ローグ・ホテル
ローグ・ホテル。創始者ウィリアム・ローグによって作られたこのホテルが、今宵ソフィアが参加する夜会の会場である。
10年前、ウィリアムが視察に訪れたティトラから先端技術の粋を集めてシュタールに持ち帰り、この国において最も先進的なホテルを建設した。劇場が併設されたこのホテルは、今や欲望と愛憎渦巻く首都エルドの社交の中心地となっている。
この日長兄ケニーのエスコートで、ソフィアが会場に足を踏み入れたのは、19時を少し過ぎてからだった。
「ケニー兄様、忙しいのに申し訳ありません」
「構わんさ。可愛い妹の頼みなら迷惑なことなどあるものか」
大学を卒業後、家業の一つである海運業の勉強にと何年も南東の港町クリンプトンで働いていたケニーは、一年前実家に戻っていた。オールドマン家の事業経営をいよいよ本格的に学ぶことになったのである。新規事業の一つを任されているケニーは、父同様多忙の身。
そんな兄を自身のエスコートのために駆り出したことをソフィアが謝ると、「謝罪より感謝をされたい」とケニーは笑った。
「ソフィア。とても綺麗だよ」
自慢の妹だと目を細める兄に、ソフィアも微笑みを返す。今日のソフィアの装いは白と黄のドレスに、両耳には真珠の耳飾り。髪は前髪をあげ、後ろ髪をシンプルに結い上げていた。「ありがとうございます」と礼を言うと、ケニーとともにオールドマン家と付き合いのある有力者へ挨拶に向かう。
ホテルの広間には、既に200名を超える人々がひしめき合っていた。広間の中央のダンスフロアで踊る男女。その周りで談笑する人々。
挨拶をしながらヴァネッサの姿を探すも、こうも人が多くては簡単には見つからない。
幾人かの挨拶が終わった後、ケニーが口を開いた。
「誰か探しているのか?」
「友達が来ているはずなんです」
「後の挨拶周りは私がするから、ソフィアは行ってきていいよ」
その申し出に、「……でも」と迷う素振りを見せると、ケニーは目線の先で談笑する初老の男性を指し示した。
「あそこにいる子爵に新規事業への出資の話をしたいんだ。長くなるからソフィアはここまででいい」
「本当によろしいんですか?」
「二人で挨拶すべき所は終わってるから、行っておいで」
「はい。ありがとうございます」
ケニーの元を離れて、壁沿いに会場を歩いてまわる。きょろきょろとヴァネッサの姿を探していると、後ろから声をかけられた。振り返って、すぐに後悔した。立っていたのはドミニク・ソーンという名の伯爵家の令息である。最近熱心に求婚の手紙を送ってきている彼のことが、ソフィアは苦手だった。
「こんなところでお会いできるとは、今日は幸運だ」
さっとソフィアの手を取ると、慣れた仕草でその甲に口づける。
手をとったまま上目遣いでじっとソフィアの瞳を見つめて微笑むドミニクは、自身の魅力をよく知っているようだった。金髪に琥珀色の瞳。華やかな容姿の彼は、十人中十人が美男子と称するであろう優男である。それ故、女性の噂も絶えない。
躊躇なく女性を口説くドミニクのことを、ソフィアは好きになれなかった。
「相変わらずつれないな。私はこんなにもあなたに恋焦がれているのに」
困った顔をしたソフィアに、ドミニクは切なそうに眉を下げた。寂しそうな表情は、見る者によっては母性本能をかき立てられるものなのだろう。けれどソフィアは、そこに作りものめいたものを感じてしまう。
ーー私が、うがった見方をしすぎなのかしら。
好意を素直に受け止めることができないのは。でも彼はソフィアの内面を何も知らない。ソフィアが何を好み、何を嫌うか。どんな風に物事を考え、何の為に行動するのか。
彼はそれをソフィアに尋ねたことさえないのだ。
それでどうして、愛を囁くことができるのだろう。
彼が知っているのは、『オールドマン家の深窓の令嬢』という世間に流布しているイメージに過ぎない。それはただの記号だと、ソフィアは思う。若さと財産、そして容姿。それがドミニクが知るソフィアの全てなのだ。
仮にドミニクが真実ソフィアに恋しているとして、彼が好意を抱いているのは幻想の中の女性だ。ドミニクの言葉を嘘だと言い切ることはできないが、どこか空々しく感じるのはそれが理由に違いない。
「私などにかまっていては、悲しむ女性が大勢いるでしょう」
婉曲にドミニクの多情を責めるも、慣れているのか彼はニコニコと楽しげに笑った。
「嬉しいな。嫉妬してくれているのですか?」
今は貴女だけしかおりませんと、甘く囁くドミニクに、どう解釈すれば嫉妬していると思うのかと、ソフィアは呆れた。その表情に気付いていないのか、はたまた敢えて気づかないふりをしているのか、ドミニクは「ここは騒がしいですから、2人でゆっくり話しましょう」と言って、同意も得ぬままソフィアの腰に手を伸ばす。
柔らかい物腰に反して強引なドミニクに、内心の不快感は増すばかり。ドミニクの腕が触れるすんでのところで、ソフィアはやんわりとその手を逃れた。
「何度も説明しておりますが、私には婚約者がいます。どうぞ私などにお時間を使われませんよう」
「5年前に姿を消した少年ですか?」
その声には嘲るような調子が含まれている。ソフィアは淡々と「ええ」と頷きを返した。
「事実上、彼はもう亡くなっているようなものでしょう?」
死んだ婚約者を引き合いに出して私を拒むのですか、と笑うドミニクは相当自分に自信があるのだろう。断られることなど想像もしていない胸の内が、その表情から透けて見える。ソフィアの言葉を駆け引きのひとつとしか捉えていないのかもしれない。
これはもう少しはっきり言わねば分からないだろうか。そう考えて、ソフィアはにっこりと微笑んだ。
「私が嫌いなものを、ドミニク様はご存知でしょうか?」
脈絡なく話題を変えたソフィアに、一瞬当惑の表情を見せたドミニクは、しかしすぐにつられるように笑顔になった。
「いいえ。しかし今後の為にも聞いておきたいな」
「是非知っておいていただきたいものです。目の前の者が怒っていることにさえ気づかない人間が、私はとても嫌いなのですから」
「え?」
ぽかんとした表情のドミニクにそれ以上の話を打ち切るように、笑顔のまま「失礼します」と言うとソフィアはさっさとその場から立ち去った。言い逃げである。
デリカシーのない言葉に言い返すなど子供っぽいやり方だったが、どうにも腹に据えかねたのだ。
できるだけドミニクから離れるように人が密集している中に紛れると、やっと一息つくことができる。こんなことならお兄様と一緒にいれば良かった。
げんなりとしながらも、早くヴァネッサを探そうと視線を周囲にめぐらせていると、よく見知った人物と目があった。
「ソフィアじゃないか。珍しいな」
「クリス。貴方も来ていたの」
クリス・アークライト。グウィンの親友であり、今ではソフィアにとっても友人と呼べる青年だった。グウィンが消えた後、彼はヘクターとともに何度かオールドマン家を訪れていた。ソフィアを心配してのことである。
2人とはすぐに友達になった。類は友を呼ぶという言葉通り、グウィンの親友である彼らは、優しく真っ直ぐな心根を持っていたから心許すのに時間はかからなかったのだ。
今日のクリスはパリッとした燕尾服姿である。手にグラスを持ったままソフィアに近づくと、その隣に並んだ。
「夜会で会うなんていつ以来だ? オールドマン家の末の姫が顔を出すとは、男どもが騒ぐぞ」
からかうように言われて、ソフィアは渋面を作る。
「姫はやめて」
オールドマン家の娘達の中で、いまだ結婚していないのはソフィアのみ。社交の場にあまり顔を出さないソフィアは、噂ばかりが独り歩きしている。曰く、溺愛している両親が滅多に外に出さないのだとか、いまだに失踪した少年と婚約しているのはあまりに多い求婚者のふるい落としの為だとか、好き勝手な言われようである。
この5年でさらに資産を増やしたオールドマン家の末娘の婚姻は、社交界の関心事の一つになっていた。
金銭的に困窮した家の息子達は、ソフィアを嫁してオールドマン家との縁を持とうとしている。
貴族自ら金策に奔走するような時代にあって、資産家の子女と貴族の婚姻は珍しいものではなくなっていた。ソフィアへの求婚者が多いのも、そうした時勢を反映しているといえる。
「さっきドミニク様に声をかけられたわ」
「なんだ、もう捕まっていたのか」
今度は気の毒そうに言われて、ささくれだった心が少しだけ慰められた。相手が本気で嫌がっている時は、クリスは軽口をたたかない。こういうところがグウィンの友達だなと、ソフィアはついついそんなことを思ってしまう。
「友達を探しているのだけど、なかなか見つからなくて」
「人が多いからなぁ。よければ一緒に探そうか? 多少の男よけにはなるだろう」
「……いいの?」
ドミニクにうんざりしていたソフィアは、クリスの厚意に甘えることにした。
二人で会場を歩いていると、間もなく入口から少し離れた場所にヴァネッサの姿を見つける。
「良かった、ヴァネッサ。やっと会えた」
近づいて声をかけると、「ごめんなさい。探してた?」とヴァネッサが眉を下げた。隣に立つクリスに「その方は?」と視線を投げたヴァネッサに、双方を紹介する。
クリスを紹介した後、ヴァネッサがソフィアを見ながらニヤニヤしているのを見て、首を傾げた。
「どうかした?」
「いい人がいるんじゃない。隠しているなんて水くさい」
小さくソフィアに耳打ちするヴァネッサに、ぶんぶんとソフィアはかぶりを振った。
「違う! クリスはただの友達よ」
「はいはい。そういうことにしておいてあげるわ」
声を上げて笑うヴァネッサに、尚も抗弁しようとして、遮られた。
「それより、来てるわよ。レイモンド・マックスウェルが」
そう言ってヴァネッサが視線を向けたのは、広間の奥。大窓の前にはグラスを持った人々が集まり、話に花を咲かせている。
「ほら、あのひときわ背の高い人がいるでしょう?」
ヴァネッサの視線を追うようにソフィアもそちらへ顔を向けると、噂の人物はすぐに見つかった。
最初に目に飛び込んできたのは、燃えるような赤銅色の髪だった。
周りから頭一つ抜きん出た長身。吸い寄せられるようにソフィアの視線は、その人物に釘付けになった。
神話の英雄譚に出てきそうな彫りの深い端正な顔立ちに、男性的な体躯。普段は顔の美醜に頓着しないソフィアでさえ、見入ってしまうような均整の取れた顔立ちをしている。鋭い眼光に、冴え冴えとした美貌。
だがソフィアが視線を外せなかったのは、外見以上に彼が纏う雰囲気が独特だったからだ。
ーーこれは確かに、女性達が騒ぐわけだわ。
毛色が違う、とソフィアは思った。
良家の子女揃いのこの場において、彼の纏う空気は明らかに異質だった。
何が、と具体的に説明することは難しい。
強いて言うなら、草食動物の中に息を潜めた獣が一匹紛れ込んでいるような違和感があった。人の注目を浴びることに慣れた、若さに似合わぬ泰然とした空気。遠目からでも人目を引く圧倒的な存在感。なるほど、あれではただの学生だとは信じてもらえないだろう。
その時、隣の人物と話していたレイモンドがふいに会場を見渡した。目線をゆったりと移動させて、突然ぴたりとその視線が止まる。その瞬間、ほんの一瞬だけソフィアは彼と目が合ったような気がした。ソフィア達の方へ顔を向けたレイモンドを正面から捉え、息を呑んだ。
トクトクと心臓が脈を打つ。
ーー漆黒の、黒曜石の瞳。
その瞳の色に、追いかけ続けた少年の面影が唐突に重なる。
それが、レイモンド・マックスウェルとの出会いだった。




