第1話「沈黙」
宇宙世紀0079年11月28日。
その日も、アマゾンの空は曇っていた。
雨が降るわけでもなく、晴れる気配もない。
湿った空気だけが、じわじわと肌にまとわりついてくる。
ミナ・カワシマは、通信車両の中でヘッドセットを外した。
耳の後ろに残ったパッドの跡を、指先で軽くこする。
長時間押しつけられていた部分が、鈍く主張していた。
「……ノイズ、多すぎ」
独り言みたいに零して、モニターの波形を見つめる。
遠くで雷が転げているのか、波は落ち着きなく揺れていた。
ジャブロー方面からの重たい電波。
地形由来の反射。
水分をたっぷり含んだ空気。
全部が混ざり合って、
「聞きたいもの」だけを上手く隠している。
それでも、耳を澄ます。
それが自分の仕事だからだ。
車両の外から、笑い声が入ってくる。
テント前で缶コーヒーを回し飲みしている声。
カードゲームの勝敗で盛り上がる声。
整備兵が工具箱を蹴飛ばして、罵声を上げる音。
その全部が、厚い鉄板を通して、少し丸くなって届く。
ミナは窓の外に目だけを向けた。
視界の端で、水面が鈍く光る。
灰色の空を映したアマゾンの湖だ。
湖畔には仮設の桟橋。
その先に、黒い塊が一つ、じっと座っている。
ゴッグ二号機。
まだ肩の装甲が外されたままの、どこか間の抜けた姿。
一号機の予備パーツだったはずの機体を、急遽「二号機」として深度実験用に再整備したもの。
中身の詳細を知っている者はほとんどいない。
「二号機、ねえ……」
数字が増えると、安心材料が増えた気がする。
カイル・フォン・シュトラール中佐は、そう言っていた。
「現場の士気なんて、そういうもんだ」と。
その中佐は、今日は一号機の方に付いている。
湖の向こう側、別の桟橋。
あちらから出ていくのが「盾」だ。
こちらは、耳と目だ。
ミナは視線をモニターに戻した。
波形が、ひとつ、派手に跳ねた。
「あ……」
身を乗り出す。
ヘッドセットを素早く装着し直す。
電波ではない。
空全体が、きしむような感じ。
次の瞬間、視界の端を白いものが走った。
音は、そのすぐ後で世界を叩いた。
――ズドォンッ。
車両が丸ごと蹴り上げられたみたいに揺れる。
床が斜めにずれ、積んであった書類が空を舞う。
機材ラックが倒れ、ケーブルが弾ける。
ミナは椅子ごと横倒しになり、肩を強く打った。
耳の中の音が、一度全部消える。
代わりに、鈍い耳鳴りと、遅れて戻ってくる悲鳴だけが残った。
「被弾!」「伏せろ!」
どこかで誰かが叫んでいる。
何発目かも分からない砲撃が、テント群を引き裂いていく。
熱が空気を焼き、
鉄と布と人の匂いが一度に押し寄せる。
通信車両の壁越しに、炎の気配が染み込んでくる。
「ミナ!」
ノイズの中から、聞き慣れた声が掬い上げられた。
ハル・ノイマンだ。
扉が荒々しく開く音。
ミナは身体を起こそうとして、足が何かに絡まるのを感じた。
倒れたラック。剥き出しのケーブル。
泥だらけのブーツが床を鳴らし、ハルが飛び込んでくる。
彼は迷いなくミナの肩を掴み、一気に引き起こした。
「立てるか」
「……うん」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
ハルの顔にも泥と煤が飛んでいる。
ヘルメットの横は焦げ、制服には爆風の跡。
「ここはもう持たない。出るぞ」
「通信設備——」
「捨てろ」
短く、鋭い一言だった。
ミナは、机の上の端末と無線機とを一瞬だけ見比べる。
「一つだけ持て」
ハルは床に転がっていた携行端末を拾い上げ、そのままミナの胸に押しつけた。
「それで十分だ。走るぞ」
外に出た瞬間、熱と煙と土砂と鉄の匂いが一気に視界を埋めた。
テントが燃え、
倒れたアンテナが炎の中に沈み、
さっきまでカードゲームをしていた場所は形を失っている。
「シュトラール中佐は——」
ミナの声を、砲声が叩き消した。
ハルは答えない。代わりに、彼女の手を握った。
痛いほど、強く。
湖の方へ走る。
泥に足を取られながら、空気の密度が変わっていくのを肌で感じる。
爆風が何度も背中を押し、耳鳴りが増えていく。
視界が開けたところで、ミナは思わず足を止めた。
湖の向こう側。
白い光柱が、空から真っ直ぐに降りていた。
音もなく、一号機のあたりを包み込む光。
次の瞬間、そこにあったはずの影が、きれいに消えている。
「……あ」
喉が何かを言おうとしたのに、音にならない。
ハルが腕を引く。
「見るな。行くぞ」
彼の声も僅かに震えていた。
それでも、足は止まらない。
湖畔の仮設桟橋が見える。
本来なら整備兵が何人もいて、手順を読み上げている場所。
今は、誰もいない。
桟橋自体が途中から崩れ、湖に沈んでいた。
「……ゴッグ二号機は?」
「いる。沈む前に乗る」
ハルはそう言うと、水際へ躊躇なく飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと!」
ミナも続く。
水の冷たさが、思考より先に身体を固める。
泥混じりの水は底を見せず、指先だけが頼りだ。
黒い胴体が半分だけ水面に出ている。
胸部ハッチはまだ閉じていた。
「ハッチまで行くぞ。掴まってろ」
ハルは片腕で水をかき、もう片方でミナの背を押す。
軍服は水を吸って重くなる。
背後で爆発。波が立ち、二人の身体を押し戻そうとする。
あと少し。
指先が装甲に触れる。
ハルがハッチを叩く。
通常なら、内側からの解錠か外部パネルの操作が必要だ。
しかし、内部でロックが外れる音がした。
「……開いた?」
ミナが呟いたのと同時に、胸部ハッチが水を蹴り上げるように少し浮いた。
「今だ、入れ!」
ハルはミナを押し上げる。
ミナはずぶ濡れのまま狭い開口部に滑り込み、
床に膝を打った。
すぐ後ろからハルが飛び込み、ハッチを引き閉める。
外の光が、一気に切れた。
金属が噛み合う音。
流れ込んできた水が床を走る音。
乱れた呼吸の音。
それだけが残った。
「……閉まった」
ハルの声。
ミナは、ただ頷く。
次の瞬間、ゴッグ二号機全体が大きく傾いた。
「うわっ」
残っていた水が一方向へ流れ、二人を巻き込む。
ミナは壁に肩を打ち、ハルは操縦席に投げ出される。
外で何かが崩れた。
桟橋か、岸か、砲弾か。
もはや区別はつかない。
ただ、機体が水に引きずり込まれていく感覚だけは、鮮明だった。
「ハル!」
「分かってる!」
彼は操縦席に飛び乗り、メインスイッチに手を伸ばす。
起動音が低く走り、一部の計器が灯る。
非常灯の赤が、狭い空間を染める。
「推進器——」
スロットルを引く。
応答は、ない。
外部モニターは泥で塞がれ、茶色の壁しか映さない。
「チクショウ、動け……!」
歯を食いしばり、操縦桿を引く。
機体は沈黙を続ける。
深度計の数字だけが、粛々と増えていく。
二十。
三十。
四十。
耳が詰まり、身体が重くなる。
「ハル、深度——」
「見るな」
「でも——」
「俺が見る。お前は座ってろ」
ハルは深度計から目を離さずに言う。
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
五十。
六十。
七十。
ゴッグ二号機は、まっすぐ沈んでいく。
外の音は、いつの間にか消えていた。
爆発も、叫びも、風も、何もない。
あるのは、水が外殻を撫でていく感触だけ。
やがて、数字の増え方が緩やかになる。
九十。
九十一。
そこで、深度計は止まった。
同時に、揺れも止まる。
機体は、深度91メートルのどこかの泥の上に、傾いたまま「座った」。
非常灯の赤が、斜めになった床と壁を照らす。
ミナは少しずり落ちそうになりながら、支えを探した。
ハルはしばらく無言で計器を見つめ、
やがて操縦桿から手を離した。
「……ミナ」
「なに」
「状況を、言え」
その言葉で、混乱していた頭の奥から訓練が浮かび上がる。
胸ポケットの中で、さっき押しつけられた携行端末の硬さが存在を主張した。
ミナは一度だけ深く息を吸い、計器を見渡した。
「……酸素残量、七十二時間十四分」
声は少し震えていた。
それでも数字は正確に出てくる。
「現在深度、計器値九十一メートル。外部モニター全損。推進系応答なし。浮力制御……かろうじて生きてる。機体姿勢、傾斜」
「よし」
ハルが短く応じる。
「通信は?」
「まだ見てない」
ミナは通信コンソールに身を寄せた。
床に転がっていたヘッドセットを拾い上げ、耳に当てる。
自分の鼓動が、やけにやかましい。
スイッチを入れる。
電源は生きていた。
「こちらサルガッソ02……第8水陸両用機動大隊所属、ミナ・カワシマ伍長。誰か、聞こえますか」
ノイズ。
「マティアス大佐、リゼット准将、どなたでも。こちらゴッグ二号機——」
ノイズ。
「サルガッソ01、応答願います」
雷に似た虚しい音だけが続いた。
「……だめ」
ヘッドセットを外す。
肩がかすかに震える。
「誰も——」
続きは、ハルが引き取った。
「分かってる」
彼は目を閉じ、一度長く息を吐き、それから開いた。
「ミナ」
「なに」
「記録を取れ」
胸ポケットの端末が急に重くなる。
「記録は死者の代わりに語る」という、前任の通信兵の声がよみがえる。
ミナは端末を取り出し、録音ボタンを押した。
小さな赤いランプが灯る。
「11月28日」
自分の声が、他人のもののように聞こえる。
「第8水陸両用機動大隊所属、ミナ・カワシマ伍長。搭乗機、MSM-03Kゴッグ二号機」
横で、ハルが静かにこちらを見ている気配。
「現在深度、計器値九十一メートル。酸素残量……七十二時間十四分」
数字に意味を与える。
今の自分にできることは、それだけだ。
「外部との通信、応答なし。地上部隊およびゴッグ一号機の状況不明」
喉の奥で何かがつかえる。
それでも、言葉を続ける。
「乗員は、ハル・ノイマン軍曹と、私。二名。負傷……軽傷。生存」
「今のところはな」
ハルがぽつりと添える。
ミナは最後に、一行を足した。
「……以上。記録を開始します」
録音を止める。
沈黙が落ちた。
外も、沈黙している。
爆発音も、風も、鳥の声もない。
代わりに、コックピットのどこかから微かな振動音が聞こえていた。
何かが、ゆっくりと循環する音。
水か、空気か、あるいは別の何かか。
ミナは、その音に耳を澄ます。
「……ねえ、ハル」
「何だ」
「この機体さ」
「ゴッグ二号機がどうした」
「動いてないのに、息をしてるみたい」
ハルは一瞬だけ眉を寄せ、すぐに首を横に振った。
「それは冷却水の音だ。循環系が生きてる」
「そうかな」
「そうだ」
事実に名前を与えることで、怖さを抑え込もうとしている声だった。
ミナは壁から耳を離す。
「……じゃあ、冷却水の息ってことにしておく」
「勝手に擬人化するな」
「してないよ」
小さな言い合い。
思わず、二人とも少し笑ってしまう。
笑っている自分に、また驚く。
非常灯の赤は変わらず、床は斜めのまま。
頭上には91メートルの水と泥。
外界との回線は、沈黙したまま。
ハルはシートに深く腰を沈め、
ミナは端末を握りしめたまま目を閉じた。
深度91メートル。
ここから始まる七日間のことを、
このときの二人はまだ知らない。
箱のさらに奥で、
沈黙だけが、その先を知っていた。




