第二章 ジルハとキード
ジルハとキードは、双子である。キードは、そのように言っている。ジルハとキードは、主人格と副人格である。ジルハは、そのように言っている。ではどちらが正しいのか。それは、キードの方であった。ジルハは、キードと双子であるという事実を隠して、嘘をついている。その嘘は、未だ暴かれたことはない。ジルハが徹底しているから、ということもあるが、ハンスは使用人に関心がなく、ジェーンはジルハを気味悪く思っている。深入りをしない。それらも相俟って、この嘘は通されていた。
なぜその嘘が必要なのか。
それを語るには、まず、ジルハとキードの母親の話をする必要があるだろう。彼女は、貧民街よりはまともな街で生まれ育った。子の目線から見ても、いつまでも夢見がちな少女のようであった。ありふれた男とのありふれた出会いを運命だと思い込み、輝かしい物語と薔薇色の人生を思い描き、そしてそれらは双子の誕生によって潰える。彼女と永遠を誓ったはずの男は、こう言ったそうだ。
労働力は一つで良かったものを、双子だなんて、育てる手間がかかる。畜生腹の女と番うつもりはない。
そうして男は彼女を捨てて消えた。残ったのは、絶望を与えた双子のみ。
彼女が、どうして双子をまともに育てられようか。近所に住んでいた、善良で世話焼きの老婆がいなければ、双子はすぐに死んでいただろう。けれども、育ってしまったが故に、彼女、母親のヒステリックな叫びを浴びせられることになった。
あんたたちがいなければ、と泣き叫ぶ。髪を振り乱して、金切声をあげて。悲劇のヒロインは、無論、食事など作るはずもない。双子は生ごみを漁って食べる生活をしていた。幸いにも、彼女は料理が下手だった。まだ身のついた野菜の皮を平気で捨てるのだ。それは、唯一の栄養であった。
双子は父親そっくりの顔立ちをしていた。母は自分を捨てた男の顔を、嫌でも二つ分目に入れることになる。そのことが一等気に入らないようで、爪の伸びた細い掌が何度も降ってきた。
だが、実際、あの掌が頬を打った数は少ない。キードが庇っていたからだ。キードは、生まれた時から兄として振る舞っていた。弟であるジルハを守るため、母の仕打ちに耐えた。そうする理由は、正義感、兄心、どちらでもない。キードはこう言っていた。
「そうでもしなきゃ、崩れそうなんだ。俺のために、守られてくれ。お前は、俺の心を守ってくれたらいい」
もしも正義感のためにそうしていたのであれば、ジルハは庇護を拒否しただろう。キードは己を守るために、崩さないために、ジルハを守っている。庇っている。キードの輪郭の主軸に、ジルハがいる。そしてまた、ジルハの世界の中心にも、キードがいる。互いが互いの唯一で、特別。その事実は過酷な生育環境でもジルハを幸福にさせた。
だから、母を殺した。
ジルハの世界にはキードがいればいい。ただ一人の肉親も、キードだけでいい。父親だった男は既に流行り病で死んでいた。であるから、母を殺してようやっと二人きりの世界が完成されたのだ。
キードはジルハの大事な宝物だ。宝物は、誰にも見つからないように隠さねばならない。そこにそれがあると悟られてはならない。
ジルハは、嘘をついた。大胆な嘘を。大掛かりな嘘を。その嘘は、宝箱の鍵であった。
異形館に新人が入り、その新人、アルベルタの存在にも慣れてきた。アルベルタは熱心に働いているらしく、今までの使用人のように逃げ出したりしない。毎日、主人のコレクションを埃一つなく磨き上げているようだ。ジェーンは初めの頃はハンスに気に入られているらしいアルベルタを敵視していたが、働きっぷりを見て感心したのだろう。元来の世話焼きな一面もあり、微笑ましく仲良くしている。
貧民街出身の、真面目で、よく働く少女。ジルハは、それだけだとは思えなかった。ジルハは、己が狂っていることを自覚している。常人ならざる執着を持っていると知っている。だからこそ、わかる。アルベルタは、普通の少女などではない。
何かを踏み躙ることに躊躇いがない残忍さが、美しい緑眼の中にある。血飛沫を浴びた人間だけがわかる、鉄錆の匂いがある。
ジルハは善良な人間ではない。探偵でもない。ジルハの行動原理は、全てキードに関連する。アルベルタが知らぬところでどんな罪を犯していようが構わないのだが、きな臭い噂を聞いた。
貧民街の死体内臓紛失事件だ。始まりは不明。何故ならば貧民街の死体焼却場は管理が杜撰で、毎日出てくる死体を順に燃やすだけだからだ。そうであっても、死体の内臓がなくなっていれば、管理人も不自然さに首を傾げる。曰く、乱暴に腹を切り裂き、内臓を引き抜き、目玉が抉り出された死体があちらこちらに転がるようになったそうだ。獣の仕業ではない。明らかに人の仕業である、と。
その事件はある日を境に収束している。アルベルタがこの館を訪れた、あの嵐の日から。
犯人だと決めるには証拠が足りない。だがジルハは確信していた。アルベルタが、死体を荒らしたのだ。
ではその目的とは何か。異形館に来た意味は。キードはまだ宝箱の中にいられるのか。
ある、一つの推測をした。栄養不足で粗末な内臓でも、売れば金になる。貧民街の人間は、まともに働く手段を知らない。取れない。だからそうした。それでも粗末な内臓では売れ行きがよくなく、より上質な商品を仕入れようとした。誰がいなくなってもおかしくない、怪しい噂の立つ、この館に潜り込んだ。
若い女の身体など、健康的な男の内臓など、より高値で売れるだろう。ああ、それでは、キードが危ない。ジルハとキードの世界に、小蝿が飛ぼうとしている。
害あるものが害を為す前に、処分しなければ。ジルハは、ふらりと廊下へ立った。今は、キードを眠らせている時間だ。都合がいい。あの悍ましい少女に似合わない夕焼けの髪色を探して、足を進めた。
「……ジルハ、さん。で、いいんですよね?」
「そうだよ。今、キードは眠っている。表に出ているのは僕さ」
声をかけたアルベルタは警戒してみせた。当然の反応のようでもあるし、裏があるようにも見えた。ジルハはそれらしい返答をしたが、これには嘘がない。上手に騙すには、少しの真実を混ぜることと、嘘にならない言い回しをすることが必要だ。
アルベルタは居心地が悪そうにしている。呼び止められた理由がわからないのだろう。早く仕事に戻らねばジェーンに叱られてしまう、と言外に語っていた。その様はまるで仕事熱心な使用人のようである。
まあ、まあ、と薄っぺらな笑顔を作り、キッチンへ呼び寄せる。仮にも相手はレディだ。それなりのもてなしがいるだろう。温かいお茶に、焼き菓子。使用人のために、キードが主人に許可を取り作り置きしているものだ。
「君とお喋りがしたいだけだよ。そんなに怖がらないで」
「は、い……」
怖がらないで、などとどの口が。自分で言いながら、自嘲する。恐れているのはジルハだ。キードを失うこと、キードが損なわれること、二人きりの世界に傷が走ること。それらを恐れている。それらを齎す可能性のある少女、アルベルタを恐れている。
「世間話からしようか。君は、どうしてこの館に? 何も知らず来たわけじゃないだろう」
「ええ。お話は私の街にも聞こえていました。ですが、私には選ぶ余地がなかったのです」
「コレクションを磨くのが嫌にならないかい」
「いいえ、ちっとも」
当たり障りのない、中身のない会話だ。裏側、水面下で綱渡りをしている。あくまで少女然としているアルベルタは余程の役者であるのか、余程の狂人であるのか、まだ判別がつかなかった。
互いに、ティーカップには口をつけていない。
「時に……僕は、君と似ている。そう思うんだ」
「私と、ジルハさんが、ですか」
「そうとも。不服かい?」
そう聞いたものの、アルベルタは嫌そうな顔はせず、ふぅん、と頷いただけだった。ジルハに興味がないのだろう。そも、ジルハがどのような人間であるかをまだ知らないし、知ろうともしない。ジルハがアルベルタにとってただの商品とすれば、納得できる反応だった。
「僕は人間観察が好きでね。君のこともよく見ているよ。ジェーンからも話を聞いてる。真面目でよく働くいい子だ、ってね」
「そんな、私なんて……」
「でも」
純朴な少女らしく、お決まりのように謙遜したところに、言葉のナイフを刺す。ジルハがわざと滲ませた悪意という毒は、しっかりとアルベルタに届いたようだ。
「君は傲慢で、強欲だ。全てを手に入れたがっているし、そのためには手段を選ばない」
「……」
「ああ、断罪するつもりはないよ。僕だってそうだから。ただ……誰の、何に手を出そうとしているのか。それは知っておいた方がいいね」
牽制、のつもりだった。たったこれっぽっちで引き下がる女だとは思えなかったが、段階として。アルベルタはするりと表情を削げ落とした。そうしていると、血の通っていない人形のようだ。しばらく黙っていたアルベルタは、不意に柔らかな微笑みを浮かべて、ジルハを慈愛の眼差しで見た。哀れな子羊、と、神の座から見下ろす。それは、それこそ傲慢に。
「私は、道を歩むだけですよ。正しい道を」
疑いなどなく、曇りなく信じている。これは、ジルハとアルベルタの差異だった。ジルハは盲目的に信じているが、アルベルタは、信じたいもの以外をそもそも見ようともしていない。そんなある種の幼さは、一番、アルベルタの少女らしい部分だった。
*
キードは使用人部屋の寝床で目を覚ました。また眠っていたらしい。主人のハンスはいい意味でも悪い意味でも人間に、キードに興味がなく、寛容とも捉えられる対応をしている。三度の食事さえ出していれば、この奇妙な眠り病も許されていた。幼少期はそのようなことはなかったのだが、この異形館に迎えられて以降、眠り病に侵されている。ハンスは言った。瘴気にやられているのかもしれないね、と。半ば冗談めかしての台詞だったが、キードはそうだと思っている。黒魔術には詳しくない。それでもこの街には人魚伝説がある。キードにはわからない魔法、魔術、異形、呪い、その類が存在するのだ。
眠気に襲われたのは夕食の支度が終わってからのことだった。つまりは、もう仕事がない。強いて言えば、明日の仕込みをするぐらいだろうか。それももう少し後でもいい。あまり早く仕込みを終えても食材が悪くなってしまう。降ってわいた休憩時間だが、特段やることもなく、手持ち無沙汰にキッチンへ向かった。
ジェーンとアルベルタ、ジルハに用意した食事は食べてもらえたようだ。そのことに安堵する。ジルハはまだ、キードの料理を食べてくれるのだ、と。
キードは、双子の弟であるジルハに嫌われている。
それもそうだ。キードは、自分の精神の安定のために、ジルハを利用していた。
母は吹き荒れる嵐のような人だった。土を激しく叩く豪雨のような人だった。泣いて、叫んで、どうしようもない怒りを抱えていた。守ると言えば聞こえがいいだろう。ジルハを叩こうとする母の前に立って、代わりに叩かれた。ジルハを逃して、夜が明けるまで母の憎悪を受け止めた。野菜くずを集めて、川で魚を釣って、焼いたものを二人で食べた。肉屋に頭を下げて、土下座をして、運がよければ雑用の代わりに肉をもらえた。ジルハには大きく取りわけて、自分は少しだけ。そんなものは、自己犠牲でも何でもない。
兄である。守らなければならない弟がいる。そういった軸がなければ、自分を保てなかった。望まれなかった生を、母を不幸にした自分を、認められなかった。我が身可愛さに、善行をしている風を装って、ジルハに依存していた。ジルハは理解した上で、守られるべき弟でいてくれた。
母が通り魔に殺されて、行く宛がなくなってからのことだ。キードの言うことを聞くばかりだったジルハが、異形館の話をした。そこでなら、二人合わせて住み込みで働かせてもらえるだろう、とジルハから手を引いた。生まれて初めてのことだった。使用人になることが決まった際のことは覚えていない。記憶が曖昧なのだ。頭でも打ったのだろう。激しい頭痛と共に与えられた部屋で目を覚ました。
そして、それ以来、ジルハに会っていない。
きっと、母は呪縛であると同時に、ジルハとの絆の糸であったのだ。ぷつりと切れた糸を結び直すこともできずに、今に至る。
さて何をしようか、と棚のチェックをする。主人には出せないような茶葉も、キードたちにとっては上等なものだ。それが少し使われており、ティーカップが二組、ラックで乾かしてある。ジェーンとアルベルタが小さな茶会でも開いたのだろうか。あの二人は初対面が嘘のように親交を深めており、ジェーンはアルベルタを妹のように思っている節がある。思わず、笑みを浮かべた。焼き菓子もまた補充しておこう、と予定を立てる。
そうだ、と思い出した。ハーブ園の様子を見に行かなくてはならない。庭までの通路を辿って、外へ出る。キードは料理人として、ジルハは庭師として雇われている。この館の薔薇園とハーブ園はジルハが受け持っていた。料理に使うから、と言い訳をして、風にそよめくハーブを見つめる。こうしていると、ジルハの存在を感じられる気がした。これくらいは、許されよう。
二度と話せなくても、顔を見られなくても。弟を大事に思う気持ちは決して消えることがない。
鋭い音が鳴った。振り返ると、床には割れた皿が散っており、青褪めたアルベルタがいる。素手で破片を集めようとするアルベルタを慌てて制した。
「待て、待て。傷がつくだろう。俺が片付けるから、気にしなくていい」
「すみません、すみません、ああ、何てこと……」
「俺も何回か割ったことがある。だからってのも変だが、まあ、大丈夫だって」
箒を持って、破片を片付ける。アルベルタを宥めながらやっていたからか、最中に、うっかり傷を作ってしまった。指先から一雫血が出ていた。人に注意しておきながら、間抜けなことだ。決まり悪く、視線を逸らす。アルベルタは更に青くなって、キッチンを飛び出した。ぱたぱたと足音を立ててすぐに帰ってくる。腕には救急箱を抱えていた。
「悪い、心配かけたな。でも、大袈裟だろ」
「いいえ! 細かな傷でも、細菌が入れば病気になるんです。キードさんがご病気に罹ってしまわれたら、私、困ります」
本当に、心底そう思っている、と眉を下げて言われるものだから、吹き出してしまった。固辞する気も起きず、大人しく手当を受ける。傷口を水で流して、消毒をして、ガーゼを巻く。甲斐甲斐しい手当に、胸がくすぐったくなった。
こんなこと、母にもされたことがない。ちくり、と苦く痛い感傷が滲む。やはり、まだ、何もかも捨てきれていないのだなと自覚する。死んだ母のことも、憎みきれない。悪い親だったと言えない。ただ、哀れなひとだった。その腹から生まれたキードもまた、哀れなのだろう。
丁寧に巻かれたガーゼだったが、慣れてはいないようで、気がつけば解けてしまっていた。血はとっくに止まっている。指先に小さく点が残るのみだ。よく見なければわからない。解けた後も手当された時間の温かさを思い出す。青いな、と苦笑し、ぐらりと頭が揺れた。強烈な睡魔が襲う。いつものことだ。床に倒れぬよう寝床まで足を動かし、突っ伏する。寝息は、健やかなものだった。
*
一見すれば恋文のようだ。夜、誰もいない時間に、男が女を呼び出そうだなんて、色のある話だ。零時に、薔薇園で。そんなロマンティックなメッセージを書いて、アルベルタの部屋に差し入れた。来るか来ないかは賭けでもある。アルベルタはジルハを信用していない。警戒している。だけれども、哀れむべき者として見ている。ジルハは来るであろう方に賭けていた。己が整えた薔薇園で、ガーデンチェアに座りながら女を待っている。とてもではないが、浮かれた気持ちになどならない。
ジルハはアルベルタをこの館から追い出そうとしていた。
警告、牽制をしてもアルベルタは退くことがなく、懸命に働きながらも、日毎に鉄錆の匂いを変えている。何かを、している。ジルハは、キードを、世界を、楽園を守らなくてはならないのだ。アルベルタが露頭に迷おうが知ったことではない。館を追い出され、飢え死にしようが関係ない。ジルハの世界には不必要であるから、排除する。動機はそれで十分だ。暴行を働くでもいい、冤罪をなすりつけるでもいい、昏倒させ、縛って、街の外に放り出すでもいい。手段はいくらでもあった。
時計が零時を指す。大きな屋敷の使用人はまだ起きているだろうが、ここではキードもジェーンもハンスもすっかり眠っている時間だ。あの女は、現れるだろうか。そう思うより早く、アルベルタが薔薇をかき分けて姿を現した。
「……何か、御用でしょうか」
不安げな台詞。裏腹に、妙に熱のある視線。少女の形をした化け物。アルベルタが、ジルハを見た。不気味さに、背筋が冷える。アルベルタは愛らしく頬を紅潮させ、浮き足立っていた。大好物を目の前にした子供みたく、はしゃぐのを必死に堪えているようだった。理由がわからない。意味がわからない。不透明であることは、不安に繋がる。不安は、恐怖になる。ジルハは余裕のある態度を取り繕いながらも、この少女が恐ろしくて仕方がなかった。
アルベルタは微笑みながら、液体の入った瓶を取り出す。紅茶色をしたそれは、温かいようで、中に蒸気を作っていた。
「こんな時間ですから、スパイスと、はちみつの入ったお茶を作ってきたんです」
ジルハが仕掛ける前に、アルベルタは弾んだ調子で茶を注ぐ。湯気の立つカップからは、確かにスパイスとはちみつの香りがする。ジルハは疑って口をつけなかった。しかしアルベルタは迷いなく同じ茶を一口飲んで、美味しい、と笑った。
ぐるぐると思考が回る。もしかすると、アルベルタは、本当に純真無垢な少女なのではないかとすら思えてきた。仮にジルハに毒を盛りたいのだとすれば方法が稚拙すぎる。それに、同じものを飲んでみせた。少し悩んで、ジルハはゆったりと笑みを浮かべながら茶を飲んだ。
「うん、温まるね。ありがとう。君が作ったんだろ?」
「はい。スパイスの効いたもの、たまには口にしたくなるでしょう?」
無邪気で、嘘がない。それ故に、ジルハは惑う。不気味だ。ちぐはぐだ。歪だ。
頭がうまく回らない。いいや、これは、違う。頭が、重たく、考えることが、できない。ぐちゅ、ぐぶ。口から唾液が泡になって溢れる。目が開けられない。息ができない。
毒だ。けれども、それならば、なぜアルベルタは無事でいるのか。死なずいるのか。地面に倒れ伏したジルハに、アルベルタが駆け寄る。
「もう、いいかな。まだかな。もう、いいか」
何を言っているのか、と、疑問が脳に辿り着かずに、痛みがあった。熱い。冷たい。その両方であってどちらでもない感覚がする。腹にはナイフが刺さっており、えい、えい、と似つかわしくない声と共に躊躇いなく縦に動かされた。死がそこにある。近くにある。そのはずなのに、遠すぎる。ジルハはまだ意識を保っていた。
「毒草風味の若いお肉、どんな味だろう。美味しいかな。美味しくなかったら、嫌だな」
調子外れの鼻歌が聞こえる。視界は赤黒く、何も見えない。
震えながら、手を伸ばした。縋るものが欲しかったのかもしれない。自分を貪らんとする化け物の首を掴みたかったのかもしれない。がむしゃらに、手を伸ばして、最期。
「あら?」
不思議そうな声。それがジルハの聞いた最期の音だった。
*
どういうことかしら。どういうことかしら。もしかして、そういうことかしら。冷えてきた、傷のない指先を持って、アルベルタはふむふむと頷く。
「私、やっぱり、幸運で幸福だわ」
スパイスの効いた肉は、刺激的で、新しい風味だった。けれども、もう一度食べたい味ではないかも、と評価を下す。毒草だって、不死の身であれ腹を下すかもしれないのだ。とはいえ、幸運にも、代わりがいることが判明した。若い肉はもう一つある。今度はどんな味に挑戦しようかしら、と考えながら、食い散らかした骨や筋をかき集めた。ある程度は焼却炉に投げ込んだが、黒くなった血は土の色に馴染まない。ううん、と悩むアルベルタの頬を、濡らす雫がある。
「わあ、わあ」
一雫を皮切りに、大雨が降ってきた。駆け足で薔薇園を後にする。濡れた髪や服が張り付くものの、この雨が全てを洗い流してくれることだろう。
幸運で、幸福。独り言のつもりだったが、空が肯定を返してくれたのだ。ありがとう、とお礼を言いかけて、立ち止まる。
「こんなにも愛してくれるのなら、姿を見せてくれたらいいのに。神様ったら意地悪なのね」
姿を見せてくれたなら。姿があるのならば。アルベルタも、愛してあげられたのに。
アルベルタの腹の中へ、招いてやれたのに。
*
ジェーンはいち早く異変に気づいていた。ジルハのことは好きになれないが、咲き誇る薔薇を見るのは日課であったからだ。薔薇が枯れている。そして、ここ最近、キードが唐突に眠ることがなくなった。点と点が線で繋がれ、答えを導き出す。もしかしてハーブ園も、と覗きに行くと、怪訝そうな顔をしたキードがいた。
「お、ジェーンか。お疲れ。なあ、おかしいと思わないか?」
おかしいというのは、十中八九薔薇園とハーブ園のことだろう。おかしい理由はわかっている。それを、キードには言えない。ジェーンは曖昧な返事をした。
「ジルハは仕事をサボるようなやつじゃないんだがな……なあ、あいつにちょっと聞いてみてくれないか。俺は、その……嫌われているから」
「そう、そうね、ええ。でも、ええっと。私も少し難しいわね……」
「ジェーンはジルハが苦手だもんな。まあ、無理にとは言わないさ。あいつも調子が悪いのかもしれないし、俺たちで手を加えていこう」
「そうね、それがいいわ」
キードが無理強いをしない性格で助かった。どのようなきっかけがあったのかは不明だが、主人格が消えた。もしくは、眠っているのか。ともかく、ジェーンが共に働きやすいのは断然キードだ。あの狂った男がいないのならばジェーンにとってはいい出来事と言えよう。
二人が同時にいないからか、アルベルタもやってきた。珍妙な空気の漂う空間に首を傾げ、ジェーンの顔を見て納得したらしい。そういうことよ、と目で語る。アルベルタはいい子であるから、キードに余計なことを言ったりはしない。これは、ジェーンたちが黙っていればなかったことになる話なのだ。
キードは考えることをやめたのか、よし、と手を叩いて、ハーブ園に背を向けた。三人で並んで、キッチンに向かう。朝の仕事は終えて、これから使用人たちの朝食だ。らしくなく気を回したせいか、くう、と腹が鳴る。
「今日は、ハムの切れ端でも焼くか。どのくらい食べる?」
「私は、多めにお願い。アルベルタは?」
「私は、少なめで」
「何よ、いつもそうじゃない。ちゃんと食べなさいよ。倒れるわよ」
アルベルタは多めにお願いすることが滅多にない。体も華奢であるし、ジェーンとしては心配だ。休憩の取りやすい館であるが、アルベルタは熱心に働いて動いている。買い出しもすっかり任せていた。それは、あまり食べないアルベルタが買い出しの際は果実をつまみ食いして帰るからだ。仕事にも楽しみがあるべきだし、きちんと食べてくれるのなら安心もする。
アルベルタはにっこりと笑って、ジェーンに言った。
「ありがとうございます。でも、この間、いっぱい食べたばかりなんです」
「そう……美味しかった?」
「……そこそこ、でしたね」
「ちゃんといいのを選んで食べなさいよ! いい? 果実にも選び方があるんだからね。今度、教えてあげる」
ジェーンは張り切って、アルベルタに顔を寄せた。純粋な彼女には毒気を抜かれる。実際の年齢よりも稚さがあるのだ。ジェーンが子供好きなこともあり、ついつい面倒を見たくなってしまう。
はい、と真っ直ぐに返事をしたアルベルタは、前よりも綺麗になった。やはり、その日の食事もままならない貧民街より、この館での暮らしはいいものなのだろう。薄桃色の頬はふっくらと曲線を描き、夕焼け色の髪は艶やかだ。うっとりするようなその髪に櫛を通してやるのが好きなジェーンは、満足していた。
だが、思うことがある。アルベルタの、瞳だけは。若葉の緑をして、それでいて作り物のよう。人間そっくりの、人形のよう。温度を持たない、硝子のよう。時折、ほんの少しだけ、怯えてしまうことがある。このような館にいるからだろうか。異形のものであるかのような、感覚があった。それは、その色が珍しいからだろう。緑の瞳は、あまり見ない。伝説で語られる人魚はそのような瞳を持っていたと語られるが、緑眼の人間とは出会ったことがなかった。
そう思うと、美しい髪に、美しい瞳。まるで、人魚みたい。ジェーンはそう思った。
今度、歌を教えてあげようかしら、人魚のように綺麗な歌声に違いないわ、と胸を弾ませた。




