善悪の彼岸
レイモンドが急いで採掘場に取って返すと、鉱夫たちがすでに土砂に埋まった坑道の前に集まっているところだった。坑内に取り残された孤児達を助けようと、怒号が飛び交っている。
「掘削機を用意しろ!」
鉱夫の叫びを制止したのは、ディエゴだった。
「よせ。金の無駄だ。どうせもう助からん」
吐き捨てるようなディエゴの言葉に、その場にいた全員が固まった。瞬時に場が静まる。ディエゴの言葉は、ここでは神の言葉にも等しい。
しかしいつもはディエゴに追従するダンが、この時ばかりは言いにくそうに口を挟んだ。
「ですが……」
「聞こえなかったのか? どうせその坑道はもう使えん」
ゴクリ、とダンの喉が鳴る。鉱夫たちは一様に殺気だった目でディエゴを見つめていたが、声を発する者はいなかった。逆らったらどんな目に合うかわからない。その恐怖が彼らの口を閉ざしているのだった。
ーーこのままでは本当に救助がされない。
その場でレイモンドだけが、ディエゴに食い下がった。
「どうか救助を! 人が取り残されています!」
安全対策など皆無な坑道には、迂回路も退避路もない。地下深くまで続く一本道。入口が塞がれれば、彼らは闇の中取り残されることになる。救助が来なければ、待ち受けるのは死だけだ。
頭を下げるレイモンドを、ディエゴは鼻で笑った。
「孤児は人じゃない。家畜と同じだ」
いくらでも替えがきく、と吐き捨てたディエゴに、レイモンドは身体中の血が沸騰するような怒りを覚えた。あまりの怒りに手が震えるが、それでも今はこの男の助けが必要だった。レイモンドは激情を胸の内に隠し、地に頭をつけ懇願した。
「どうか……どうか! 仲間を助けてーー」
その言葉を、最後まで言うことはできなかった。その瞬間、レイモンド達のいた地面が揺れ、爆音が空に響いたからだ。何が起こったのかすぐには分からなかった。
爆発だ、と気づいたのは鉱夫の叫びを耳にした後だった。
「逃げろ!」
「崩れるぞ!」
鉱夫たちが怒鳴りながら一斉に退避をはじめる。炭鉱の上の方からパラパラと落石が見られ、今にも崖崩れが起きそうだった。
「粉塵爆発だ! 離れろ!」
焦ったような男達の声を聞きながら、レイモンドは5番坑道の前から動けない。
最初の事故で坑道に流れ込んだ土砂で炭塵が舞い、密閉された坑内で引火して大爆発を起こしたのである。ーーその中に、マイクとハリスを残したまま。
爆発の衝撃を思えば、2人の生存は絶望的だった。それほど大きな爆発だった。レイモンドは言葉もなく、その場から動けない。胸に広がるのは、後悔の念ばかり。
ーー私のせいだ。
もっと早くボリスへ行くと言っていれば良かったのだ。そうすれば、2人が事故に巻き込まれることはなかったのに。せめてあと2日、計画を早めていれば。
「ボサっとするな! 逃げるんだ!」
名も知らぬ鉱夫が半ば引きずるようにレイモンドをその場から移動させる。よろよろとした足取りで逃げながら、前を走るディエゴの声を、その時レイモンドの耳は拾った。
「くそったれが。これでまた金がかかる」
それを耳にした瞬間、ふっつりとレイモンドの中で何かが切れた。それは多分、これまで無意識下でレイモンドを縛っていた倫理という名の糸。この一線だけは越えてはいけないという、人と人ならざるものの間に引かれた線引きともいえるもの。
貧民街での生活の中でも、レイモンドがまだ手放してはいなかったもの。それがディエゴの言葉でぷつりと切れた。
ーーこの男は許せない。
ライアンが見ていた怨霊が、レイモンドにも見えるような錯覚を覚えた。ライアンがディエゴの周りに見ていたもの。常軌を逸した異常な怯えの理由。あの時、ライアンはディエゴの周りに死者を見ていたのだった。
ディエゴの隠された罪を、ライアンだけが知っていた。ディエゴは自分の炭鉱で働く子供を鞭打っていただけではなかった。街で気まぐれのように子供を攫っては、死に至るまで拷問していたのである。ディエゴによって、命を落とした子供達。その霊が、この男の周りに纏わりついていたのだ。
ーー何人死なせれば気が済むんだ。
自分が奪った命の重みなど、ディエゴはこれっぽっちも気にしてはいない。今回だって、事故の責任などこの男は微塵も感じてはいないのだ。あまりの怒りに目の前が赤く染まる。
ディエゴを罰したいという感情。それがもう抑えられなくなっていた。
土砂崩れはその後も何度か起こり、炭鉱はしばらく閉鎖されることになった。犠牲者はマイクとハリスを含めて17人。そのほとんどが、孤児だった。
ーー許さない。
心の底から湧き上がる怒りと、焼け付くような憎しみがレイモンドの全身を覆っていた。
数日後、ディエゴの屋敷に賊が押し入った。盗まれたのは現金と債券、そして炭鉱の権利書。
白昼堂々の大胆な犯行だったが、犯人の姿を見た者はいなかった。屋敷を不在にしていたディエゴは帰宅後、憤怒の表情を浮かべると、留守を預かっていた執事を殴り飛ばした。
「この役立たずが!」
ディエゴは顔を真っ赤にして怒り狂ったが、犯人の痕跡は何一つ残っていなかった。
その後2日が経っても、ディエゴの怒りはおさまらなかった。むしゃくしゃとした気分を晴らそうと、例によって街に出掛けることに決めた。子供を物色するためだ。
ディエゴがお抱えの御者を呼んで、街に繰り出したのはそれからすぐのこと。この御者には、金をたんまり握らせている。ディエゴの趣味を知っているこの御者は、人通りが少なく、灯りのない道ばかりを選んで進む。
程なくして、貧民街の近くで馬車が速度を緩めた。
「ディエゴ様」
御者の呼びかけに窓の外を見れば、前を歩く小さな子供の背中が、ディエゴの目に飛び込んできた。
ーー今日は運がいい。
ディエゴはニンマリとほくそ笑んだ。今日の獲物はこいつにしよう。「速度を落とせ」と命じると、子供を追い抜かぬぎりぎりの速度まで馬車の動きが緩慢になる。
そのまま背後からゆっくりと近づき、ディエゴはそっと扉を開けた。身を乗り出して、子供を馬車に引きずり込もうとしてーー突如、暗闇から別の影が飛び出した。
次の瞬間強い力に手を引かれて、ディエゴは馬車から転がり落ちた。
地面に投げ出されるやいなや、黒い影がディエゴに馬乗りになる。それが人であることはディエゴにも分かったが、暗闇で顔までは分からない。影が動いた瞬間、ディエゴの頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。そのたった一撃で、ディエゴは昏倒した。
意識を無くしたディエゴを足元に転がしたまま、影が鋭く声を発する。ーー声の主は、レイモンドである。
「今すぐ去れ! 己の罪を白日の下に晒されたくなければ!」
覆面をつけたまま御者に向かってそう告げる。共犯であるこの御者を脅し、ディエゴをこの場所までおびき寄せたのはレイモンドだった。囮役は、勿論ライアンである。
御者の男は御者台から降りると、脇目も振らずに一目散に逃げ出した。レイモンドはその背中を見送った後、ディエゴの手足を縛り上げ、ライアンとともに馬車に担ぎ込んだ。
ライアンにディエゴを見張らせ、レイモンドは自ら手綱を取る。
そのまま馬車ごと強奪すると、レイモンドは無言で馬車を走らせた。誰もいない夜道を、一台の馬車が駆けていく。やがて馬車が止まったのは、高級住宅街からも貧民街からも離れた朽ち果てた平屋だった。人が住まなくなってから長いのだろう。今にも崩れ落ちそうな建物の周りには、人家は見えない。
レイモンドはディエゴを奥の一室まで運び込むと、椅子に座らせたうえで縛り直した。ライアンには、家の前で見張りを命じる。この後ここで起こることを、ライアンには見せたくなかったからだ。
レイモンドは2人きりになった部屋で、ディエゴを見下ろした。意識を無くしたまま、ディエゴはだらりと椅子に凭れかかっている。レイモンドは、バチッとその頬を打った。
「起きろ」
その声にディエゴが眉を顰めた。まだ頭の痛みが残っているのか、小さく呻いている。
「ここはどこだ……?」
状況が飲み込めないのか、ディエゴはゆっくりと頭を左右に動かした。2、3度頭を振った後で、ディエゴの視界がレイモンドを捉えた瞬間、その瞳が驚きに見開かれる。
「お前は……」
「意外だな。私を覚えているのか」
「これはあの時の仕返しか? こんなことをして、ただで済むと思ってるのか!」
怒声をあげたディエゴの頬を、レイモンドは力任せに殴りつけた。ゴリッという骨の砕ける音がして、ディエゴが悶絶する。
「貴様は自分の置かれた状況が分かっていないのか?」
低く、冷たい声が響いた。抑揚のないレイモンドの声は、ディエゴの耳にはぞっとするほど恐ろしく聞こえる。
「貴様の命を握っているのは私だ」
その時になってはじめて、ディエゴの瞳に怯えが揺らめいた。
「お前、一体何をするつもりだ」
「……指示通りにするんだ。言うとおりにしたら、私は何もしない」
そう言ってレイモンドは封筒から一枚の紙を取り出した。ディエゴに見えるように広げられたそれが何であるかを悟った途端、ディエゴの表情がみるみる赤くなってゆく。
「権利書を盗んだのは、お前か」
ぎりっと先程までの恐怖心も忘れて、ディエゴが歯ぎしりする。レイモンドの手に握られている炭鉱の権利書。それはつい先日、ディエゴの屋敷から盗まれたものだった。
「この譲渡契約書にサインするんだ」
そう言うと二枚目の紙を封筒から出して、レイモンドはディエゴに見えるようにした。それは炭鉱の権利を譲渡する旨が記された正式な契約書であった。これにサインをすれば、炭鉱はレイモンドのものになる。
「こんな脅しに屈すると思うのか!」
つばを飛ばして怒り狂うディエゴの鳩尾に、レイモンドは容赦なく一撃を入れる。「ゔっ」と、ディエゴが苦悶の表情を浮かべた。
「私は頼んでるわけじゃない。命じてるんだ」
貴様に選択肢はない、と言ったレイモンドはどこまでも冷ややかだ。ーーここで拒否をすれば本気で殺される、とディエゴの頭を警鐘が鳴り響いた。
「……本当にサインをすれば逃がしてくれるんだろうな?」
「ああ」
淡々と返すレイモンドからは、感情は読み取れない。ディエゴはゴクリと生唾を飲み込んだ。サインをした後にやはり殺されるのではないか、という思いと、サインをすればもしかしたら助かるかもしれない、という考えの間で揺れ動く。
「あと5秒で決めろ。サインをするか、死ぬか」
「待て! 分かった! 分かったから」
最終的にはレイモンドの瞳にちらちらと、くすぶるように見え隠れする狂気の色に、ディエゴは気圧されるように頷いた。ーー断ったらすぐにでも殺される、とそう思ったからだ。
レイモンドはディエゴの右手を縛っていた縄だけを解くと、その手にペンを握らせた。ディエゴが契約書に署名をするのを見届けた後、レイモンドはそれを再び封筒にしまった。
「サインしたぞ。これで逃がしてくれるんだろうな」
レイモンドはディエゴの質問には答えず、代わりにドアの前まで近づくと、ゆっくりとドアノブを回した。直後、3人の男達が部屋に入ってくる。ドカドカと足音をたてながら周りを取り囲んだ男達に、ディエゴは青ざめた。
「誰だ、その男達は! 約束が違うじゃないか!」
「"私は"何もしないと言ったんだ」
無表情のレイモンドにディエゴの額から脂汗が吹き出した。男達の手には木棒が握られている。
「お前達は、一体……」
「お前が殺した子供達の父親だと言ったら、理解できるか?」
3人の内の一人がそう言った。40歳前後の、日に焼けた男である。
「何を言って……」
「身に覚えがあるだろう。お前が攫って殺した子供だよ!」
別の男が声をあげる。その顔はディエゴへの怒りで真っ赤に染まっていた。
「ついさっきお前がやろうとしていたことだ。分からないとは言わせない」
最後の一人がそう言った。ディエゴは身の危険を感じて段々と色をなくしていく。レイモンドはその様子を黙って見つめていた。
この父親達に復讐の機会を与えるため、2日前、レイモンドは彼らに近づいた。殺された子供達が案内をしてくれたから、遺族に会いに行くのは造作もなかった。
拉致した子供を殺した後、ディエゴはその遺体を道端に捨てていた。いつものように家を出て、変わり果てた姿で見つかった子供達。家族の悲しみは、いかばかりだったのか。
レイモンドは我が子を殺した犯人が分からず悲嘆に暮れる彼らに接触し、復讐の場を用意したのだった。
レイモンドがディエゴの罪を証明するために、屋敷から盗み出した形見の数々。ディエゴは戦利品として、子供達が身につけていたものを金庫の中に保管していたのである。それを見せると、父親達の目の色が変わった。
元々、ディエゴが炭鉱で働く子供を鞭打っていたのは周知の事実。その残虐性を、知らぬ者はいない。後はディエゴが犯行に及ぶ一部始終を見せるだけでよかった。それで父親達はレイモンドの話を信じたのである。
「待て! 金ならやる!」
貧しい身なりの男達を見て、ディエゴは叫ぶ。だがその言葉は、男達の怒りの炎に油を注いだだけだった。
「どの口が言う!」
「お前の汚い金なんぞいるか!」
「死んで詫びろ!」
口々にディエゴを罵ると、殴る蹴るの暴行を加える。
「やめてくれ! なんでもするから!」
「お前は命乞いしたあの子達の言葉を聞いたのか?」
激しい殴打が全身に浴びせられ、やがてディエゴの口数が少なくなってゆく。沈黙し、ぐったりとしてきても、父親達は手を緩めなかった。彼ら自身も箍がはずれて、自制がきかなくなっていたのかもしれない。
徐々に呼吸が浅くなり、ディエゴの瞳から光が消えるのを、レイモンドは見つめ続けた。完全にディエゴの息が止まるまで。ディエゴがピクリとも動かない事に気づくまで、父達の怒りは冷めなかった。
「もう、死んでる」
やがて男のひとりがそう言って、やっとその場の興奮がおさまった。はぁはぁと3人とも息を荒くしている。
「……死体はどうする?」
その疑問に答えたのはレイモンドだった。
「床下に埋めます」
この家は十数年放置されている廃屋だ。滅多な事では見つからないだろう。レイモンドも協力して、4人は床板を外し、地面を掘り進めていった。
ディエゴの死が公にならぬよう、死体は顔を焼いた上で埋めた。死体を埋め終わるまで、誰も一言も喋らなかった。黙々と作業を終えると、「……じゃあ」と口にして、ひとりまたひとりとこの家から出て行く。
多くを語らずとも、全員が分かっていた。自分たちは今この時、殺人の共犯者になったのだと。この秘密は決して漏らしてはならない。
やがて3人が立ち去ると、レイモンドは家の外で待つライアンの元に向かった。
「レイモンド」
心配顔のライアンに、レイモンドは頷いた。
「終わったよ。全部」
そう言いながら、馬の装具を外して逃がしてやる。馬のいなくなったキャリッジは、その場で燃やして灰にした。
帰り道を二人並んで歩きながら、レイモンドは自分が決定的に変わってしまったことを感じていた。
かつて真っ直ぐに正義を信じていた心は、消えてしまった。
例えば罪悪感。ディエゴを死に至らしめた事で、もっと罪の意識に苛まれるかと思ったが、そういった感情を自分の中に見つける事はできなかった。後悔も懺悔も、自身のどこを探しても見当たらない。やはり自分は何かの一線を超えたのだ、とぼんやりと思う。
自分のした事を後悔はしていなかったが、ソフィアには知られたくなかった。こんなにも己の手が汚れていることを。悔悟の念さえ抱かぬ心を。知れば彼女は、レイモンドを恐れるだろう。
ーーソフィア。
決定的に彼女とは隔たってしまったことを知る。ソフィアのいる世界と、自分がいる世界はあまりに違う。
もう戻れない日々が、脳裏に浮かんでは消えていった。たとえこの先シュタールに戻ったとしても、ソフィアには近づけない。近づくことは、許されない。
レイモンドは頭を振って、彼女の記憶を脇に押しやった。
その日、廃屋に戻るとライアンが突然声をあげた。
「マイクとハリスが帰ってきた!」
意味が分からず困惑の表情を浮かべると、「2人の霊がここにいるんだ!」とライアンが息巻いた。
「……本当に?」
「なんで嘘つく必要があるんだよ! 本当だって!」
興奮するライアンは、この状況をあっさり受け入れている。レイモンドの横で虚空に向かって話しかけるライアンの様子は、2人が生きていた頃と変わらない。一方のレイモンドは、突然のことにまだ事態を飲み込めていなかった。
死者が見えないレイモンドにとっては、肉体的な死は重要で、マイクとハリスを失った痛みが消えるわけではなかったからだ。
「4人でボリスへ行けるんだ!」
嬉しそうに笑顔を浮かべたライアンのそばで、ただ頼りなく、レイモンドは立ち尽くしていた。
翌日、胸中の混乱もそのままにレイモンドはディアビルを旅立った。初めての列車に興奮するライアンの声を聞きながら、レイモンドは窓の外を無言で眺める。視界に映るのは、岩山と荒野ばかり。シュタールとは、まるで違う景色。
ボリスへの道中も、貧民街から抜け出せたという喜びは皆無だった。
ーー早くシュタールへ戻らなければ。
イライアスへの復讐しか、自分にはもう残されていない。炭鉱の権利書を手土産に、メイソンに近づき利用するーーそのことしか頭になかった。
そうしてボリスへ辿り着いたレイモンドが出会ったのは、赤銅色の髪を持つ、メイソン・マックスウェル。
ーーレイモンドと同じ痛みを抱えた男だった。




