後日談 残照
手元の書類に影が落ちたことに気づいて、レイモンドは顔を上げた。
マックスウェル家の資料室。2階の窓から顔を向ければ、太陽が西の空に沈もうとしているのが見えた。
西日が差し込み、部屋を赤々と染め上げている。
資料室へ来たのは昼過ぎだったから、思いがけず没頭していたらしい。レイモンドは読んでいた資料を棚に戻すと、部屋を出る。レイモンドが廊下へ出てすぐ、後ろから声がかかった。
「レイモンド」
「父さん」
振り返れば、メイソンが廊下に立っていた。
「仕事か?」
「はい。少し確認したいことがあったので」
「熱心なことだ」
あまりこんを詰め過ぎるなよ、とメイソンは小さく笑う。
しばらく立ち話をしていると、突然窓の外からわっと歓声が上がった。声のした方向へ視線をやると、庭でソフィアと雇い入れた子供達が何やら遊びに興じているのが目に入った。6、7人の子供達が、ソフィアとともに芝生の上に輪になって座っている。
その様子を見ながら、メイソンが楽しげに口を開いた。
「ーー屋敷が明るくなったな」
そう言って、目を細める。
ーー確かに、明るくなった。
ソフィアと結婚してから、2度目の秋。ソフィアはすっかりこの家に馴染んでいる。
屋敷の雰囲気が変わったと、はじめは自分だけがそう思っているのかと思ったが、どうやら周囲も同じように感じていたらしい。
最初、ソフィアがこの屋敷にもたらした変化は、ごくごく小さなものだった。
例えば窓際に小さな花々が飾られるようになったことや、休日に子供達のために焼き上げられた菓子の甘い香りが屋敷を漂うようになったというような。使わないからと閉ざしていた部屋には日の光が入るようになり、庭には四季折々の花が咲き乱れるようになった。
ひとつひとつは、ささやかな変化。けれどそういったことが積み重なって、ゆっくりとこの家は変わっていった。
おそらく一番の変化は、声だ。
楽しそうな子供たちの笑い声。それを、耳にする機会が増えたのだ。
子供達と接する時、ソフィアにはまるで女主人然としたところがなかった。姉のように接し、時にはおどけて率先して子供達を笑わせる。そうして生まれた子供達の楽しそうな笑い声は、大人達にも伝染した。
それがマックスウェル家全体の空気に影響している。
「まるでステラがいた頃のようだ」
懐かしさを含んだ声音に、レイモンドはちらりとメイソンへと視線を送る。
その横顔に浮かぶのは、愛する妻を失った悲哀ではなく、ただ純粋に昔を懐しむ色だった。
誰かを深く愛しているほど、それを失った時の悲しみは大きい。こんな風に思い出を語れるようになるまでに、メイソンはどれほどの痛みを乗り越えたのだろう。
『時が傷を癒してくれるのだ』と、かつてメイソンが語ったことがある。
ーー今はもう、思い出すのは幸せだった記憶ばかりだよ。
レイモンドが養子になって、まだ間もない頃のことだ。レイモンドが不可解そうな顔をすると、メイソンは全てを諒解しているというように微笑した。
ーーお前にも、いつか分かる。
当時はそんな日が来るとは到底思えなかったが、今ではあの言葉は正しかったのだと思える。
レイモンド自身、今では亡き家族を想う時、悲しみよりも幸福だった頃のことを思い出すようになっている。メイソンがなにもかも見通しているような気がして、ふと浮かんだ疑問が、思わず口をついて出た。
「こうなることを分かっていたのですか?」
メイソンが不思議そうな顔をしたので、レイモンドは言葉を重ねた。
「私を養子にしてくれた時、こんな未来が来ることを予想していたのでしょうか?」
幸福で満ち足りた未来が来ることを、メイソンは知っていたのだろうか。
かつて海を渡ったばかりの頃、復讐のその先にはもう何もないのだと思っていた。復讐を遂げた後は、ただ朽ちるのを待つように余生を過ごす。真実そう思っていたのだ。こんなにも穏やかで平穏な日々が来るとは、想像もしていなかった。
「まさか」
即座に否定され、レイモンドは首を傾げた。
「ですが当時の私はどうしようもなかったでしょう」
せめて将来を見込んでくれたからこそ、養子にすることを決めてくれたのではないのか。
当時のレイモンドといえば復讐に燃え、顔つきも心もひどく荒んでいた。寛容なメイソンでさえ、レイモンドを受け入れるのは躊躇したはずだ。にもかかわらず彼がリスクを負ってまでレイモンドを養子にしたことが、いまだに不思議だった。そう伝えれば、メイソンは目尻に皺を寄せて笑った。
「お前自身はそう思うのだろうが、私から見るお前は、決して復讐だけに狂ってはいなかったよ」
そう言う意味では私の見る目は間違っていなかったなと、メイソンは言う。
「私はね、レイモンド。ただ復讐の先にあるものを見たかっただけなんだ。全てが終わった後で尚、幸福だと言える日常を手にしてもいいと、私は思う。復讐よりもその先の人生の方が、遥かに長いのだから」
あの時の決断を後悔はしていない、とメイソンは続けた。
「お前は手のかかる息子だが、それを面倒だと思ったことは一度もないよ」
そこまで言ってから、メイソンは茶目っ気たっぷりの顔になった。
「お前のおかげで新しい家族も増えたし、感謝している。存外、お義父様と呼ばれるのは悪くない」
そこまで言って、メイソンは言葉を切った。
窓の外では、空が夕闇に染まりはじめている。
「……そろそろ暗くなる」
庭を見ながら「迎えに行っておいで」とメイソンから促され、レイモンドはゆっくりと頷いた。
一度上着を取りに行った後庭に出ると、先程までそこにいたはずのソフィアの姿だけが見えない。
子供達に行き先を訊ねると、裏庭に行ったという。
「少し散歩をしてから戻ると」
子供達に屋敷に入るように告げると、レイモンドは裏庭へと足を向けた。池を越え、小さな落葉樹の森に入ると、すぐにその姿を見つけた。秋に色づく木々の間から、金色の髪が覗いている。
柔らかな毛先が風になびいて、ふわふわと揺れていた。
「ソフィア」
呼べば、声の主が誰であるのかすぐに分かったのだろう。振り返ったソフィアの顔には、笑みが浮かんでいた。
「レイモンド」
「そろそろ冷える」
足早に近づいて、屋敷に戻ろうと促すと、ソフィアは少し困った顔をした。
「お医者様が、少し運動した方がいいと」
「なら、明日にしよう。私も一緒に行くから」
そう言うと、持っていた上着と肩掛けをソフィアに着せる。
「寒くはないわ」
「そうは言っても、この季節夜は想像以上に冷えるから」
一番上のボタンまできっちりと留められ、ソフィアが小首を傾げた。
「……レイモンドは、意外と過保護みたい」
独り言のような呟きだったが、レイモンドの耳に届くには十分だった。
「大切な妻に、過保護になるのは当然だ」
真面目な顔で返すと、ソフィアは黙り込んだ。沈黙の後、ソフィアはおもむろにレイモンドの手をとると、可愛らしく唇を尖らせる。
「ずるい」
そんな風に言われたら何も言えなくなってしまうと、ソフィアは小さく抗議する。
ーーずるいも何も、真実しか言っていない。
そう思ったが、それ以上口にはしなかった。代わりに別の言葉を口にする。
「それにもう、1人の身体ではないのだから」
その言葉に、ソフィアは素直に頷いた。
来年の春には、家族が増える。ソフィア身体には、新しい命が宿っているのだ。
2人手をつないで歩きながら、少しだけ遠回りして帰る。
「今日は夕日が綺麗だから」
楽しげなソフィアの声に、レイモンドの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
ーー幸福だ。
もう何度そう思ったか分からない。
この先も、幾度となく思うことになるだろう。
時に恐ろしいほどの理不尽さで世界は大切なものを奪っていく。
けれど、救いもまた、思いもよらぬ形で訪れるのだ。かつて、こんなに穏やかな日々がくることを想像できただろうか。
「見て、綺麗」
夕焼けに染まる空を見上げて、ソフィアが感嘆の声をあげた。その横顔を見ながら、レイモンドは眩しいものを見るように目を細める。
過去を省みれば、レイモンドのしてきたことは決して美化できる類のものではない。罪の意識と負い目は胸の中に残り続けているし、いまだ、何が最善のやり方であったのか答えは出ない。
ただこの景色を見る度、胸をつかれる。
失ったもの、手にしたもの。
喪失の悲しみは、おそらく生涯消えることはないだろう。けれど今は、それが身に巣食う病魔のように心を蝕むことはない。
波が長い年月をかけて岩壁を削り、その一部を海に還すように、苦しみも悲しみもゆっくりとその形を変えている。いつか幼い日々を、懐かしさとともに思い出す日がくるだろう。
遠く山並みが、残照を浴びて光る。その存在を確かめるように繋いだ手を強く握ると、ソフィアはレイモンドを見上げて笑みを深めた。
レイモンドにとって、ソフィアは光だ。暗闇に差し込んだ光明。
だから、何度も何度も願わずにはいられない。
ーーどうかこの光が消えることのないように、と。




