」
「悪くないと思うわよ?」
「襟が広いのがなあ」
「着てみなさいよ」
明美は譲る気がないらしく、カットソーを蓮の手に握らせた。
「……お母さん、楽しんでない?」
「当然よ。せっかく買いに来たんだから、ちゃんと選ばないとね。綾香ちゃんもそう思うでしょ?」
蓮の方を眺めていた綾香は、突然話を振られたことに若干驚いた様子を見せつつも、直ぐに返事をした。
「はい。そうですね」
「じゃあ、みんなで選びましょう。綾香ちゃんも欲しい服があったら言ってね」
「いえ、そんな。……私は大丈夫です」
「だめよ、遠慮しないで頂戴、付き合ってくれたお礼にプレゼントさせてくれないと」
それからしばらく三人で服を選んだあと、蓮の提案で、それぞれ気になる売り場を見て回ることになった。
蓮は、二人が服を見始めたのを確認してから、メンズ服の売り場へと向かう。
入店したときにちらりと目に入り、気になっていた服をいくつか手に取り、試着してみることにした。
試着室の鏡に映る姿を見て、蓮はため息を吐いた。
分かっていたこととはいえ、こうして現実を改めて突きつけられると、やはり落胆せずにはいられなかった。
メンズ服売り場を離れ、再び二人と合流した蓮に、綾香が一着のニットベストを差し出した。
「これとか、どうかな?」
ネイビーにクリーム色のストライプがあしらわれたベストは、薄手の柔らかい生地で手触りもよさそうだ。
「これ?」
「うん。蓮くんに似合うと思う」
綾香はそう言って、蓮の返事を待つ。
「……じゃあ、試着してみる」
「行ってらっしゃい」
上着を脱ぎ、長袖のTシャツ一枚になった蓮は、ベストを頭から被る。
鏡の中には、見慣れないところを残しながらも、以前より目が馴染んできた自分の姿が映った。
その姿を確かめながら、似合うものを一つずつ探していく。
それは、これからの生活を徐々に整えていくことにも似ている。
何もかもが元通りになるのを待つのではなく、今の自分に合うものを探していけばいいのかもしれない。
蓮は、そんな思いを抱きながら鏡に映る自分を見つめた。
「着られた?」
「うん。今、出るよ」
カーテンを開けると、明美と綾香の視線が蓮に集まった。
「いいじゃない、ねえ?綾香ちゃん」
「……はい。似合ってます」
「そうかな」
「うん」
「とりあえずは、これにしようかな」
その後も、いくつかの店舗を回りながら、明美と綾香に勧められた服をいくつか試着し、気に入ったものを選んでいった。
買い物を終える頃には、紙袋は三つになっていた。
当初は荷物を全部引き受ける意地を見せたものの、さすがの量に三人で分けて持つことになった。
男なら、女性の荷物は持たなきゃだろう。
なんて、父親譲りの気概も、三つの紙袋を前にしては形なしだった。
蓮が自分の不甲斐なさに肩を落としかけた頃、明美が腕時計を確認した。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
その言葉を合図に、三人で出口の方へ向かっているところで、明美が足を止めた。
訝しんだ蓮が明美の視線を追うと、エスカレーター脇の展示スペースには、高校の制服が並んでいた。
紺色のブレザーに、白いシャツ。
胸元には、見慣れた校章があった。
西高校の制服だ。
三人で制服を眺める。
「市内の高校の制服だね」
蓮は、何でもないふうに表情を作った。
明美は制服を見つめる蓮を流し見る。
「そうね。まだこの時期でも展示されているのね」
その言葉に、蓮は明美へ目を向ける。
明美は何も言わず、制服の方へ視線を戻す。
綾香も、蓮の隣に並んだまま、ガラスの向こうを見つめている。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ガラスの向こうには、見慣れたブレザーが並んでいる。
「……そろそろ帰りましょうか」
明美の声に、蓮は視線を外した。
戻りたいという気持ちと、戻ることへの不安、そのどちらも、まだ消えてはいなかったが、この数日で、皆の思いを察するには充分と言える時間を過ごした。
帰宅した三人は、買ってきた服をリビングに広げていく。
「これは洗濯してから着た方がいいわね」
「うん。そうする」
蓮は、購入した服のタグをはずしながらそう答えた。
すべてのタグを取り終えて畳んだ服の中から、ネイビーのベストを取り出すと、両手でギュッと握りしめて、口を開いた。
今回も、細かい部分に手こずって、時間をかけてしまいました。




