決着
ガタンと大きな音を立てて、ナサニエルはその場に倒れ込んだ。
2発の銃声の後、立っていたのはレイモンドだけだった。互いの放った銃弾の一方はレイモンド左肩をかすめ、もう一方はナサニエルの心臓を撃ち抜いた。
レイモンドは目を見開いたまま、はぁはぁと荒い息を吐き出す。レイモンドの手に握られた銃口は尚もナサニエルへと向けられ、緊迫した空気がその場に漂っている。
ソフィアは息を止め固まったが、レイモンドは視線をナサニエルから外さなかった。ナサニエルを倒したという確信を、持てなかったからだ。
レイモンドは厳しい表情のまま、負傷した右足を引きずってナサニエルの元へ近づいた。そうしてナサニエルの手に握られた銃を足で遠くへ払うと、かがみ込んでその脈を測る。
ナサニエルの鼓動が完全に止まっている事を確認して、レイモンドはようやくソフィアへと視線を向けた。心配そうに眉を下げ、ソフィアの方へゆっくりと近づいてくる。
「……ソフィア、怪我は?」
開口一番ソフィアの身を案じる言葉に、胸がつまる。満身創痍なのは、レイモンドの方ではないか。こんなにもボロボロになって。
大丈夫だと伝えたくて、何度も何度もレイモンドに頷いた。
「……あなたが守ってくれたから、何ともないわ」
震える足で立ち上がり、ソフィアもレイモンドの方へと歩を進めた。
「それより、グウィンが……」
ソフィアは泣きそうだった。レイモンドはひどい怪我をしている。左肩と右足からの出血。一刻も早く手当が必要だ。
「早く病院に……」
心配で今にも涙が零れそうなソフィアを、レイモンドはじっと見つめていた。その瞳に映るのは、ただひとりの姿だけ。
ソフィアはそっと手を伸ばす。指先がレイモンドの頬に触れた瞬間、ソフィアの身体は強く抱き寄せられた。
レイモンドの胸の中にいると気づいた時には、その右手がソフィアの背中に回っていた。低くかすれた余裕のない声が、ソフィアの耳に届く。
「君を永遠に失ってしまうと思った……!」
たったそれだけで、レイモンドがどれほど張りつめていたのかを知る。ソフィアの存在を確かめるように、レイモンドは背中に回した腕に力を込めた。「ソフィア」と耳元で囁く声に、心が震える。
それは、万感の思いが込められた抱擁だった。強く抱き締めて離そうとしないレイモンドに、ソフィアもその胸に顔を埋める。ーーこんなにも大切にされている。レイモンドは命がけで助けに来てくれたのだ。
胸の奥から湧き上がるこの気持ちを、どう言えばいいのだろう。好きという言葉だけでは、とても表現できそうにない。次から次へと溢れてくるレイモンドへの想いは、もう止めようがなかった。
しかし、この暖かな抱擁は長くは続かなかった。突然ずしりとレイモンドの身体が重くなって、ソフィアははっとする。
「グウィン?」
呼びかけても、返事がない。
レイモンドの表情を見ればぐったりと、瞳を閉じている。額に脂汗が滲んでいるのを目にして、ソフィアは色を失う。
ーー病院に。
ソフィアは肩にかかるレイモンドの身体ごとずるずると座り込んだ。ソフィアの力では、立ったままレイモンドを支えきれなかったからだ。不自由な手でそっとレイモンドを傷つけないよう横たえると、ソフィアは立ち上がった。
ライアンは目を閉じたまま気を失い、アルマは無言でナサニエルの亡骸をじっと見つめている。レイモンドとライアンを病院に運ばなければと、そう思う。
それができるのは今この場において、ソフィアしかいない。ナサニエルに突き飛ばされた時の痛みはあるが、軽症だ。身体は十分動く。
しかし大の男2人をソフィアの力だけで運び出すのは不可能だった。ならば助けを呼びに行くしかない。迷っている暇はなかった。
ーー絶対に死なせない。
だってまだ見ていないのだ。レイモンドがなんの憂いもなく、心から笑うところを。安らぎと幸せに満ちた顔を。復讐がレイモンドの人生の全てになるなどと、そんな悲しい結末を許容できるわけがなかった。
ソフィアは急いでドアから部屋を出て行こうとする。と、そこへアルマから声がかかった。
「ソフィア!」
その声に振り返ると、アルマがナサニエルからソフィアへ視線を移したところだった。
「ーーありがとう」
紡がれた言葉に、ソフィアは怪訝そうに首をひねる。だが今はその言葉の真意を尋ねるよりも、救助を呼びに行く方が先決だった。
この時のソフィアは知らなかったのである。これがアルマの別れの言葉であったことに。また後で聞けばいいと、そう思ってしまった。
階段を降り、ソフィアは一階の廊下を駆けた。早く助けを呼ばなければ。隣家まではどのくらいかかるのだろう。
鍵のかかった扉を開け、外に出た途端、顔に眩しい光があたってソフィアは目を細めた。まさかナサニエルの仲間が戻ってきたのかと緊張が走ったが、聞こえてきた声には当惑が滲んでいた。
「そこにいるのは、誰だ?」
そう言ったのは、制服に身をつつんだ警官だった。数人の警官が、家の前に集まっている。その姿を認めた瞬間、ソフィアは叫んでいた。
「……助けて下さい! 人が中に……! 怪我をしているんです」
ソフィアの姿を見て、警官達は目を丸くした。彼らの前にいるのは手首を縛られ、ドレスを血まみれにした少女である。明らかな異常事態であることを察して、警官達は顔を見合わせた。
それからの出来事は、怒涛のように過ぎていった。2階にある一室。そこで2人の遺体と気絶した青年2人を見つけた警官達は、事態の深刻さに息を呑んだ。
ソフィアは後で知ったことだが、家の前に警官がいた理由は、市民による通報があったからだった。偶然付近を通りかかった人間が銃声を耳にして、警察に駆け込んだのである。故にこの家に来た時、彼らは中で何が起こっているのか、何一つ知らなかったのだ。
ソフィアが誘拐されたこと、死んでいる男は世間を騒がせている逃亡中の暗殺者であることを告げると、場は騒然となった。ただちに増援が呼ばれる。ソフィアは警官達の手を借りてレイモンドとライアンを部屋から運び出し、同時にサラの救助を訴えた。
「閉鎖されたキングスリー精神病院に、サラという女の子が監禁されています。お願いします。すぐに救助を向かわせて下さい」
その場にいた若い警官は真剣な顔で頷くと、急いで隠れ家を後にした。ネヴィルというナサニエルの仲間の存在を伝え、ソフィアはレイモンドを連れて病院へ向かう。警察の助けでレイモンドとライアンを近くの病院に運び込んだのは、それから30分後のことである。
レイモンドの手術が終わるまでは、生きた心地がしなかった。廊下でひとり待つ間、ソフィア自身手当を受けたり、警察から質問をされたりしたのだが、後から考えてもほとんど記憶にない。レイモンドのことで、頭がいっぱいだったからだ。
やがて手術室から出てきた老医師は、廊下の椅子から立ち上がったソフィアに目を止めると口を開いた。
「付き添いの方?」
「はい……彼の容体は?」
不安げな表情で、ソフィアは医者に問いかける。固唾を呑んで答えを待つソフィアに、目の前の老医師は安心させるように頷いた。
「大丈夫ですよ。命に別状はありません」
一緒に担ぎ込まれたライアンも無事だと言われ、目を閉じる。
「ーー良かった」
ソフィアはほうっと息をついた。ソフィアの安堵の表情を見ながら、しかし老医師は険しい顔つきになった。
「今回の傷は命に関わるものではありません。ですが彼はこれまで、どういう生活を送ってきたのでしょう」
「それは、どういうーー」
質問の真意が分からず、ソフィアは困惑した。
「あの青年の身体中に、無数の傷痕がありました。今回の怪我の他に、腹部の銃創と二の腕の焼印、細かい裂傷に至っては数え切れない。ーー回復はしているが、生半可な数じゃない」
まるで戦争に行ってきたようだ、と老医師は呟いた。
「今では傷口は完全に塞がっていますがね。死んでいてもおかしくないような傷もある」
それを聞いて、ソフィアは絶句した。レイモンド自身から聞いていた話より、実際に彼の身に起こった事はより深刻なものであったと気づいたからだ。レイモンドが歩んできた苦難の道。それを想像するだけで、心臓を掴まれたように苦しくなった。
医師に返す言葉を見つけることができず、代わりにソフィアが口にしたのは、別の質問だった。
「……彼に会えますか」
「ええ。今は眠っていますが、じきに目覚めるでしょう」
病室で2人きりになった後、ソフィアはそっとレイモンドの指先に手を重ねた。血の通った体温に、彼は確かに生きているのだとそう思う。
その手を握りながら思い出していたのは、以前己が口にした言葉だった
『私がグウィンを恐がるようになるかは分からない』
復讐が終わった後、そこにどんな感情が待っているのか。自分でも分からず、あの時はそう言った。
けれど今ならレイモンドに答えられるだろう。
恐れも不安も、ないのだと。危険を顧みず助けに来てくれた。恐がるどころか、以前にも増してレイモンドへの想いは強くなっている。
眠るレイモンドをしばらく見つめていると、急に廊下が騒がしくなった。焦ったような足音に続いて、ロジャーとともに病室に入ってきたのは、セオドアとダイアナだった。
「ソフィア!」
その声が聞こえたのと同時に、ぎゅっとダイアナに抱きしめられる。セオドアはソフィアの顔を見て安心したのか、大きく息を吐き出した。
「良かった。お前がいなくなったと聞いた時は、心臓が止まった」
「怪我はない?」
心配そうに顔を覗き込むセオドアとダイアナに、ソフィアはこくこくと頷いた。驚くと同時に、自分の迂闊さに今更ながらに気がつく。自身の無事を伝える事を完全に失念していた。2人の心中を察して、申し訳なさにソフィアは縮こまった。
「心配をかけてごめんなさい」
「謝らなくていいのよ。あなたが無事なら」
さぁ帰りましょうと、そう言ったダイアナをソフィアは引き留めた。
「ソフィー?」
「もう少し待ってはもらえませんか。彼が目覚めるまで、ここにいたいんです」
その時になってようやくセオドアとダイアナは、レイモンドの存在に気づいたようだった。「なぜ彼が?」とセオドアは当惑を隠さない。
「彼が私を助けてくれたんです。それで怪我を」
「何があったか、話していただけますか」
ロジャーの言葉に、ソフィアはかいつまんで説明をした。サラの誘拐。アンガスがソフィアを連れ出したこと。連れて行かれた先に、ナサニエルという名の男がいたこと。アンガスの死。そして、レイモンド達が助けに来てくれたこと。
娘が恐ろしい事態に巻き込まれていた事を知り、セオドアとダイアナは蒼白になった。
「なぜ彼がナサニエルの居場所を知っていたんです?」
ロジャーの質問に、ソフィアは黙り込む。レイモンドの正体を今ここで話していいのかどうか、判断がつきかねたからだ。しばし考え込んだ後、ソフィアはゆっくりと首を振った。
「分かりません」
今はまだ答えられない。それがソフィアの結論だった。
「ですが彼が助けてくれたのは本当です。あの時助けがなかったら、ナサニエルは私を殺していたでしょう」
眠るレイモンドを見つめ、その手を決して離そうとしないソフィアに、大人達は何を思っただろう。
頑としてレイモンドの傍から動かないソフィアに、セオドアとダイアナは無言で視線を交わしあった。こういう時のソフィアにはどんな説得も意味がないと、二人にはよくわかっていたからだ。
「分かったわ。彼が起きるまで、病院で待ちましょう」
「私達は廊下にいるから、何かあったら声をかけなさい」
「……わがままを言って、すみません」
頭を下げたソフィアに、セオドアは苦笑した。
「ここにいるのはかまわないが、ソフィアも少し休むんだ。目覚めた時お前がふらふらでは、レイモンド君は気に病むだろう」
ダイアナはソフィアの血で汚れたドレスを見て着替えを用意しようと立ち上がり、セオドアとともに部屋を出て行った。
再び二人きりになって、ソフィアは心の中で語りかけた。
ーー早く元気になって。
命に別状はないと言われたが、元気な姿を見て早く安心したかった。ただじっとソフィアはその顔を見つめる。
ほんの少し前に命のやりとりをしていたことが、嘘のように静かだ。危機は去った。この場所は安全だし、死の影がレイモンドに迫ることはない。
静かな静かな夜。外の闇はゆっくりとその深さを増していく。部屋は静寂に包まれ、夜は更けていった。




