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佐倉蓮の変わらない日常  作者: 八千三百
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1-1 目覚め

 TSものの長編を読むのが好きなのですが、最近見かける機会が減ってきたので、自分で書いてしまうことにしました。

 目を覚ますと、最初に感じたのは、身体の浮遊感。

 深く沈んでいた水面の底から、ゆっくりと浮かび上がっていくような感覚だった。

 鼻の奥に、消毒液の匂いが届き、金属と薬品の混じった冷たい空気が、ここが病院だと告げていた。

 同時に、規則正しく響く電子音が耳へと届き、意識がはっきりとしてくる。

 そのリズムが、遠くの世界から現実を呼び戻した。


 佐倉蓮は、眩しさに眉を寄せて薄くまぶたを開けると、室内が淡い色に光を反射していた。


 蛍光灯の輪郭がかすんで、視界がまだ焦点を結ばない。

 ぼんやりと視線を巡らせると、ベッドの脇に心電図モニターが置かれているのが見えた。

 画面には規則正しく上下する波形と数字が映り、先ほど聞こえていた電子音は、その機械が発しているものだと分かる。


 蓮は、機械の波形をぼんやりと追いながら、考えを巡らせた。

 自らの身体に何があったのか。

 思い出そうとした瞬間、キリキリと鋭い痛みが、こめかみの奥を走り抜けるのを感じた。

 反射的にまぶたを閉じると、喉を詰まらせながら「う…」とだけ呻く。

 まるで全身が誰かの手で押さえつけられているような、体の重さ。

 筋肉が硬直し、長い眠りから覚めたばかりの身体は、まだ思うように応えてくれない。


「あっ!目が覚めたみたいです」


「佐倉さん、わかりますか?ここは病院ですよ」


 二つの声が耳に届く。

 顔を向けると、二人の看護師が驚きを含みながらも、明るい笑みを浮かべていた。

 窓からの光が差し込み、顔の輪郭を淡く縁取っている。


 蓮は、看護師に向かって返事をする。


「……はい」


 喉の奥が、ひりつく。

 自分が発したはずの声が、聞き慣れない音で鼓膜を震わせる。

 何かがおかしい。

 しかし、考えようとすると頭が揺れて、思考が霧の中に溶けていった。


「すぐに先生を呼びますからね」


 看護師が一人、足早に病室を出ていった。


 残った看護師が蓮の顔を見て「初めまして。私は担当の平井です」と告げる。


 それに応えようと、蓮も口を開く。


「俺……」


 その声は、マイクを通してスピーカーから届く声のように、どこか別人のものに思えた。


「え……」


 躊躇いがちに発した声は、思っていたよりも高く、掠れた音が、小さく響いている。

 まただ。何が起きているんだ?

 再度思考を巡らせるが、頭はまだ靄がかかっていて、違和感の正体を掴めなかった。


「事故に遭われて、この病院に運び込まれてきました」


 蓮は、平井の説明に頷くと、記憶をさかのぼってみたものの、何が起きたのかを思い出すことはできなかった。


「まだ、意識が戻ったばかりなので、身体を楽にしていてください」


 平井が明るい声で言いながら、血圧計を手にした。


 蓮がおそるおそる腕を上げると、腕には包帯が巻かれ、すき間から数本の管が伸びていた。

 視線を手元へと向けると、その手の白さに思わず息を止めた。

 自分のものとは思えない手のひらが、目の前にある。

 さっと血の気が引いて、青白さに拍車がかかった。


 度重なる違和感に、わずかのあいだ逡巡していると、平井の手が蓮の手を包んだ。

 その動きは慣れていて、優しい。


「腕はそのままで大丈夫ですよ」


 その言葉に、蓮は黙って頷いた。


 血圧を測り終えると平井が再び笑顔になる。


「意識が戻って、本当に良かったです。お父さんとお母さん、毎日来てましたよ」


「両親が……」


 二人の顔が、ぼやけた記憶の中で浮かび上がる。

 眠りの中で、何度も名前を呼ばれていた気がした。


 医師が到着するまでの間、病室にはしばしの静寂が戻る。

 耳を澄ませるとかすかに届くのは、遠くのナースステーションから聴こえる誰かの話し声。

 部屋の中では、時計の針が淡々と時間を刻んでいた。


 その規則的な針の動きに急き立てられるように、蓮は片方の手でもう一方の手首に触れた。

 感触を確かめるように、手首から手の甲、指先へと這わせる。

 全てがか細く、頼りない。返ってくるのは骨ばった感覚ばかりだ。

 手を開いて閉じる。

 たったそれだけの動作にも、何かを奪われたような空白が残った。


 息を吐いた瞬間、些細なところから不安が芽を出す。

 身体すべてが、知らない誰かのもののように感じていた。

 そんなはずはないと信じながらも、頭の中では考えがまとまらなかった。


 ドアが開く音がして、眼鏡をかけた医師が病室へ入ってくる。

 カルテを片手にベッドの近くに立った医師が口を開いた。


「目が覚めたね。こんにちは、私は辻村といいます。君の名前と年齢を聞かせてください」


「……佐倉蓮。……十六歳です」


 蓮はためらいながら、そう答えた。


 すると、辻村はその反応を見て、頷いた。

 柔和な雰囲気をまとった笑みの中に、わずかな緊張が混じっている。


「はい。気分はどうかな。少し、話せるかい?」


 質問に対して、蓮は短く、「えっと……はい……」とだけ返した。


「ありがとう。どこか痛むところはある?」


「……いえ、大丈夫です」


「事故のことは覚えている?」


「分かりません」


「そうか、事故前後の記憶が曖昧になることは良くあるからね。心配はいらないよ。大事なのは、今、目が覚めたってことだ」


 カルテに何かを書き込み終えると、言葉を続けた。


「確認したいことはあるけれど、事故の怪我は命に関わるようなものじゃない。しばらくは検査を続けながら、慎重に回復していこうか」


 声の向こうに、何か隠している気配がした。


 蓮は問いかけようとしたが、その唇は不安と躊躇いに縫い留められ、言葉を紡ぐことなくそっと口を閉じた。


 その沈黙を埋めるように、辻村の笑みが差し出される。


「もう少ししたらご両親がいらっしゃるだろうからね。落ち着いて話すといい」


 蓮は頷いて、ぎゅっと手を握りしめる。その指先が震えていた。


 しばらくして、ドアが再び開く音がした。

 蓮の母である明美は、慌てた様子で病室へ入ってくるなり、大きな声で蓮を呼ぶ。


「蓮!」


 昔から感情が顔に出やすい質の明美の顔は、涙でくしゃくしゃになっている。

 細身の身体を揺らしながら蓮の手を握ると、その手の温もりが蓮を包んだ。


「無事で良かった。蓮、分かる?」


 明美の表情は喜びと不安の色が混ざり、声が震えている。


 蓮はゆっくりと頷いた。


 明美の後ろで、父の博人は腕を組んだまま蓮を見ていた。


「調子はどうだ?」


 そう言った博人は、努めて平静を装っていたが、表情の奥には動揺が滲んでいた。


「うん、大丈夫……」


 蓮は、躊躇いながらそう答えた。

 明美は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑む。


「無理しないでいいのよ。本当によかった」


 蓮は瞳を涙で滲ませながら頷く。

 自分の声への戸惑いは拭えず残ったままだ。

 それでも、二人の安心した顔が見られたから、今はそれでいい。

 そう考えて、蓮は小さく息をついた。


 安堵感から、意識がまた静かな波に飲まれていく。

 眠気が襲い、両親の笑顔を見ながら、緩やかに瞼を閉じた。

 遠くで、辻村たちの声が聞こえる。

 けれど、その声はもう、深い眠りの向こうへと遠ざかっていった。

主人公が饒舌ではないので、登場人物が少ない序盤は地の文が多くなりすぎてしまいました。

反省です。

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