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第2話「結露」

目が覚めたとき、赤い光はまだ点いていた。


ミナ・カワシマは、どこで眠ったのか一瞬分からなかった。

身体の右半分がじんわりと痛い。斜めの床に長時間押しつけられていたせいだと気づくまでに、数秒かかった。


視界に、ハル・ノイマンの肩が見えた。


彼は操縦席の上で、半分座ったまま、半分崩れ落ちるみたいな姿勢で眠っていた。

首が不自然な角度に曲がっている。

よくこれで寝られるな、とミナは思った。


深度計の数字が目に入る。


「……九十一」


変わっていない。

当たり前だ。沈みようも浮きようもない。


酸素残量の表示に目をやる。


六十時間を少し切っていた。


「十二時間くらいか……」


独り言が、湿った空気に溶ける。


喉が渇いていることに気づいた。

頭も痛い。額を触ると、少し腫れている。

怪我をしたときの痛みと、寝不足の重さと、どちらがどれだけなのか、もう分からなかった。


ハルが短く息を呑んだ。


「あ……」


彼の肩がわずかに動き、目が開いた。

焦点が合うまで、数秒。


「起きた?」


「……ああ」


声がかすれている。


「何時間くらい寝た?」


「計器値で十二時間くらい」


「そうか」


ハルは少しだけ背筋を伸ばした。

椅子が軋む。

その音が、妙に頼りなく聞こえた。


「頭は?」


「痛いけど、生きてる」


「言葉にできるなら大丈夫だ」


彼はそう言って、いつもの調子に戻そうとした。

ミナは、少しだけ安心した。


「酸素、残り六十時間弱。水は……」


胸ポケットから水筒を取り出す。

重さでだいたい分かってしまう量だった。

傾けると、ちゃぷん、とたった一度だけ音がする。


「たぶん、残り三分の一くらい」


「分配する」


ハルは手を伸ばした。


ミナは迷った。


「……今、飲む?」


「決めておく方が安心する」


「その理屈、好きじゃないな」


そう言いながら、水筒を渡した。

ハルはキャップを開け、ほんの一口だけ口に含んでから、ミナに返した。


「お前も同じだけ飲め」


「今飲むと、もっと喉乾かない?」


「それでも飲んどけ」


言い方は雑だけれど、そこに恐怖の形跡はあまりなかった。

ただ、冷静に残量を管理している声。


ミナも、小さく一口だけ飲んだ。

冷たさはもうほとんどなく、ぬるい水だった。

それでも、喉を通る瞬間、身体がそれを追いかけるように欲しがるのが分かった。


「……うまい」


そう言って笑うと、ハルも少しだけ口元を緩めた。


「記録を続けろ」


「うん」


胸ポケットの端末を取り出す。

録音ボタンを押す。


「11月29日。第8水陸両用機動大隊所属、ミナ・カワシマ伍長。ゴッグ二号機、深度計器値九十一メートル」


昨日と同じように、自分の声が他人のもののように聞こえた。


「酸素残量、約六十時間。水筒残量、約三分の一。地上との通信、依然として応答なし」


昨日のログの続きとして、今日の現実を積み上げていく。

数値を言葉にしている間だけ、自分が状況の外側に立てる気がした。


「……以上」


録音を切る。


端末のランプが消える。

沈黙が戻ってくる。


沈黙といっても、本当に何も音がないわけではない。

非常灯の小さな電気音。

自分たちの呼吸。

時折きしむ機体の音。


それに混じって、とても小さな、別の音があった。


「ねえ」


「何だ」


「昨日も聞こえてたんだけどさ」


ミナはコックピットの内壁に耳を当てた。


何かが、流れている。


「……この音」


「冷却ラインだ」


ハルが即答した。


「そうかな」


「そうだ。水か冷却材だ」


確信に満ちた声だった。

その確信が、少しだけ不自然に聞こえた。


「じゃあ、その水、飲めればいいのにね」


「そう簡単にはいかん」


「でも、飲まないと死ぬよ」


ハルは少し黙った。


「内部通路を確認する。何かあるかもしれん」


「内部通路?」


「コックピットの後ろに、それらしいパネルがある」


昨日の混乱の中で、ハルはその存在だけは目に入れていたらしい。

ミナは振り返る。


斜めになった床の向こう、壁に四角いラインが浮かんでいる。

壁の色とは微妙に違うグレーの板。


「これ?」


「多分な」


二人で近づいた。

ハルが縁に手をかける。


「ロックがあるはずだ」


指先で探ると、僅かな段差が見つかった。

レバーらしきものもある。


「開くかな」


「開けるしかない」


ハルは力を込めた。

金属がきしむ音がした。

動かない。


ミナも反対側に手を添え、二人で引いた。


一度。


二度。


三度目で、何かが剥がれる感触があった。


錆びついたロックが、悲鳴を上げている。


もう一度、力を込める。


ガコン。


鈍い音とともに、パネルがわずかに浮いた。

そこから、冷たい空気が流れ出してくる。


「開いた」


ミナが息を弾ませながら言う。


ハルは隙間に指を差し込み、さらに引き開けた。

パネルが横にスライドし、その向こうに暗い空間が現れた。


細い通路だった。


人ひとりが横向きでやっと通れるくらいの幅。

壁には雑多な配管が走っている。

非常灯の赤い光はここまでは届かず、ハルの持っていた小さなライトだけが頼りだ。


「行けそうか」


「……狭いね」


「俺が先に行く。お前は後ろから来い」


「うん」


ハルはライトを片手に、通路へと足を踏み入れた。

床も傾いている。

足を置くたびに、金属の冷たさがブーツ越しに伝わってくる。


後ろからミナの息遣いが聞こえる。

狭さと暗さのせいか、いつもより少し早い。


通路の壁に沿って、太い管が走っている。

ところどころにバルブや継ぎ目。

その継ぎ目から、小さな水滴がぽたぽたと落ちていた。


「……ミナ」


「なに」


「ライトを貸せ」


交代でライトを持つ。

ハルが継ぎ目に光を当てると、そこに小さな透明の玉がいくつもぶら下がっているのが見えた。


「結露だ」


「飲めるかな」


ミナが近づいて、指先でそっと触れる。

玉が弾けて、冷たい水が皮膚を滑った。


「冷た……」


思わず指を舐める。

味は、ほとんどなかった。

ただ、少し金属っぽい匂いがした。


「大丈夫?」


「死にはしなさそう」


「検査する手段がない」


ハルはそう言いながらも、別の継ぎ目を見ていた。


「結露が出てるってことは、ここには温度差がある。冷却系か、別の空間との境目だ」


「じゃあ、ここから水を集められる?」


「大量には無理だが、やらないよりはマシだ」


ミナの胸の奥で、何かが少し軽くなった。


ハルは腰のポーチから、小さな金属カップを取り出した。

軍用の折りたたみカップだ。


「これで集める。しばらくここに固定したいが……」


周囲を見回す。

通路にはテープも紐もない。


ミナがポケットを探り、ヘッドセットの予備ケーブルを取り出した。


「これ、使えるかも」


「切るぞ」


「もう外とは繋がらないし」


ハルは短く頷き、ケーブルをカットしてカップを管に括りつけた。

継ぎ目の下にちょうど来るように位置を調整する。


ぽた、ぽた、と水滴がカップの中に落ちていく。


「……これで、水筒の補給ができるかもしれん」


「やった」


喜び方が、自分でも子どもっぽいと思った。

でも、言わずにはいられなかった。


狭い通路で立ち尽くしていると、背後から冷気と、ほんの少し違う気配がした。


振り返る。


コックピットへ続く入り口の向こう、暗い空間に向かって、何かがゆっくりと息を吐き出しているような感覚。


「……ねえ、ハル」


「何だ」


「やっぱり、このゴッグ二号機」


言いかけて、言葉を止めた。


ハルが振り向いている。

ライトが彼の顔を斜めに照らす。


「何を言いたい」


「ううん、なんでもない」


「言え」


「……なんか、こう」


ミナは壁に軽く手を当てた。

冷たい金属の感触の下に、もう一枚、何か柔らかいものが眠っているみたいな気がした。


「生きてるみたい、って言ったら、怒る?」


ハルは少しだけ目を細めた。


「俺も昨日、少しそう思った」


予想外の返答だった。


ミナは瞬きをした。


「でも、今は言わない。冷却水だ。循環系だ。結露だ」


「なんでそんなに否定するの」


「名前をつけ始めたら、怖くなる」


言葉が静かだった分、その本音がよく聞こえた。


「“生きてるみたい”なんて言ったら、こいつが沈んだとき、俺たちも一緒に殺される気がする」


「……」


「だから今は、ただの鉄の塊だと思わせてくれ」


ミナは何も言えなかった。

通路の狭さのせいだけではない息苦しさが、胸の中に溜まっていく。


「戻るぞ。ここで長く立ってると、酸素の無駄だ」


「うん」


コックピットに戻る途中、ミナはもう一度だけ結露の滴を見た。

一滴一滴が、外の深い水と、機体の中の温度差と、この箱の中にいる二人の呼気とでできている。


カップの中に、ゆっくりと水が溜まっていく。


戻ったコックピットは、相変わらず赤い光に染まっていた。

傾いた床。

正面のモニターには泥しか映っていない。


ハルは操縦席に座り直し、深度計と酸素残量を確認した。


「変化なし」


「安定してるってこと?」


「そうだ。悪い意味でも、良い意味でも」


ミナは隣に腰を下ろした。

端末を手に取る。


「11月29日、午後。内部通路と配管を確認」


自分の声が、さっきより少し落ち着いている気がした。


「配管継ぎ目の結露を利用して、水の補給を試みる。カップ一つ。落下点に固定」


ハルがちらりとこちらを見る。

ミナは続けた。


「ゴッグ二号機の内部構造は、事前に聞いていたものより複雑。コックピット後方にメンテナンス通路、さらに奥に封鎖された隔壁あり。現在のところ、開かない」


「明日も試す」


ハルが小さく口を挟んだ。


ミナはそれも録音に乗せる。


「明日も開放を試みる予定」


少し間を空けて、最後に一行だけ付け足した。


「……機体内部から、周期的な振動音あり。冷却系のものと判断」


自分で書いておきながら、心の中で「本当にそう?」と問いかける。

けれど記録には、「判断」と書いた。


そうしておかないと、何かが崩れそうだった。


録音を止める。


ハルが身体を少しずらし、ミナにスペースを空けた。

二人で、傾いた床に寄りかかるように腰を下ろす。


「……ハル」


「何だ」


「もし、このまま誰とも繋がれなかったらさ」


「ん」


「私たちの記録、誰が聞くんだろ」


ハルはしばらく答えなかった。

深度計を見ているのか、どこも見ていないのか分からない目をしていた。


「分からん」


「分からないのに、私、喋ってる」


「喋ってろ」


「え」


「お前が喋ってる間、俺はお前の声を聞いている」


ミナは言葉を失った。


「外に届かなくても、ここで俺が聞いてる。十分だろ」


それは、慰めでも、ロマンチックな言葉でもなかった。

ただの事実として、静かにそこに置かれた。


その方が、胸に来た。


「……じゃあ、勝手に喋り続ける」


「勝手にしろ」


二人は微妙に反対方向を向いたまま、同じ傾きで壁にもたれかかった。

赤い光が、二人の影をコックピットの壁に映し出す。


その影のすぐ横で、金属の壁がかすかに震えた。


ゴッグ二号機が息をしている。


そう口に出そうとして、ミナはやめた。

代わりに、胸ポケットの中の小さな箱——ひよごっぐの重さを指先で確かめる。


「……お腹すいた」


ぽつりと零すと、隣でハルが短く笑った。


「それは、まだ言うな」


「なんで」


「それを言ったら本当に腹が減る」


「もう減ってるよ」


「俺もだ」


二人はしばらく、何もない天井を見上げていた。

深度計の数字は相変わらず九十一のまま、微動だにしない。


沈黙が、またひとつ深くなった。

けれど、さっきより少しだけ、薄く甘い匂いが混じっている気がした。


その正体に、ミナはまだ気づかない。

「沈黙」も、まだ名乗らない。


深度91メートル。

ゴッグ二号機の内部で、小さな水滴と、小さな声だけが、確かに世界を動かし始めていた。





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