その道の先に
翌朝は晴天だった。初夏の日の出は早い。日が昇り切る前の外気はひんやりと冷たく、氷を透かしたように澄んでいる。
早朝、窓の外に小鳥のさえずりを聞きながら、ソフィアの意識はゆっくりと浮上した。瞳を閉じていても、瞼の裏に日差しを感じる。ソフィアはまどろみの中から薄目を開けた。昨夜は着替えを済ませた後、病室でそのまま眠ってしまったらしい。覚醒の波の訪れと同時に、昨夜の出来事が次々に甦り、ソフィアははっとして身体を起こした。
「ーーおはよう」
ベッドの上に身を起こし、こちらを見つめる黒曜石の瞳。その漆黒の瞳と目があって、ソフィアは眩しそうに目を細めた。陽光の中、レイモンドの周囲が淡く光っているように見えたからだ。
ーー何か、話を。
一体何から話せばいいのだろうと、今更ながらそう思った。言いたいことは沢山あったはずなのに、うまく言葉が出てこない。
「身体は平気?」
しばし逡巡した後、ソフィアが口にできたのは、ありきたりな言葉だけだった。それでもソフィアのいたわりに、レイモンドは目を細めて頷く。
ふとレイモンドが目覚めたことを伝えに行くべきだと気づいて、ソフィアは立ち上がった。医者を呼びに行こうとするソフィアに、レイモンドは待ってくれと首を振る。
「もう少しだけ、ここにいてくれないか」
話したいことがある、と言ったレイモンドは真剣な顔をしている。ソフィアはこくりと頷き、再びベッド脇の椅子に腰を下ろした。
だがレイモンドが次の言葉を口にするまでは、幾分時間が必要だった。どう切り出すべきか、迷うようにしている。やがて「ーーあの告白の時」と、レイモンドは静かに話し始めた。
「ソフィアからともに歩く未来を探したいと言われて、本当に嬉しかった。ずっと望んではいけないことだと、諦めていたことだったから。でも自分の気持ちをソフィアに伝えていいのか、分からなかったんだ。もしナサニエルを殺したら、ソフィアとは一緒にいられないと思ったから」
「……なぜ?」
「君にふさわしくないと思ったから。人殺しになったら、ソフィアのそばにいては駄目だと。もしも君が許してくれたとしても、私自身が許せなかった」
「前にも言ったけれど、ふさわしくないだなんて思わないわ。それにあなたを人殺しだとも思わない」
ありのまま本心を伝えると、レイモンドは優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう。これはきっと、私自身の気持ちの問題なんだろう」
どこか諦観したようなレイモンドに、ソフィアは気になっていたことを口にした。
「……今はどう思ってるの?」
ナサニエルを倒し、レイモンドは復讐を果たした。それがたとえ正当防衛であったとしても、彼は自身を殺人者だと断じるのだろうか。
「今はずるいことを考えている」
「ずるい?」
「昨日は必死で、復讐の為ではなく大切な人達を守る為に引き金を引いた。ナサニエルへの殺意よりも、生きたいと、皆を守りたいとそう思ったんだ。だから、ーーだから許されはしないだろうかと、そんなずるいことを考えてる。人を殺めたことに、変わりはないのに」
レイモンドは睫毛を伏せる。暗い顔になったレイモンドを見ながら、それはちっともずるではない、とソフィアは思う。
多分誰もレイモンドを責めない。お前は人殺しなのだとレイモンドを断罪する人間は、いないだろう。それでも自らを責めるというのなら、レイモンドが自分自身を許すことでしか問題は解決しない。
「あなたは、どうしたいの?」
恐る恐る尋ねたソフィアに、レイモンドは顔をあげた。
「私はーー、君の傍にいたい」
きっぱりとレイモンドは口にした。
「君と二度と会えないかもしれないと思った時、思いを告げなかった事を後悔したんだ。待ってくれている人がいて、自分もそれを望んでいるのに、なぜ言わなかったんだろうと。君を傷つけてまで意地を張るのは、馬鹿みたいだ」
レイモンドはそっと右手をソフィアの手の甲に重ねる。触れたところがじわりと熱くなって、ソフィアの胸が騒いだ。
「ずるくても、何でも。気持ちを伝えるべきだった」
レイモンドは緊張しているのか、右手にこもる力が強くなった。
「ーー好きだ、ソフィア」
絞り出すように、レイモンドはそう言った。その一言を口にすることはきっと簡単なことではなかっただろう。ソフィアには想像もできない葛藤が、レイモンドにはあったに違いない。
レイモンドから手を引かれ、ソフィアは引き寄せられるようにゆっくりと顔を近づけた。息がかかる程の距離まできて瞼を閉じると、そっと触れるだけの口づけが落ちる。
柔らかな感触が離れた後、目を開けると、額がつきそうな程の至近距離から覗きこまれている。ソフィアの心臓がトクンと跳ねた。頬が熱をもっていくのが、自分でも分かる。
顔を直視できずに恥ずかしそうに視線を彷徨わせるソフィアを見ながら、レイモンドは悩ましげなため息をついた。
「……私は、独占欲が強いみたいだ」
ソフィアの頬は上気し、耳まで赤く染まっている。それを目にして耐えかねたように、レイモンドは再びソフィアの唇を塞いだ。
二度目に唇を重ねた時、レイモンドから余裕は消えていた。全てを奪うような口づけに、甘い痺れがソフィアの背中を駆け上がる。互いの吐息は、徐々に切羽詰まったものになってゆく。
やがて唇が離れた時、ソフィアの息は上がり、瞳は濡れたように潤んでいた。
「そんな顔で見ないでくれ。止められなくなる」
そう言ったレイモンドの声は、どこまでも甘い。
己の容量を完全に超えた出来事に、ソフィアは目眩を覚えた。自分がどんな表情をしているかなど、考える余裕などない。
レイモンドは何かをこらえるような表情をした後、ソフィアの肩を抱き寄せた。その背中に腕を回し、首元に顔を埋める。このままソフィアの顔を見ていたら、歯止めが効かなくなりそうだったのだ。
「……ソフィアの両親に、説明をしないとな」
強くソフィアを抱き締めながら、やがてポツリとレイモンドは呟いた。そっとソフィアから身体を離す。
その言葉に不安そうな顔になったソフィアを見て、安心させるようにレイモンドは微笑んだ。
「きっと説得してみせる。君と離れることは、もう考えられない」
「私も一緒にいていい?」
控えめに尋ねたソフィアに、レイモンドは嬉しそうに頷いた。
ソフィアが呼んだ医師が診察を終えて病室を出た後、セオドアとダイアナが入れ替わるように現れた。揃ってレイモンドの正面に座る。ソフィアは話を聞かれぬようドアを閉めると、レイモンドの傍らに腰を下ろした。
「ーーお二人に話さなければならないことがあります」
そう言って、レイモンドは秘密を打ち明けた。自身の本当の出自と、この五年をいかに生きてきたのかを、嘘偽りなく話したのである。ソフィアもレイモンドの隣で、再会してからの出来事を、両親に補足した。
セオドアもダイアナも昨夜のソフィアの様子から、ある程度深刻な話をされる覚悟をしていたのだろう。レイモンドの告白にも特段驚いた様子は見せず、黙って耳を傾けていた。
「騙すような真似をして、申し訳ありませんでした。かつて黙って消えたことも、謝罪します。それに今回、彼女を危険に巻き込んだのは、私の責任です」
「……ソフィアの誘拐は君のせいではない」
謝罪したレイモンドに、セオドアはゆるゆると首を振った。何から話すべきか分からない、という顔でセオドアは珍しく言葉に詰まっている。それでもひとつひとつ事実を確認するように、質問を口にした。
「犯人達の目を欺く為に、死んだ事にしたというのは理解できる。なら全てが終わった今は、どうなんだ? 君はもう、グウィン・バスカヴィルに戻る気はないということか?」
「ええ。イライアスやナサニエルの仲間がまだいないとも限りませんし、殺されたはずの人間が生きて戻れば余計な詮索をされるでしょう。それに私の生還によって終わった裁判が再審にでもなったら、目も当てられない」
「君はそれでいいのか?」
「大切なのは、名前ではありません。父も母も分かってくれるでしょう」
レイモンド・マックスウェルとして生きていくと、レイモンドははっきりと言い切った。
「別人として生きていく覚悟があるなら、なぜそれを我々に話す」
「ソフィアの家族を欺き続ける事は、できないと思ったからです。世間を騙し、近しい人々に嘘をついても、あなた方には真実を告げるべきだと。ソフィアとともにありたいと望むなら、それが最低限の誠意でしょうから」
そこでレイモンドは一度言葉を切り、改まった顔になる。緊張した顔つきで、レイモンドは再び口を開いた。
「これまでの事は言い訳のしようもありません。都合の良いことを言っているのは分かっていますが、それでもソフィアを諦めることはできません。彼女と共に生きていきたい」
「……どこかで聞いたようなセリフだな」
セオドアは嘆息した。レイモンドの告白を聞いた後でも、5年前に死んだはずの少年と目の前の青年が同一人物であるとはにわかには信じられない。それほど成長したレイモンドの姿は様変わりしていた。
確かに思い返して見れば、レイモンドの行動はオールドマン家を守る為のものだったと、納得する部分は多い。しかしだからといって突然ソフィアをくれと言われても、はいそうですかと頷くことなどできはしない。セオドアの内心の混乱は、ここ数年抱いたことのないものだった。
「お願いします。彼を許してください」
ソフィアは懇願した。黙り込んだセオドアの代わりに、立ち上がったのはダイアナだった。ダイアナがレイモンドを見つめる瞳は険しい。
「あなたは自分がどれだけソフィアを傷つけたか、分かっていて?」
「はい」
レイモンドはその瞳を見返して頷いた。
「痩せ細って憔悴しきっていた時期もあったのよ。つい最近だって墓地から遺体が出たと報じられた時は、どれ程辛そうだったか」
その言葉に、レイモンドもまた苦しげな顔をした。ソフィアの幸せを願うと言いながら、その実最もソフィアを苦しめてきたのは他ならぬレイモンド自身なのだから。
「私達はあなたに怒っています」
珍しくダイアナは柳眉を逆立てている。「歯を食いしばりなさい」と宣言した後、ダイアナはレイモンドの側まで近づいた。
レイモンドが表情を引き締めたと見るや、ダイアナは平手でその頬を打つ。バチンと、小気味良い音がした。
「お母様!」
ソフィアが上げた非難の声は、しかし最後まで続かなかった。頬を打った次の瞬間、ダイアナがレイモンドに頭を下げたからだ。
「ーーそれから、この子を助けてくださってありがとう。あなたがいなければ、私達は生きているソフィアに二度と会えなかったかもしれない」
「……顔を上げてください」
目の前で頭を下げられて、レイモンドは明らかに戸惑っている。ゆっくりと顔を上げたダイアナは、真面目な顔つきになった。
「この子を幸せにすると、約束してくれますか?」
穏やかな口調ながら、有無を言わせぬ迫力がある。レイモンドは真っ直ぐに視線を返しながら、力強く頷いた。
「はい。必ず」
「……お母様、ありがとうございます」
礼を口にしたソフィアに、ダイアナは悪戯っぽく肩をすくめる。
「喜ぶのはまだ早いわよ。セオドアの説得は、自分達で頑張りなさい。私は反対しないから」
今日のところは帰りましょうと、ダイアナは笑顔になった。複雑そうな顔のセオドアとともに、ソフィアも立ち上がる。病室を出る直前、ソフィアは振り返った。
「明日も来るね」
そう言うと、レイモンドは嬉しそうに微笑んだ。
しかし、その約束を守ることはできなかった。家に帰り着き、サラの無事を伝え聞いたその日の夜、ソフィアは熱を出して寝込んでしまったからだ。
自身の誘拐やアンガスの死。このところソフィアの身に降り掛かった数々の出来事に、身体は悲鳴を上げていた。もっと言えばこの5年、ソフィアが心から安らいだことはなかった。だからバスカヴィル家の事件に決着がついたことで、ずっと張りつめていたものが切れてしまったのだろう。それから1週間、ソフィアはベッドの上で過ごすことになった。
ソフィアが寝込んでいる間にも、事件は収束に向けて前進していた。
最も危惧していたレイモンドの処遇については、最終的には正当防衛による不起訴処分が決定した。ソフィアの誘拐は明らかだった上に、死んだ男が指名手配中の殺人犯であると、判明したからだ。
ソフィアが救出された後、ナサニエルの隠れ家で待ち構えていた警官たちは、日づけが変わる頃戻って来たネヴィルを逮捕した。当初黙秘を続けていたこの男は、ナサニエルの死を知るやいなや態度を一変させた。自身の減刑と引き換えに、ナサニエルの事を洗いざらい白状したのである。
ネヴィルの証言によってナサニエルのこれまでの罪が明らかになった。曰く、墓地から見つかった30の死体は全てナサニエルの仕業であると。ネヴィル自身はナサニエルと客とをつなぐ連絡役だと、自供した。オズワルドによる遺体の確認もされ、ここに至って警察はナサニエルの死を公表する。
大変だったのは、その後だ。逃亡中の大量殺人犯の死は、世間の大きな関心を引いた。ましてや暗殺者を仕留めたのが、警察ではなくまだ10代の青年だと報じられれば、注目を集めるのは当然だった。
ソフィアの誘拐とその救出という劇的な話と相まって、レイモンドはたちまち英雄として祭り上げられた。
そんな状況だったから、レイモンドを殺人犯として裁判にかけることは、実質的には不可能だった。もしそんなことをすれば、世論の非難を浴びることになるからだ。
ナサニエルの死後、少なからず謎は残った。ナサニエルという男がどういう人生を歩んできたのか、警察にも分からなかったからだ。本名も、年も、生まれも定かでない。また死亡時、ナサニエルはすでに傷を負っていた。その銃創は誰がつけたものなのか。そうした数々の謎を残したまま、ナサニエルは稀代の犯罪者として、歴史にその名を残すことになる。
誘拐事件についても全てが明らかになったわけではなかった。なぜソフィアが狙われたのか。レイモンドがナサニエルの居場所を知っていたのは何故なのか。そうした疑問に対し、ソフィアはロムシェルとセオドアの因縁に原因があるのかもしれないと述べ、レイモンドは家の前にいた不審な男の後をつけたのだと説明した。
新聞各紙はこういった疑問について、通りのよい話をあたかも事実であるかのように報じた。人々はその話を信じるだろう。この先も真実が公にされる日は永遠にこないのだ。
「それでいい。全てを詳らかにする必要はない」
ソフィアの快復を待ってオールドマン家を訪れたレイモンドはそう言った。落ち着いたその顔を見ながら、彼は秘密を抱えて生きていく覚悟をとうに決めているのだろうと、ソフィアは思う。
本当に全ての事が終わるまでには、更に数ヶ月の期間が必要だった。
ひと月後、イライアスの刑が執行された。獄中で最後まで無実を主張していたものの、ナサニエルとイライアスの繋がりをネヴィルが証言した後では、その言葉を信じる者はいなかった。
オズワルドは減刑されたが、懲役刑を受けて服役することになった。最終的にオズワルドがあれほど固執していた爵位は剥奪された。市民の模範たる貴族が恐ろしい殺人事件に関わっていた事が、重く受け止められたのだ。
ロムシェルは自身の裁判が終わるまで、宣告された余命を越えて生き永らえた。本人にとっては喜ばしいことではなかっただろう。贈賄と誘拐未遂ともに有罪判決が下り、メイソンの復讐にも一つの区切りがついた。有罪判決が下ると、ロムシェルのこれまでの悪行を暴露する人間が次々に現れた。これまでは恐怖によって抑圧されていた声なき声が、もう遮るものはないとばかりに噴出したのだ。ロムシェルに集まっていた同情は、その本性が知れ渡るにつれ、どこかに霧散してしまった。
ロムシェルは獄中でひっそりとその生涯を終えたと、ソフィアは伝え聞いている。メイソンの執念が天に通じたのか、はたまたロムシェルの生命力が本人の予想以上に強かったのか。
ソフィアとレイモンドにも、時間が必要だった。ソフィア自身のトラウマ。アンガスの死を目の当たりにしたことは、ソフィアの心に傷を残した。その傷は家族やレイモンドの存在と、そして時間が癒やすしかない。
レイモンドも復讐が終わり、すぐに自分自身を許せたというわけではなかった。これまでの5年で抱いた罪悪感。そうした罪の意識と折り合いをつけ、ソフィアとともにある未来を前向きに捉えるようになるには、一夜ではとても足りなかった。
新しい状況にも慣れる必要があった。会いたい時に会えるというのは、5年もの間離れ離れだった2人にとって、天と地ほど差がある。幸せすぎて怖いのだ。また失いはしないかと、そんな考えから抜け出すようになるまでは、やはり時間が必要だった。時が経てば傍にいることが、当たり前になる。例えばソフィアが「レイモンド」という呼び名に慣れるまでに。レイモンドがソフィアを失うという恐れなしに、愛を囁く事が出来るようになるまでに。
会えなかった時間を埋めるように、ゆっくりと2人は距離を縮めていった。
ーーそして事件から3ヶ月後。2人はハイゲート墓地を訪れた。




