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アリシア嬢

 目があったと思ったのは一瞬だけで、レイモンドはすぐに視線を別の方へ移してしまった。そのままぐるりと会場を見渡すと、誰かに何事かを囁く。形の良い唇がゆっくりと動くのが目に入ったが、相手の人物は人影に隠れて、ソフィアのいる位置からは見えなかった。

 ひどく懐かしい、という直感を理性の声が否定する。


 ーー違う、別人だわ。


 髪の色も、名も違う。共通点は、瞳の色だけ。けれど黒い瞳などありふれた色ではないか。

 顔立ちも、記憶の中のグウィンとは違っていた。だがソフィアが知っているのは、13歳のグウィンの姿だ。あれから何度も想像していた。成長したグウィンは、どんな風になっているのだろうかと。何度も、何度も。

 なぜ彼にグウィンの面影を重ねたのか、自分でも理由はわからない。ソフィアはレイモンドから目を逸らせなくなっていた。


 ーーどうしてこんな気持ちになるの?


 泣きたいような、胸が締め付けられるような、そんな気持ちに。

 初対面のはずなのに、初めて会った気がしない。この感覚の正体を確かめたいと、意識はレイモンドの方へと集中する。どうしようと、頭の中はそのことでいっぱいで、ヴァネッサに引き留められるまで、ソフィアは己の行動に無自覚だった。


「ソフィア! ちょっと!」


 肩を掴まれて、はっとした。

 心配そうにソフィアの顔を覗き込むヴァネッサに焦点を合わせる。2人の後ろに佇むクリスは、困惑したようにソフィアを見つめていた。

 そこでようやく、自分がレイモンドの方へと、歩みを進めていたことに気がつく。


「どうしたの?」

「……彼と少し話をしてみたくて」


 そう言うと、ヴァネッサは少し肩の力を抜いた。


「もしかして彼に見惚みとれてた? ソフィアでもそういうことがあるのね」


 いきなり歩き出すから驚いちゃったわ、とヴァネッサが苦笑する。その言葉を耳に入れながら、尚もソフィアの意識はレイモンドの方へと向けられていた。

 そこでふと、彼が話している人物が目に入った。相手の顔がソフィアのいるところから今ははっきりと見える。柔らかいブロンドの髪を持つ、小柄で可憐な女性。歳はソフィアと同じくらいだろうか。熱心にレイモンドへ話しかけている彼女の頬は淡く紅潮し、一目見て恋しているのだと分かるような、熱烈な視線をレイモンドへ向けていた。


「……彼女は?」

「ああ。アリシア・フェラー嬢のこと?」


 社交界の人間関係に疎いソフィアが尋ねると、ヴァネッサはすぐに答えをくれた。彼女が口にした名に、ソフィアは驚いて聞き返した。


「フェラー?」

「ええ。イライアス・フェラー議員の娘よ」

 

 その名には、聞き覚えがあった。鉄道建設計画があった当時、事業に関わっていた運輸省の役人の一人だ。計画に携わっていたのは、主だった者だけで20名余り。計画の一部だけに関係していた者まで含めれば、70名以上の役人の名があがる。5年の間に調べたその全員の名を、ソフィアは頭に叩き込んでいた。その内の誰かが、事件に関わっているはずだったから。

 イライアスは当時かなりの高官。2年前、彼は政治家に転身している。

 その男の娘とグウィンの面影を感じさせる青年が共にいる。胸が騒ぐのは、考えすぎだろうか。


 ーーグウィンを追いかけすぎて、どこかおかしくなっているのだろうか。


 グウィンの影を探して、その痕跡を追ううちになんでもない事でさえ、事件と関連付けて考えてしまう癖がついてしまった。

 レイモンドという人物にグウィンの影を見ることは、ソフィアの妄想の産物なのか。ーーそれとも。


「……クリス。彼、グウィンに似てない?」


 躊躇いがちにソフィアが後ろを振り返って尋ねると、クリスは当惑を深めたようだった。グウィンの事を知らないヴァネッサはわけがわからない、と不思議そうにソフィアを見つめている。

 クリスはしばらくレイモンドの方を見つめた後、口を開いた。


「……私には、あまり似ているようには見えないが。顔立ちも雰囲気も、グウィンはもっと繊細な作りだったし。彼はなんというか、掴みどころがない」

「……そう」


 やはり考えすぎなのか。グウィンのことになると、冷静さを欠く自覚はあった。きっとクリスの言うことの方が、客観的な意見なのだろう。落胆したソフィアの様子に、「全く似ていないわけじゃないと思うが……」と気遣うようにクリスが言い添えた。


「ソフィア。大丈夫か?」


 明らかにいつもと様子の違うソフィアに、クリスは心配顔である。


「ごめんなさい。ちょっと、混乱してるみたい」

「具合が悪いならもう帰る?」


 ヴァネッサの提案に、ソフィアは首を振った。


「体調が悪いわけじゃないから」


 それよりもレイモンドと話をしてみたい。真剣に彼を見つめるソフィアに、ヴァネッサもただならぬものを感じたようだった。

 レイモンドとアリシアは、楽しそうに語り合っている。アリシアはレイモンドの耳元に唇を寄せるとひそひそと何事かを囁いた。甘えるような表情に、何かをねだっているようだと、ソフィアは思う。アリシアの頬は薔薇色に染まり、見つめる瞳は潤んでいる。彼女が視線と指先をダンスフロアへ向けると、レイモンドは一つ頷いて、彼女の手を取り歩きだした。

 フロアまで進むと、向かい合って踊りはじめた二人に、周囲の視線も自然と集まっていく。レイモンドの美貌に、フロアで踊る他の令嬢達もちらちらと視線を送っていた。飛び交うアリシアへの視線には、羨望と僅かな嫉妬が混ざり合う。そんな女性達の眼差しには気づかない様子で、アリシアは一心にレイモンドを見つめている。美男美女の組み合わせに、周囲からは自然と溜息が漏れた。

 くるくると踊る2人の様子はまるで一対の絵のようで、よく似合っていた。

 けれどその光景に、なぜだかソフィアの胸は苦しくなる。


 ワルツが終わると、再びアリシアがレイモンドの耳元で何かを囁いた。レイモンドは目を細めて微笑むと、アリシアを伴ってダンスフロアを後にする。2人がソフィア達のいる入口の方へ近づいてきて、ソフィアは焦った。もしやこのまま帰るつもりではないか。


 その時咄嗟に取った行動は、後から思えば顔から火が出るようなものだった。

 公衆の面前で、レイモンドに声をかけたのである。


「あの!」


 思ったより大きな声が出て、2人が驚いて立ち止まった。ソフィアの行動に、ヴァネッサもクリスも目を丸くしている。目の前に立つレイモンドの表情には、困惑の色が浮かんだ。


「ーーなんでしょう?」


 耳に届いたのは、低く、よく通る声だった。記憶の中のグウィンの声とは似ても似つかない。やはりグウィンではないのかもと思って、いや、グウィンだって声変わりしているはずだと考え直した。

 さて、なんと言おう。ここに至って次の言葉を考えていなかったことに気づく。


「ーー以前、お会いしたことはないでしょうか」


 結局、出てきたのはひねりのない、シンプルな問いだった。

 レイモンドの隣に立つアリシアは不安そうに二人の顔を交互に見つめている。レイモンドはソフィアをまじまじと見つめた後、首を振った。


「いいえ。初めてお会いする筈ですが」


 きっぱりと言い切った声音には、なんの迷いも含まれていなかった。ソフィアを見る瞳にも、ただただ不思議そうな色が浮かぶのみ。表情の変化を見逃すまいと瞬きもせずレイモンドを凝視していたが、彼の顔にはソフィアが期待する変化は何一つ見られなかった。とても演技とは思われない、自然な反応。ーーこれが演技なら相当な役者だわ。

 どうにも先走ってしまったようだと分かって、ソフィアはがっかりした。内心の落胆を隠せないまま、ソフィアは弱々しく口を開く。


「……そうですか。すみません、知り合いに似ていたものですから。勘違いをしてしまったみたいです」

 

 素直に謝罪を口にすると、「いえ、お気になさらず」と彼は微笑んだ。てらいのない笑顔に、やはり自分の勘違いだったのだと、一度膨らんだ期待が急速にしぼんでいく。ーーひとりで動揺して、呼び止めて、馬鹿みたい。いたたまれなさに、頬に熱が集まっていく。ソフィアは恥ずかしさのあまり、俯いた。


「レイ、そろそろ行きましょう」


 アリシアが急かすように言って、彼の服の袖を引いた。上目遣いで心配そうにレイモンドを見上げるアリシアは、女性のソフィアから見ても守りたくなるほど愛らしい。

 可愛げのない自分とは大違いだと、ソフィアは思った。


「引き留めてしまって申し訳ありません」

「本当にお気になさいませんよう。では、これで」


 もう一度謝ると、レイモンドはアリシアと並んで会場を後にした。2人の背中を見送って、ソフィアの口からは溜息が漏れる。羞恥と落胆とで肩を落とした。彼はグウィンではなかった。また、違う。


 ーーあと何回、こんな思いをすればいいのだろう。


 辛かった。何度こんな失望を経験すれば、グウィンに会えるのか。些細なことに一喜一憂し、期待しては裏切られる経験は、この5年で何度も味わっていた。出口の見えない暗闇の中を、手探りで歩いていくような、先の見えない不安はぬぐえない。


 ーーでも、諦めない。


 繰り返し己に言い聞かせてきた言葉を、ソフィアは口の中で呟いた。

 無意識に、胸元に隠した指輪の輪郭をドレスの上からなぞる。この5年間でついてしまったソフィアの癖。


「ヴァネッサ、ごめんね。今日はもう帰ってもかまわない?」


 何もなかったように夜会を楽しむことは、できそうにない。

 せっかく誘ってくれたのにと謝ると、「そんなこと気にしなくていいわ」とヴァネッサはソフィアの隣に寄り添った。


「大丈夫?」


 おずおずと問いかけられて、ソフィアは笑った。強がりなのは、ヴァネッサにもクリスにも見抜かれているだろうが、仕方がない。


「大丈夫。また連絡するわ」


 ケニー兄様を探してくると、手を振ってその場を離れたソフィアの後ろ姿を、2人は何も言えずに見送った。

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