ポリーの罪
「ポリー・ニコルズ……」
ソフィアはその名を記憶するように、小さく繰り返した。ベイルは手元の手帳に視線を落とし、そこに書きつけられた内容を読み上げる。
「ポリーの夫は、かつて北部シュタール鉄道の設計技師をしていました。誘拐事件が起きる1年程前、横領罪で逮捕されています。裁判ではロムシェルに嵌められたのだと主張しましたが、結局実刑判決を受けて服役を」
ベイルの後を、バドが補足する。
「投獄されてまもなく、夫は病死しています。それがポリーがロムシェルを恨んでいた原因だと思われます」
「何故今頃になってエルドに戻ってきたの?」
「理由までは不明ですが、ダーヴィントンでの暮らしはかなり貧しかったようです。もしかしたら仕事を求めて戻って来たのかも。それで、この後はどうなさいます?」
確認するように尋ねたバドに、ソフィアは考え込んだ。
次の公判まではもう時間がない。
サミュエルがポリーの元にいるのか否か、それを確かめなければと、ソフィアは思った。
「ーー行くわ。明日、ポリーに会いに行く」
そして翌朝。
ソフィアはポリーの家を訪れた。ソフィアの住まう新市街から目と鼻の先に、ポリーの暮らす3階建てのアパートメントがある。
ベイルとバドが調べた住所は、この建物の2階である。馬車から降り立ったソフィアは、緊張した面持ちで建物を見上げた。
建物の中に入って階段をあがると、ポリーの家は目の前である。一つ息を吸って扉をノックしようとして、ライオネルがそれを止めた。
「私が」
そう言ってソフィアを後ろに庇うように立つと、二三度強く扉を叩いた。「ちょっと待って!」と中から応答する少年の声が聞こえ、ドタドタと室内を動き回る音がする。ソフィアが気を引き締める間もなく、ガチャリと扉が開いた。
「はい、どちらさん?」
瞬間大男が視界を塞いで、少年が驚いた顔で目を瞬かせた。
「ポリー・ニコルズさんはいらっしゃいますか」
ライオネルの後ろから顔を出しながらソフィアが尋ねると、「母さん?」と少年は戸惑ったように聞き返した。ソフィアはまじまじと少年の顔を凝視する。
ーー似てる。
少年の容姿は、先日会ったダレルにそっくりだった。黒い髪に、オリーブ色の瞳。面差しも、ダレルの血縁者であることを強く感じさせる。
「あんたら、誰?」
訝しげな口調の少年に、ソフィアは警戒心を解こうと笑顔になった。突然6人もの人間で押しかけたのだから、不審に思われて当然だ。ソフィア以外は皆屈強な男ばかりなのだから。
「ソフィア・オールドマンといいます。ポリーさんにお会いしたいのですが」
少年はソフィアを頭の天辺から足のつま先まで眺めて、首を傾げる。
明らかに裕福そうな身なりに、ポリーとの繋がりを見いだせないようだった。
「待たせてもらっても?」
家の外でもかまわない、とソフィアが聞くと、少年は少し考えた後ぶっきらぼうに呟いた。
「……別に中でもいいよ。入って待てば」
「ありがとう」
ビンスとアンガスは家の外でポリーの帰りを待つと、ソフィアにそっと耳打ちした。ソフィアは少年に促されるまま、室内に足を踏み入れる。
「母さんとは、どんな知り合い?」
少年が廊下を歩きながらそう尋ねたので、ソフィアはなんと答えるべきか迷った。少年の口ぶりから、彼は何も知らないのだと思ったからだ。
「実は今日が初対面です。昔の事でポリーさんに聞きたいことがあって」
「ふうん」
少年はソフィアの方をちらっと視線を送りながら相槌を打つ。関心があるのかないのか、その口調からは判別できなかった。
「ポリーさんはいつお戻りに?」
「今日は仕事が休みだから、市場に買い物に行ってるだけ。すぐ帰ってくるよ」
居間に入ると、テーブルと2脚の椅子が目に入った。
少年から椅子を勧められて、ソフィアはそこに腰を下ろす。ライオネル達護衛は、ソフィアと少年の間に絶妙な距離を保ちながら壁際に控えた。
「あなたの名前を、聞いても?」
目の前に座った少年に、緊張した声音でソフィアが聞くと、「俺?」と少年がきょとんとした顔をした。
「サムだけど。サム・ニコルズ」
その瞬間、壁際に立つベイルとバドが鋭く視線を交わし合う。
ーーでは彼が。
この少年が、やはりサミュエルなのか。ソフィアはゴクリと唾を飲み込んだ。
何も知らない様子の少年に、ソフィアは内心困惑する。ポリーを「母さん」と呼ぶ彼は、自身が誘拐された事を知らないのだろうか。
4歳ならばうっすらと記憶は残るものだと思っていたが、ソフィアの予想に反して、彼はポリーを実の母親だと信じているのかもしれない。
「ずっと、二人暮しを?」
ソフィアが尋ねると、「そうだけど」とカップを手に持ちながら少年は頷いた。ソフィアが尚も質問を重ねようとしたところで、バンッと玄関の扉が開く音が耳に入る。
バタバタと焦ったような足音が聞こえ、居間のドアを勢いよく開けて中に入ってきたのは、中年の痩せた女性だった。一つにまとめられた黒髪が、やや乱れている。女性の後ろには、ビンスとアンガスの姿が見えた。
「母さん、お客さんが来てるよ」
のんきな声で少年が振り返る。入口で佇むポリーは、その言葉が耳に入っていないかのように、青い顔でソフィアを凝視した。その表情は硬く、唇は僅かに震えている。数秒固まった後で、ポリーは口を開いた。
「……サム、ちょっと買い物を頼まれてくれる?」
「買い物? 今行ってきたばかりだろ」
「あぁ……だから、そう、ランプ用の油を買い忘れたのよ」
少年は疑わしそうな顔で眉間に皺を寄せたが、尚も「行ってきて」と急かすポリーに渋々立ち上がった。
少年が部屋を出て行った後、ポリーはジロジロとソフィア達を眺め回した。
「……警察、ではないわね。あなた達は誰なの」
「ソフィア・オールドマンといいます。サミュエル・バーシルトを探しに来た、といえばお分かりになりますか」
「……じゃあ、ロムシェルの仲間?」
「いえ、むしろ逆です。サミュエル探しを依頼されたのは事実ですが、私はロムシェルとは敵対する側の人間です」
そう告げたソフィアに、ポリーが見せた表情は奇妙なものだった。青ざめた顔に浮かぶのは、絶望と諦め。そしてーー。
ーーホッとしている?
僅かな変化だが、ポリーが安心したように肩の力を抜いたのが分かった。ポリーはソフィアの前に腰を下ろすと、テーブルに置かれたカップの水をぐいっと飲み干す。そうして自分自身を落ち着けるように、ふぅーと深い息を吐き出した。
「どうして、ここが?」
「12年前の事件を調べ直しました。調べていく内に、サミュエルは死んでいないことに気がついたんです。サミュエルが生きているなら、ブランドンには協力者が必要です。それで当時の容疑者リストからあなたを見つけ出しました」
ソフィアの言葉を聞きながら、ポリーは手元に視線を落とす。暗い顔になったポリーに、ソフィアは静かに言葉を重ねた。
「先ほどの彼がサミュエルですね」
念を押すように尋ねたソフィアに、力なくポリーが頷く。それはあまりにもあっけない、罪の告白だった。
「あの子を連れて行くの?」
弱々しく尋ねたポリーに、ソフィアは「はい」と頷いた。
「サミュエルの家族はずっと彼を探しています。生きていることを知らずに、長いこと苦しみ続けてる」
「自業自得よ」
ぼそりと吐き捨てるようにポリーが呟いた。
「何故こんなことをしたんです。サミュエルには何の罪もなかったのに」
「復讐のためよ。あなたはロムシェルがどんな男か知っている?」
「……ええ」
オールドマン家もまたロムシェルによって手酷い打撃を受けている。
「あいつは裏切りによって成り上がってきた男よ。私の夫はロムシェルに殺されたわ」
「横領罪で逮捕されたと聞きました」
「嘘っぱちよ! ロムシェルに嵌められたの。あいつは夫の告発を恐れて、無実の罪をでっちあげたのよ!」
「告発?」
ソフィアが聞き返すと、ポリーは「夫は設計技師だったの」と渋面を作った。
「北部シュタール鉄道で使っている車両は、設計図通りに作られていないの。早く安く作るために、安全基準を遥かに下回る品質で作られてる。夫はその事に気づいたわ」
ポリーの目は血走っている。
「夫はロムシェルにやめるようにと進言したの。すぐにやめるなら、告発するつもりはないとも言った。ロムシェルもその時は、改善を約束したのよ」
でも嘘だった、とポリーは苦々しげに言う。
「ロムシェルに話した数日後、夫は横領罪で逮捕されたわ」
「冤罪だと?」
「当たり前よ! 夫は真面目で仕事一筋の人だった! 会社の金を着服するなんて、するはずがないわ!」
横領の件が真実か否かソフィアには分からなかったが、少なくともポリーは、ロムシェルに嵌められたのだと確信しているようだった。
「でもそれは誘拐する理由にはなりません」
「分かってる! でもあの時は、ああするしかなかったの」
顔をあげたポリーはソフィアの瞳を見返した。
「夫が逮捕された時、私のお腹には赤ちゃんがいたの。でも逮捕のショックで、死んでしまったわ」
流産か、とソフィアは顔を歪めた。
「あの男に私は家族を奪われた。なのに何故あいつは幸せになるの? 子供や孫に囲まれて」
「……それが、誘拐の理由ですか」
「私は子供を奪われたんだもの」
奪い返して何が悪いの、とポリーは言った。
「それからずっと、母親のふりを?」
「ふりじゃないわ! 私はあの子の母親よ!」
「……彼は当時の事を覚えていないのですか?」
ソフィアの質問に、ポリーは首を振る。
「うっすらと両親の記憶はあるみたい。自分の名前も分かってた。だから私も、サムと呼ぶようにしたの」
「それで、どうして……」
何故サミュエルはポリーを母親として慕っているのだろう。両親の記憶があるのなら。ソフィアが首を傾げたのを見て、ポリーは少し後ろめたそうな顔になった。
「サムは実の両親に捨てられたのだと思ってるわ」
その言葉に、ソフィアは険しい顔になる。
それはポリーがそのように吹き込んだ、ということだろうか。
「私を逮捕するの?」
既に諦めたような、覚悟を決めたような声だった。
「ええ。警察に伝えます」
「……そう」
ポリーの顔はまた、ほっとしたようなものになる。
ーーなぜ?
どうして安心したような顔をするのだろう。逃げることに疲れたのだろうか。罪の意識に耐えきれなくなった? 疑問に思っていると、ふとポリーの手が視界に入った。荒れてひび割れた、労働を知る手。それを見ながら、ソフィアは疑問を口にした。
「何故、エルドに戻ってきたのですか」
たとえサミュエルが忘れていたとしても、エルドに住めばいつどんなきっかけで、自分の本当の出自を知ることになるかわからない。何故今になってこの街に戻ってきたのだろう。
「ダーヴィントンでは仕事がないの。ずっとぎりぎりの生活で。エルドなら働き口が見つかるから……」
そう言われて、気がついた。この家を覆っている貧困の影に。少ない家具はすべて使い古された物で、真新しい物はない。目の前のテーブルもあちこちが傷つき、汚れが目立つ。
「サムは良い子よ。学校にはほとんど行かせられなかったけれど、優しくて賢い子だわ。どこに行っても愛される子よ。ーーあの子の本当の両親を、あなたは知っている?」
「はい、先日会いました」
「サムを大切にしてくれるかしら?」
祈るような、懇願するようなポリーの表情に、ソフィアは頷きを返す。
「彼らはサミュエルを愛しています。きっと大切にしてくれます」
ーーああ、そうか。
歪な愛情ではあるが、ポリーは母親として、サミュエルを確かに愛しているのだ。そのことにようやくソフィアは気がついた。
だから今頃になって、両親の元に返す気になったのだ。その心情の変化が罪の意識によるものなのか、貧困の為なのかは分からない。だがポリーは誰かが己の罪を暴き、サミュエルを迎えに来ることを待っていたようにソフィアには思えた。自分からサミュエルに真実を告げることも、出頭することもできずにーーだから、ほっとした顔をしたのだろう。
ソフィアの答えに、ポリーは安堵して息をつく。
「そう。ならいいわ。もしも我儘を聞いてもらえるなら、最後に1日だけあの子と過ごしてもかまわない?」
本当の事を話すから、というポリーにソフィアはそれには答えられず、静かに立ち上がった。
アパートメントを出たソフィアに、ベイルが声をかける。
「どうなさいます?」
このまま警察に向かうかどうか。
ソフィアは頭を悩ませた。あの様子を見る限り、今更ポリーがサミュエルに危害を加えるとは思えない。
すぐに警察に伝えるべきだとは分かっていたが、唯一、ロムシェルの事が気がかりだった。
ポリーの話を聞いて、ロムシェルが明日の証言台で罪を認めるとは、ソフィアには思えなくなっていたのだ。
ーーあいつは裏切りによって成り上がってきた男よ。
ーーどうかロムシェルには気をつけて欲しい。
ポリーの言葉と、レイモンドの手紙。
それらを受けて、たとえサミュエルの居場所を伝えても、約束通りにロムシェルが真実を語るとは、ソフィアには信じられなくなっていた。
むしろサミュエルの無事を知るやいなや、手のひらを返す姿が容易に想像できる。ソフィアとの約束を破ることに、ロムシェルは頓着などしないだろう。
しかしソフィアは、ロムシェルに法廷で真実を語らせたかった。
セオドアの潔白を証明する為に、そしてイライアスを有罪にする為に、ロムシェルの証言は強力な後押しになるはずだ。
今のソフィアは、サミュエルという強力な交渉カードを持っている。使い方次第で、ロムシェルに法廷で真実を語らせることができるのではないか。
サミュエルを両親の元に返す事はソフィアの中で決定事項ではあったが、一方的にロムシェルに利用される気もなかったのである。
悩みに悩んだ後で、ソフィアは口を開いた。
「ベイル、バド頼みがあるの」
「なんでしょう?」
「このまま明日の公判まで、ポリーを見張っていて欲しいの。公判がはじまったら、警察にサミュエルの居場所を知らせてくれる?」
「公判がはじまったら、ですか」
「ええ、はじまったら」
そう言うと、ソフィアはベイルの横に立つライオネルに視線を移す。
「ライオネル、家に戻ったらロムシェルに電報を打って。サミュエル探しで進展があったから、すぐにオールドマン邸に来るようにと」
「分かりました。それでロムシェルにサミュエルの居場所を伝えるのですね?」
「いいえ。私は悪女になるわ」
「ーーは?」
意味が分からず間の抜けた顔をしたライオネルに、ソフィアは真剣な表情で頷いた。