金色の誓約
ハイゲート墓地は、エルド郊外の公園と隣接している。公園の前に馬車を停めると、先に降りたレイモンドはソフィアに手を差し出した。馬車から降りるのを助けるために差し伸べられたはずの手は、しかしソフィアが地面に降り立った後も離されることはなかった。
「行こう」
と、レイモンドはソフィアの手を握ったまま歩き出す。
後ろにはライオネルの姿がある。事件に決着がつき、今は護衛は1人だけだ。そのライオネルでさえ、2人の会話の邪魔をしないよう、遥か後方からのんびりとついてくるだけだった。
墓地のある丘陵地まで、公園の中を歩きながら2人は会話を続ける。
隣を歩くレイモンドを見上げて、ソフィアはここ最近気になっていたことを口にした。
「……ライアンはまだ従者に戻ってないの?」
あれから3ヶ月。色々なことが落ち着きを取り戻したが、まだ解決していないこともあった。レイモンドの側にライアンがいないのだ。
ソフィアの快復後、オールドマン家を訪れたライアンは、誘拐時の行いを謝罪した。ライアンは頭を下げて謝ったし、ソフィアはそれを受け入れた。しかしそう簡単に全てが元通り、というわけにはいかないようだ。ライアンはレイモンドの従者の任を解かれてしまったのである。今はメイソンの傍で仕事をしている、とレイモンドはソフィアに説明した。
「しばらくは、このままだろうな。ライアンがもう少し落ち着いて物事を捉えられるようになるまで、ソフィアに近づかせたくない」
「私はもう気にしていないのに?」
「ソフィアはもっと怒っていい。ソフィアがあっさり許してしまったから、代わりに私が厳しくしないと」
そんな風に言うレイモンドは、まるでライアンの父親のようだ。
「でも私の所に来る時だけじゃなく、ずっとレイモンドと別々に行動しているんでしょう?」
それはライアンにとって、かなり辛い罰に違いない。2人の関係がぎくしゃくするのは、ソフィアの本意ではなかった。
「ライアンは私と少し離れた方がいいんだ。これまで一緒にいすぎたから。私以外の人間とも、もっと関わりを持つべきだと思う」
「でも今の状況は、ライアンには辛いんじゃないかしら。レイモンドをすごく慕っているんだもの」
ライアンの肩を持つソフィアに、レイモンドは少し不満顔である。
「他の人間との交流を疎かにしたせいで、あいつは視野が狭くなってる。ソフィアに妙な嫉妬をして。私がライアンを利用するだけのつもりだったら、自分の背中を預けるわけがない。冷静になって考えれば、わかるはずなのに」
何年一緒にいると思ってるんだ、とレイモンドの口調は苦々しい。その表情を見ながら、なるほどレイモンドは自分の気持ちがライアンに伝わっていないことに腹を立てていたのだと、ソフィアは理解した。
元々ライアンが心配するような事は何もないのだ。利用するだけの関係であったなら、レイモンドは自らの懐奥深くまでライアンを入れはしなかっただろう。ライアンを信頼し、頼っていたからこそ、復讐という戦いの中で背を預けることができたのだ。レイモンドだってライアンの事を家族のように思っている。
「レイモンドがどう思ってるか、ライアンに話したの?」
レイモンドの気持ちを、ライアンは知っているのだろうか。
「ああ。後は、ライアンが納得するかだな」
「それならきっと……大丈夫だと思う」
レイモンドの思いはライアンに伝わるはずだ。5年も一緒に過ごしてきたのだ。今は少しすれ違っているのだとしても、レイモンドがどういう人間であるか、ライアンはちゃんと見てきたはずだから。どうやら心配しなくても大丈夫そうだと、ソフィアは胸をなでおろした。
低木や花々が生い茂る一帯から、公園に作られたブナの森まで来たところで、レイモンドは話題を変えた。
「ソフィアの方は? アルマの墓参りには、まだ行っているのか?」
その問いに、ソフィアは頷きを返す。
事件後、ソフィアは何度かアルマの墓前に足を運んでいた。もう二度と話すことのできなくなった友を弔う為に。ナサニエルの隠れ家で最後に別れてから、アルマの姿はふっつりと消えてしまった。その姿はもうどこを探しても見えない。
ソフィアは寂しそうに、ぽつりと呟いた。
「アルマが最後に言った言葉が、ずっと気になっていて。それで何となく足が向いてしまうの」
もうソフィアの呼びかけにアルマが応えてくれることはないと、分かっているのに。ありがとうと、最後に聞いたあの言葉が今でも耳に残っている。
「アルマの復讐の為に、私は何もできなかったのに。最後にナサニエルを倒したのも、レイモンドだわ」
感謝されることは何もなかった、とソフィアが言うと、レイモンドはそうではないと首を振る。ーーこれは私の考えだが、とレイモンドは口を開いた。
「アルマはソフィアに出会って、人間らしい心を取り戻したんじゃないだろうか。死者になったばかりの頃、ソフィアを脅し、ナサニエルへの憎悪しかなかったのに。最後はソフィアを守るために必死だったと、ライアンから聞いている。あの時のアルマは、決して復讐だけに支配されてはいなかった。親愛や優しさといった感情を取り戻していたんだ。だからアルマはソフィアに感謝したんだと、私は思う」
レイモンドの落ち着いた声を聞きながら、そうであればいいとソフィアは思う。
ソフィアを慰めるように、繋いだ手に力がこもった。気遣わしげな顔で、レイモンドはソフィアの方を見ている。レイモンドを安心させるように、ソフィアはその顔を見上げて頷いた。
「ありがとう」
柔らかく微笑むと、レイモンドもまたほっとして笑みを浮かべる。
寄り添うように並んで歩きながら、ソフィアはふと思い出したように口を開いた。
「そういえば昨日、アンガスの奥さんから手紙が来たの」
「手紙にはなんて?」
「新しい生活にやっと慣れたと。自然の多い静かな環境みたい。サラも元気だって」
ソフィアは記憶を辿る顔つきになった。
3ヶ月前。ソフィアの誘拐から10日程して、アンガスの妻がオールドマン家を訪ねて来たのだ。周囲は会うことを反対したが、最終的にはソフィアの意志が尊重された。
ソフィアは彼女からどのような言葉を投げつけられる覚悟もしていた。彼女は夫を亡くし、もう少しで娘をも失うところだったのだ。どれ程取り乱していてもおかしくないと、ソフィアは思った。
しかし応接間で対面したアンガスの妻は、ソフィアを見るなり謝罪を口にした。
『今回のこと、本当に申し訳ございません』
そう言った彼女の顔は青白く、目の下には隈ができている。ほとんど眠っていないように見えた。
『犯人からの手紙が届いた時、私はアンガスを止めませんでした。サラが助かる望みが一片でもあるのなら、悪魔に魂を売り渡してもかまわないと思ったのです』
震える声で、アンガスの妻は懺悔した。深々と頭を下げる彼女に、ソフィアはそっとその肩に触れる。
『……どうか、顔を上げて』
ソフィアの言葉に、彼女は首を横に振る。その様子を見て、ソフィアは困り果てた。ソフィアに彼女を責める気はなかったからだ。彼らの立場ではああするより他なかっただろう。彼らもまたナサニエルの被害者なのだ。
『いいえ、謝らせてください。お嬢様の命を犠牲に、娘を助けようとしたのですから、どんな言い訳も無意味であると分かっています。ですがお嬢様を連れ出すことは、アンガスにとっては本当に辛い決断だったんです』
『……でもアンガスは、私に怒りを抱いていたのではないの?』
サラが誘拐された原因はソフィアにもあると、アンガスはそのような事を言っていた。暗い顔で尋ねたソフィアに、アンガスの妻は驚いた顔をした。
『アンガスがそう言ったのですか? ならばそれは、お嬢様を連れ出す為の方便でしょう。アンガスはお嬢様を慕っていました。サラに貴女のような女性に育って欲しいと、よくそう言っていたのです』
ーー優しく、勇敢な女性になって欲しい。
告げられた言葉に、胸が痛んだ。
アンガスの本心がどのようなものであったのか、今となっては真実は分からない。仮に以前は慕ってくれていたのだとしても、サラの誘拐で変わってしまったかもしれない。アンガスがもういない以上、どのような解釈をしようとも、それは自分に都合の良いこじつけに過ぎないのではないか。
アンガスの霊は、ソフィアの前に現れなかった。あるいはソフィアが熱に朦朧としている間、どこかに現れたのかもしれないが、少なくともソフィアは見ていない。もしかしたら死者として現世に留まったものの、サラやソフィアの無事を知り既に姿を消したのかもーーそれもまた、自分に都合の良い解釈に過ぎないだろう。
黙り込んだソフィアに、アンガスの妻はもう一度頭を下げた。
『お嬢様の信頼を裏切ったこと、本当に申し訳ありませんでした』
繰り返し詫びる彼女に、ソフィアもそれ以上やめてくれとは言えなかった。代わりに話題を変えるように質問を口にする。
『これからは、どうするの?』
『実家に戻ろうと思います。山と湖しかないような場所ですが、自然は豊かで静かな所なので。サラにとってもその方がいいでしょう。エルドには、怖い思い出ができてしまいましたから』
『……そう。もしも嫌でなかったら、落ち着いたら手紙をくれる? 私もサラが心配だから』
ソフィアでさえ誘拐のトラウマが残るのだから、幼いサラは尚の事だろう。アンガスの妻は「お約束します」と言って、帰って行った。
それから3ヶ月が経って、ようやくソフィアに届いた手紙。サラがソフィアと同じく、あの事件で負った心の傷をゆっくり癒やしているのだと、伺えるような内容だった。
「私の復讐のために、多くの人を巻き込んでしまった。責めるなら私を責めてくれと、言いたいが……」
隣にいるレイモンドが罪悪感を滲ませながらそう言ったので、今度はソフィアが指にこめる力を強める番だった。
「レイモンドが悪いわけじゃないわ」
レイモンドが対峙していたものは、とても残酷で理不尽な悪だった。自分を責める事は簡単だが、それでは過去に捕らわれて抜け出せない。
レイモンドに必要なのは許しなのだと、その思いは今も変わらずにある。立ち止まって、ソフィアはレイモンドの頬にそっと左手を伸ばした。
「大丈夫。あなたは悪くない」
そう言えば、レイモンドは静かにソフィアの灰色の瞳を見返した。木漏れ日の中ソフィアの瞳は、いつもよりその青を増している。
見つめ合う恋人達に、後ろを歩いていたライオネルはわざとらしいほどはっきりと視線をそらし、木々は2人の姿を周囲から隠してくれた。レイモンドはそっとソフィアに口づけを落とす。
「ソフィア、ありがとう」
深い慈しみを乗せた声で、レイモンドはソフィアの耳元で囁くと、ゆっくりと顔を離した。ソフィアの頬が紅潮しているのを見て、「そろそろ慣れてくれてもいいのに」とレイモンドは小さく笑う。好きな人からのキスに慣れることなどあるのだろうか、とソフィアは思ったが、口には出さなかった。
公園を抜け、墓碑の並ぶ丘陵地に出ると、風が強くなった気がした。彼らの他に人の姿はない。ライオネルは他に人がいないことを確認して、丘の手前に留まった。親密な雰囲気の恋人達の邪魔をしないように。
2人はなだらかに広がる丘をゆっくりと登っていく。
バスカヴィル家の墓前まで来ると、レイモンドは膝を折った。ソフィアもその隣に並ぶ。
「父上、母上、ジョエル。ずっと来ることができなくて悪かった」
レイモンドは墓石に刻まれた3人の名をなぞる。
「全部終わった。ーーもう全て、終わったよ」
そう言うと、頭を垂れて目を閉じる。ソフィアもそれに倣った。
ーー彼を生かしてくださって、ありがとうございます。
レイモンドが地獄のような日々を生き抜き、今ソフィアの隣にいるのは、奇跡のようなことなのだと、もうソフィアには分かっている。きっとバスカヴィル家の人々が守ってくれたのだ。レイモンドを生かし、その命を繋いだ見えない力。
ーー彼を幸せにします。
バスカヴィル家の人々の前で、そう誓う。レイモンドがソフィアを幸せにすると言ってくれたように、ソフィアだってレイモンドを幸せにするつもりだ。
だからこれはソフィアにとっての決意表明だった。
一心に目を閉じ、真剣なソフィアの横顔を、先に瞳を開けたレイモンドが見つめていたことをこの時ソフィアは知らなかった。その瞳の奥に深い愛情を湛えていたことも。
目を開けたソフィアにレイモンドはそっと手を差し出した。ソフィアが不思議そうに首を傾げると、「手を出して」とレイモンドが笑う。
言われるがまま左手を差し出すと、ほっそりとしたソフィアの指にレイモンドは青く輝く指輪を、慎重な手つきではめてゆく。指輪はまるであるべきところに収まったというように、ソフィアの指にピタリとはまった。
エミリアの形見の指輪である。ソフィアには既に馴染み深いものではあったが、誘拐時にナサニエルに奪われて以来、目にしてはいなかった。
レイモンドが持っている事こそ知ってはいたものの、こんな風にソフィアの元に戻ってくるなど想像もしていない。
「これ……どうして」
「本当はすぐにでも君に渡したかったんだが。ソフィアの指に合うように、少し直していたんだ」
「指輪のサイズなんていつの間に」
ではこれは実際に誂えたものなのか。どこで指輪のサイズなど知ったのだろうと、ソフィアは驚きを隠せない。
「実はソフィアの母君に協力してもらった。流石に目視で指輪のサイズを測るのは、無理だったから」
種明かしをして、レイモンドは少し肩をすくめた。ソフィアがどこかふわふわした気持ちで指輪を見つめていると、レイモンドは真面目な顔になった。
「ソフィア」
そう言って指輪のはめられた手を取ると、じっとソフィアの瞳をのぞき込む。
「君が好きだ。私の全てを懸けて君を幸せにすると誓う。だからずっと私の隣にいてくれないか。ーー生涯、私だけのものになって欲しい」
まっすぐに告げられた愛の言葉に、ソフィアは目を瞠った。じわじわとその言葉の意味が染み込んでいくにつれ、喜びに胸が満たされる。
ソフィアはぎゅっとレイモンドの首に飛びつくと、その耳元で答えを返した。
「私もあなたの傍にいたい」
「本当に? あとから撤回はできないぞ。それに君を大切な家族から引き離すことになる」
ソフィアを抱き止めながら、レイモンドは少し不安げに確認する。
「撤回なんてしないわ。好きな人からの言葉を拒絶する人がいるの? それにティトラへ行く覚悟ならとうにできているもの」
ソフィアは首に回した腕を緩めると、レイモンドの頬に両手を当てて、その顔をのぞき込んだ。
「ーー大好きよ」
視線を逸らさずそう言えば、レイモンドはそれはそれは幸せそうな顔になった。
「一生、大切にする」
生涯君だけだ、とレイモンドは柔らかく微笑んだ。見るものの心を溶かすような、蕩けるような笑みだった。
その時一陣の風が、さっと丘の上を吹き抜けた。まるで意思を持ったかのようなタイミングに、2人は一瞬驚きに顔を見合わせた後、どちらからともなく笑顔になった。
「きっと私の家族が、祝福してくれているんだろう」
そう言って、レイモンドは天を仰いだ。まるでそこに愛する人々の姿を見ようとするかのように。
ただただ、見上げた空は青く晴れ渡っていた。
2人が将来を誓いあった後、実際に結婚に至るまでには、それから更に2年を要した。何と言ってもソフィアの家族の説得に、時間がかかったからだ。
事件後すぐにソフィアとグウィンの婚約は正式に解消された。グウィン・バスカヴィルは死んだことになっているのだから、当然といえよう。
もとより少なからずあったソフィアへの求婚は、これをきっかけに一気に数を増した。ソフィアとの婚姻で国内屈指の資産家と縁を持とうと考える者が殺到したのだ。富は人を変える。ソフィアの顔も知らないような男達が、次々と求婚の手紙を送りつけてきたのである。
「そうは言ってもこの中に、真実ソフィアを愛し、幸せにしてくれる男がいないとも限らない」
そう言って、長兄ケニーはしばしばレイモンドを煽った。
「そういう者がいればこちらとしても、やぶさかではない。何と言っても一番は、ソフィアの幸せなんだから」
レイモンドが凄まじい形相になるのを分かっていて、ケニーは平然と言い放つ。半分はレイモンドに対する当てつけで、半分は本気である。ケニーをはじめ兄達は、かつてレイモンドが自分達に相談もしないで、黙って消えたことに腹を立てていた。家族同然に思っていたのに水臭いと、ことあるごとにソフィアにこぼしていたのである。
きっと頼られなかった事が、寂しかったのだろう。家族同然だから言えなかったのだと、ソフィアはレイモンドを庇ったが、兄達は険しい顔になるばかりだった。
それでも最後はレイモンドの熱意にほだされ、セオドアに口添えしてくれたのは、ケニーだった。
セオドアは末娘が別大陸に行くのを阻むように、なかなか結婚の許可を与えなかったが、兄達の後押しもあって最終的には首を縦に振った。レイモンドは説得を決して諦めなかったし、何よりソフィアが強く望んだ事が大きいだろう。
この間レイモンドはエルド大学の留学生として、そしてマックスウェル家の後継者として、シュタールで着実にその立場を固めていた。社交界においても、経済界においても、レイモンドの名を知らぬ者はいない。
だから2人の婚約が成った時、周囲は放っておいてはくれなかった。婚約が公表されると、様々な憶測が飛び交った。オールドマン家とマックスウェル家が縁続きになる。これを知った人々は、セオドアが伯爵家以上の大物を釣り上げたと、嫉妬混じりの羨望の眼差しを向けた。
多くの者はこの婚約を政略的なものだと考えたが、誘拐事件を引き合いに出して、あれがふたりのロマンスのきっかけになったのだと、訳知り顔でうそぶく者もいた。
真実を知る者は少ない。ソフィアもレイモンドも、多くを語らなかったからだ。周囲のどんな声も関係がないというように、2人はひっそりとその絆を強めていった。
ーーそして季節は、秋を迎える。
婚約から数週間が経ち、ティトラへの出発を前に、2人は旧バスカヴィル領を訪れた。本当はもっと早く来たかったのだが、婚約前の旅行などセオドアが頑として認めなかったのだ。
夕暮れ前に屋敷につくと、レイモンドはソフィアをバスカヴィルの森に連れ出した。ザクザクと枯れ葉を踏みしめる音が耳に心地よい。レイモンドに手を引かれながら、ソフィアは口を開いた。
「なんだか初めて来たみたいに感じるわ」
かつてここに来た時は春だった。秋の森はその姿をガラリと変え、まるで知らない場所のようだ。ソフィアは秋に色づく森のあちらこちらを、落ち着きなく見渡した。
やがてレイモンドに連れられて少しひらけた場所に出た時、そこに広がる光景にソフィアは息を呑んだ。
「これを君に見せたかったんだ」
レイモンドがソフィアを見つめながら言う。
目の前に広がるのは、黄金色のトンネル。レイモンドからイチョウ並木だと聞いていたが、ただの並木道とは一線を画している。
足元はイチョウの葉が絨毯のように敷き詰められ、イチョウの他に森の木々が絡まるようにしてトンネルを作っていた。枝がアーチ状に絡まり、上も下も金色の天然のトンネルができている。レイモンドの説明ではこれが1キロほど続いているという。
「ーー綺麗。この世のものとは思えないくらい」
ソフィアが感嘆すると、レイモンドは目を細めた。
「良かった。気に入ってくれて」
「ありがとう。こんな素敵な場所に連れてきてくれて」
夕日が木々の隙間から射し込んで、泣きそうな程美しい。空気までが、金色に染まっているようだった。
この美しい光景を生涯忘れぬようにしよう、とソフィアは思った。どのような言葉で表現しても、きっとこの美しさの全ては言い表せない。時を忘れて、しばしの間ソフィアは魅入った。
どのくらいの時間、そうしていただろう。
ふと隣に並ぶレイモンドを見上げると、ソフィアの位置から男性的な首筋が視界に映った。
この2年で精悍さを増した端正な横顔は、夕日に照らされている。黄金の景色を見つめるその姿に、ソフィアは少しの間見とれてしまった。
やがてソフィアの視線に気づいたレイモンドが、こちらへ目線を移す。「ソフィア」と耳元で囁くと、レイモンドはその顎をすくい上げた。
熱っぽくソフィアを見つめながら、レイモンドは自らの唇をソフィアのそれに重ねると、丁寧で熱情のこもったキスをした。ソフィアがレイモンドの胸にすがるようにその服を掴むと、レイモンドはソフィアの首裏に手を差し入れ、その口づけを深くする。
息が乱れ、ソフィアの細い肩が震える。それでも、レイモンドは執拗なまでにソフィアを離さなかった。
長いキスの後、ようやくソフィアを解放したレイモンドから思わず、といった呟きが漏れた。
「……早く君と結婚したい」
そろそろ限界なんだ、と言われ熱が上がる。恥じらいに染まった顔を見られたくなくて、ソフィアはレイモンドの胸に顔を埋めた。
「……私も早く結婚したい」
そう伝えれば、レイモンドは愛おしそうにソフィアを強く抱き締めた。
この2年、レイモンドは常に誠実だった。レイモンドはソフィアと交わしたどんな小さな約束も忘れなかったし、彼はその行動でソフィアへの愛を示し続けた。
歯の浮くような美辞麗句は得意とするところではなかったが、真摯に想いを伝えることに関して、レイモンドは労を惜しまなかった。
そういう時、ソフィアは己が世界一幸せな女性ではないかと思う。心から愛している人が、同じように自分へ愛情を向けてくれている。これ以上の幸福があるのだろうか。
夕焼けが、恋人達を染め上げる。金色の景色の中、いつまでもいつまでもその抱擁は続いたのだった。
これにて本編は完結となります。
ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございます。完結まで辿りつけたのは、お読みいただいた皆様のおかげです。
この後は不定期になりますが、ティトラでの新生活など後日談と番外編を書く予定です。
よろしければそちらもお付き合い下さい。




