炭鉱都市ディアビル
西海岸に位置するディアビルは、炭鉱で栄えた街である。
ディアビルから内陸部まで広がる一帯を、ディアドラ炭田という。その名の通り、ここで石炭が採掘されるのだ。
50年程前から、一攫千金を狙う移民達が、我先にと競うようにこの地にやって来た。占有権などまだなかった時代。資源は土地を拓き、事業に着手した者のいわば「早い者勝ち」であった。
最大200もあった事業者はその後淘汰が進み、今では20程度にまで減少していた。ここで採れた石炭は、鉄道を使って内陸部の都市ボリスへ運ばれるか、ディアビルから海外に輸出される。このボリスこそ、大製鉄所を有するティトラ・スチールのお膝元だった。
レイモンドがディアビルを最初の居住地に定めたのは、単純にそこが定期船の到着港から最も近い都市だったからだ。
レイモンドという名は、自らつけた。船の中で、たまたま耳にした名だ。
乗船後、食料を求めて一般船室に降りた際、3等客室にいた母親が生後間もない我が子を「レイモンド」と呼んでいたのである。その赤子の名を借りた。新しい人生を生きる自分にはちょうどいい名だと思った。
ディアビルの貧民街がティトラでの最初の寝床になった。はじめは住み込みで雇ってくれる場所を探したのだが、身元不明の子供を雇ってくれる者が見つからなかったのだ。
雇ってもらえないかと店の門を叩くも、断られること十数回。門前払いならまだ良い方で、相手の虫の居所が悪ければ、殴られ蹴られた上で放り出された。ティトラへ着いて初めて迎えた夜は、野宿だった。
野外で寝ることがこれほど体力を奪うということを、はじめて知った。一夜外で過ごしただけで、身体は冷え切り、あちこちが痛い。
翌日も働き口を探し回ったが、結果は同じだった。日も暮れ、空腹は限界に近い。夜を明かす寝床を探すうち、辿り着いたのは貧民街であった。
そこはまるで世界から捨て置かれたような場所だった。曲がりくねった薄暗い路地が複雑に入り組み、崩れ落ちそうな連棟住宅が並ぶ。
街は不潔極まりない有様で、赤く淀んだ汚水が垂れ流され、道には瓦礫やゴミが散乱していた。ゴミと何かが腐ったような臭いが相まって、強烈な悪臭を放つ。道端で眠る乞食は、生きているのか死んでいるのかさえ定かではなかった。
シュタールにいた頃なら、レイモンドは1日だってこんな場所で過ごす事はできなかっただろう。だが雨露をしのげるのならば、贅沢は言えない。
休める場所を探してふらふらと彷徨い歩く。1時間程歩いていると、廃墟と化した工場跡地を見つけた。小さな町工場である。レイモンドは建物の中に入ると、内部をぐるりと一周する。
ーー誰かここで暮らしているのか?
大判の布が5枚、「事務室」というプレートが掛けられた部屋に置かれているのを見つけた。テーブルの上に置かれた籠の中には、ビスケットが数枚残っている。あまりの空腹に、手が自然と伸びていた。
2日ぶりの食事。棚の中にワインを見つけた。これも開けて、喉を潤す。これが誰かの大切な食料だということは分かったが、生存本能が勝った。これを逃せば、次に食事にありつけるのは、いつになるか分からない。レイモンドは机の上の食べ物を腹に入れると、急いで部屋を後にした。住人が戻ってくる前に、ここから出なければ。
「今日はたいして収穫なかったな」
突如、入口の方から声が聞こえて、ビクリとレイモンドは肩を揺らした。咄嗟に物陰に隠れる。身を潜めて声のする方を見れば、5人の少年が入ってくるところだった。14、5歳くらいだろうか。体格から見てレイモンドよりやや年上であることがうかがえた。
「最近警戒されてるな。警備まで雇いやがって。あのジジイ!」
「そろそろあの店から盗むのも潮時かもな。次の獲物を探そうぜ」
「おい待て、ーー誰かいるぞ」
少年の1人がそう言って、騒がしい声が静まる。
見つかったのかとレイモンドは息を殺したが、次の言葉で彼らの縄張りに入り込んだ侵入者が、自分の他にもいたのだと判明した。
「お前ここで何をしてた!」
1人の少年が、更に小さな子供に馬乗りになっている。馬乗りになった少年が子供を殴りつける間に、別の少年が先ほどまでレイモンドがいた部屋に慌てて駆け込んだ。
「おい! 食料がなくなってる!」
その声に、馬乗りになった少年の殴打が激しくなった。
「こいつ、俺達から盗むとはいい度胸じゃねぇか」
そう言ってまた殴る。レイモンドは咄嗟に手近にあったレンガの破片を右手に持つと、それを工場の2階にひゅっと投げ入れた。カランコロンと音がして、少年達の罵声が止まる。
「ーー誰か、いる」
「2階だ。見てこい」
馬乗りになった少年を残して、4人が2階に向かう。4人が階段を上っている間、レイモンドはこっそりと下に残った少年の死角に回りこんだ。少年達が2階に上がったのを確認すると、すぐさまレイモンドは物陰から躍り出た。そのまま目の前の少年に突進する。ドン、と後ろから押されて、少年が体勢を崩した。バランスを崩した身体を支える為、少年が地面に手をつき、子供の拘束が外れる。レイモンドは叫んだ。
「逃げろ!」
その声に、下敷きにされていた子供がよろめきながら走り出した。レイモンドも素早く身を翻すと、脇目もふらずに駆け出す。
「待て!」
2階にいた少年達も階下の様子に気づいたようだったが、時すでに遅し。追ってくる声は、既に後ろにある。
外に出て細い路地をひたすら走る。もうここまでくれば大丈夫だろうというところまで来て、二人は立ち止まった。ゼェゼェと、荒い息を吐き出す。
「悪かったな。あいつらの食料を盗んだのは、私なんだ」
息を切らしながら謝ると、目の前の子供はジロっとレイモンドを睨んだ。
黒目黒髪の整った顔立ちの子供だった。身体はレイモンドより更に小さく1、2歳は下に見える。先ほど少年に殴られた頬が既に赤く腫れていた。痛々しいその顔にレイモンドはもう一度謝罪する。
「本当にすまなかった」
「お前なんかに助けられなくても、俺は自分で逃げられたんだ!」
謝罪が気に触ったのか、子供はレイモンドに食ってかかる。
「ああ、そうだな」
どうも彼のプライドを傷つけてしまったらしい。レイモンドが穏やかに返すと、子供は不機嫌な顔で黙り込んだ。その様子を見ながら、この子は一体どういう子なのだろうと、ついつい探るように見てしまう。何故あんな場所にいたのだろう。レイモンドと同じく寝床を探していたのだろうか。
目の前の子供はむすっとした顔のまま「俺は帰る」と呟くと、レイモンドに背を向けて歩きだした。その後ろ姿を見送っていると、10歩程進んだところで少年がくるりと振り返った。
「お前、名は?」
渋い表情で尋ねる子供に、レイモンドは初めてその名を口にした。
「レイモンドだ」
聞いたきり自分は名乗らず、子供は路地に消えた。ーーそれが、ライアンとの出会いだった。
結局その日は別の廃屋を見つけて、夜を明かした。毛布も何もなかったが、それでも外で寝るよりはいい。レイモンドは身を丸めて横になると、そのまま泥のように眠りに落ちた。
そして翌朝。レイモンドは夜が明ける前に目を覚ました。外に出れば、孤児らしき子供たちがどこかへ向かっているのが目につく。
ーーこの子達はどこへ?
疑問に思って後をついて歩くと、行き着いたのは炭鉱であった。
近くにいた大人をつかまえて尋ねると、なんとここでは孤児であっても雇ってくれるという。レイモンドは一も二もなく飛びついた。
責任者だという男の元へ行くと、早速今日から働けという。
ーー良かった。これで飢えからは逃れられる。
だがその考えは、たった1日で覆されることになる。考えてみればすぐにわかることだ。ここで働く孤児達は、皆やせ細っているではないか。
炭鉱での仕事は、過酷だった。毎日朝5時に集合して、昼を挟んで夜の10時まで、ひたすら働く。仕事は主に石炭の採掘、運搬、選炭である。食事は昼の1食のみ。
食事と僅かな賃金を求めて、孤児たちは1日16時間もの労働に耐えるのだ。孤児達の扱いは、労働者というより奴隷に近かった。ダンという名の現場監督を務める男は、人をいたぶるのが趣味というような男で、ことある毎に難癖をつけては孤児達をいびっていた。
「お前、石炭を落としたろう」
「仕事をさぼったな」
「手際が悪い!」
そう言っては殴り、その後には延々と罵声を浴びせるのだ。
殴って怪我をさせれば、更に効率が落ちるという当たり前の理屈さえ、その男には通じない。結局のところ、ただ弱い者を殴りたいだけなのだ。
どんな理不尽な扱いを受けても、孤児達は逆らえない。ダンの裁量ひとつで、その日の賃金がもらえなくなるからだ。
ダンに目をつけられると最悪だった。炭鉱の中で最も劣悪な場所を割り当てられ、過酷な作業を強いられるのだ。孤児達は常にこの男の顔色を伺い、ダンの機嫌の悪い日などは震え上がった。
そんなにひどい環境ならば、上に訴えれば良いのではと当初思ったレイモンドだが、間もなくその考えも浅はかであったことを知る。
この炭鉱の持ち主であるディエゴ・マルサンは、ダンの上をいく悪党であったのだ。豚のように丸々と太った身体を揺らしながら、週に一度炭鉱を訪れる彼は、自らの炭鉱で働く少年少女を物色しては、屋敷に連れ帰って鞭で打つという嗜虐趣味を持つ男だった。
この男が来る度、子供達は目をつけられぬよう顔を伏せ、できるだけ坑内に篭った。そんな風に自らの存在に怯える孤児達を眺めるのが、ディエゴの何よりの愉しみだった。
ダンやディエゴの姿を見て、人の皮を被ったケダモノはどこにでもいるのだと、レイモンドは思う。苦しむ者を更に奈落に突き落とすことに、悦びを感じるような連中が。
だが怒りを覚えても、今の自分にはどうすることもできなかった。
明日我が身がどうなるかわからない。働きはじめてたった10日で、レイモンドの身体はみるみる痩せてしまっていた。血色の良かった頬はこけ、身体は骨が浮き出そうな程に窶れた。
復讐を果たす前に自らが命を落とすかもしれない。餓死など想像もしたことはなかったが、この街では日常茶飯事なのだ。このままではまずいという焦りを感じていた頃。レイモンドに声をかけて来たのが、マイクとハリスという二人の少年だった。
「なぁ。お前、俺達の仲間にならないか?」
炭鉱での食事中、そう話しかけてきたのがマイクだった。くるくると特徴のあるくせっ毛に、そばかすだらけの顔。マイクの顔を見ながら、レイモンドは食事を口に運ぶ手を止めた。
「仲間?」
レイモンドが訝しげな顔をすると、マイクがにやりと頷く。
「ああ、まだどこのグループにも入ってないんだろ?」
貧民街に暮らす子供達は大抵が何らかのグループに所属している。彼らは徒党を組んで、窃盗や強盗などを行うのだ。孤児がひとりで貧民街で生きていくのは難しい。自分が追い剥ぎにあう恐怖から身を守るために、そして何より生きる為に、彼らなりに編み出した知恵だった。
「俺達のグループの人間が少し減ったからな。新しいメンバーを探してる」
そう言ったのは、焦げ茶色の髪色をしたハリスという少年である。「人が減る」という言葉が、即ち死を意味しているのだと、その頃にはレイモンドも気づくようになっていた。
貧民街で暮らす子供は大半が大人になれない。栄養失調や病気、事故で命を落とすからだ。
「メンバーは他にいるのか?」
「いや、今は二人だけだ」
「……どうして私に声をかけたんだ?」
「この炭鉱で働く子供の中で、まだどこにも所属してない奴は少ないからな。俺達も人が減って困ってたし、できればグループの人間は常に行動をともにできる奴がいい」
レイモンドは少し考えた後で口を開いた。
「……分かった。入るよ」
レイモンド自身の目的を果たすためにも、このままでは駄目だという焦りがあった。
「よし、じゃあ決まりだな」
ハリスがホッとした顔で言うのを見ながら、ふと遠くの岩場に座る子供が目に入った。先日出会った黒目黒髪の子供である。あの子も、この炭鉱で働いていたのか。
「なぁ、あの子はどこのグループに入ってるんだ?」
「あの子?」
「向こうにいる黒髪の子供だ」
「ああ、ライアンか。あいつはどこにも入ってないんじゃないかな」
ハリスの答えに、レイモンドは首を傾げた。
「どこにも? 彼には声をかけなかったのか?」
「あいつ変わった奴だから。気味悪がって誰も近づかないんだ」
「気味が悪い?」
「とにかく奇行が目立つんだよな。突然叫んだり、物陰に隠れたりさ。レイモンドも近づかない方がいいぞ」
初対面の言動を見る限り、そんなにおかしな子供には見えなかったが。
気にはなったが、人の事に構っている余裕はない。その日から昼は炭鉱、夜は街での盗みが日課になった。
盗みやスリは、常に3人で行う。1人が相手の注意を引いている隙に、残りの2人が盗むのだ。
「レイモンド。お前、なかなか筋がいい」
3人で行動するようになって2ヶ月が過ぎた頃。マイクはスッた財布の中身を確認しながら、口笛を吹いた。椅子に座るマイクをレイモンドがちらと見やる。貧民街の一角にある今にも崩れ落ちそうな家屋。元々マイクとハリスが使っていたこの廃屋にレイモンドが移り住み、今ではここが3人の家になっていた。
「そうか?」
「器用なんだな。覚えも早い」
「今じゃスリの技術はレイモンドが一番だしーーほら、今日の分だ」
ハリスの言葉に頷きながら、マイクは3等分したわけ前をレイモンドに差し出す。それを受け取りながら、レイモンドは自身の骨張った指を見つめた。
マイクとハリスと出会ってから、確かに生活水準は上向いた。1日1食だった食事が2食になり、寝床には毛布もある。だが、底辺の生活であることに変わりなかった。常に空腹を感じる日々。盗みが失敗した日などは、1食で耐えねばならぬ。他の孤児達との獲物や食料の奪い合いもある。1日の大半を炭鉱で過ごした後で、犯罪行為に手を染めるのだ。すり減るような毎日に、光は見えない。
ーーイライアスには、遠すぎる。
復讐どころか、シュタールに戻れるのかさえ分からない。ここで何もできないまま朽ちてゆくのだろうか。
大切な人々を切り捨ててこんなところまでやって来たのは、一体何のためなのか。描いていた未来も過去も、全てを捨てたというのに。
生きることそのものに命がけの日々に、暗い影がレイモンドの心を覆っていく。
そんな風に絶望に支配されそうになった時レイモンドが思い出すのは、生き埋めにされたあの日と、金色の髪を持つ少女のことだった。
それが狂って暴れ出しそうになる心を、鎮めてくれた。
あの夜の恐怖は、生涯忘れることはないだろう。己の身体に生々しく刻まれた銃創を見る度に、イライアスへの憎しみは再燃した。あの時幻視した死神の顔が、生への執着を思い出させてくれるのだ。
そして、ソフィア。
あの真っ直ぐな少女を思い出すと、心の中には明かりが灯った。亡き家族を思い出すのは、幸福だった日々よりも哀しみが勝って辛かったが、ソフィアを思い出す時は心が安らいだ。
笑った顔、怒った顔。遠く離れても尚、瞼の裏に浮かぶその姿を思い浮かべるだけで、彼女はレイモンドを救ってくれたのだ。
そうして遠い異国の地から彼女の事を思う時、まだ自分には人の心が残っているのだと思えた。
心からその人の幸福を願う。そういった対象がいることは、レイモンドにとって救いになっていた。ただしソフィアの隣に既に新しい婚約者がいるかもしれないと想像しただけで、子供じみた嫉妬心が芽生えるのだけは止められなかったが。
ーー馬鹿が。自分から手放したくせに。
だから純粋にソフィアの幸せだけを願っていたとは言い切れない。
未だ彼女に執着していることを、自覚していたからだ。だが会いたいなどとどの面下げて言えるだろう。もう自分には何を言う資格もないのに。
それでもひとつ、望みがあった。
いつかシュタールの地を踏むことができたなら、ひと目その姿を見てみたい、と。それが叶うなら、この辛い日々にも耐えられる。
自分勝手な思いだが、それが生きる希望になっていたのは確かだ。
イライアスへの復讐はレイモンドの中で使命と化していたが、ソフィアをもう一度この目で見る事は願いだった。
両極端にある2つの感情。それが心の奥深いところから、生への渇望を思い出させてくれていた。
ーーいつか、必ずシュタールへ戻る。
その執念がなければ、きっとくじけていただろう。
そうして復讐への道筋は未だ見えないまま、レイモンドがティトラへ来てからひとつ季節が変わろうとしていた。




